■1965ダリ「ダリの太陽」
太陽と自己と故郷カタルーニャにあるサンタ・マリア教会とをイコンに。
1964,10,16。
東京オリンピックの年。
中国が初の原爆実験を実施した=写真。
─── 原水爆と衛星を手にする「両弾一星」との標語を。
隣国の日本でも「死の灰」とみられる放射性物質の飛来が観測され、
市民の間に不安が広がった。
中国は
「核兵器の開発は(核を持つ米国などからの)防衛のため」などとする声明を発表。
日本は鈴木善幸官房長官が
「全人類の(核軍縮という)悲願を無視するもので極めて遺憾」と非難した。
中国はその後も実験を繰り返し、
3年後には水爆実験に成功。
長距離ミサイルも開発し、米ロと並ぶ核大国になっていく。
92年には核拡散防止条約(NPT)に加盟したが、
インド、パキスタン、北朝鮮が核実験を実施したほか
イランも開発を進めており、核の恐怖は広がり続けている。
わたしのいつでもいいものをと
素ッピンの草原
そして、太陽がそこから転げ出る
ダリの場合、力強く
しかし、ユニークに諧謔する
ウィンクする太陽
一方の跳ね上がるちょび髭などだ
時間の中で永遠の青春のパンテォンが廻り
自身が神話する
拝跪して胸に手を当て
うやうやしく
わたしは間違いではなかった
わたしはみずみずしく草原に立ち
わたしの背後では太陽が赤々と焔へてゐる
古城の城砦は崩れ
いまさら神々が棲むとも思へなかったが
・・・のやうに終末の丘にイコンを置く
彼らしいやり方だ
自身を神になぞらえて
そして、世界に警告する
nuclear───
何年か前からずっと
原爆ばかりではなく
水爆の実験も行われていたからだった
倉石智證
1953,12「Atoms for peace」
アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会で演説。
これを日本で熱狂的に支持したのが正力松太郎である。
戦後になって、世界は原子力の平和利用の道も競い始めた。
「原子力を平和のために」。
53年のアイゼンハワー米大統領の国連演説がきっかけだ。
世界で初めて発電用の原子炉を稼働させたのは今度はソ連だった。
モスクワ近郊のオブニンスク原発だ。
運転を始めたのが54,6月。
今日がその記念日という。(「春秋」11,6/27日経)
アメリカはソ連の原爆保有で原爆独占が崩れると
1952年1月水爆開発に着手、
1952年11月1日、エニウェトク環礁で人類初の水爆実験、
アイビー作戦 (Operation Ivy) が実施された。
1954年3月1日,一連の水爆実験の第一弾を爆発させた。
“第五福竜丸事件”
1954年3月1日、
日本のマグロ漁船、第五福竜丸が水爆実験の死の灰を浴びた。
第五福竜丸事件の第一報は静岡県の母港焼津に帰港してから2日後の
3月16日、読売新聞朝刊に載り、各新聞が続いた。
同日の「夕刊日本経済」は
「日本漁夫廿(ぎょふにじゅう)三名が原子病
/“キノコ雲”を望見
/ビキニ付近に出漁中」
との見出しを掲げて事件を報じている。
この日以後、証言と調査、報道が積み重ねられ、事件の詳細が明らかにされた。
太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から東へ160キロメートル付近で操業中だった
第五福竜丸の乗組員が、遠くに火のかたまりを見たのは現地時間の午前6時45分。
やがて白い灰が降り、乗組員にも付着した。
彼らはやけど、頭痛、吐き気などに襲われ、頭髪が抜ける症状も現れた。
帰港後、重症の2人は東大病院で診断を受け、
ほかの乗組員21人も東京などの病院に入った。
船上に降った灰は放射能を帯びたサンゴのちりと考えられ、
米国がビキニ環礁で行った水爆実験で飛散した。
被災当時、第五福竜丸は米軍指定の「危険区域」から30キロ離れていたという。
乗組員の1人が被曝から半年後に亡くなり、
退院できた22人の多くが肝臓がんや肝硬変を発症した。
(宝玉正彦12,9/2日経)
(1954,3/16)1面には
「原子力委員会を設置/平和的利用を検討」の見出し。
当日の参院予算委員会の質疑の様子が報じられている。
原子力の「工業的利用」を日本も図る必要はないかとの質問に、
副総理が「委員会を設置して十分検討し、その方向に急ぎたい」
と答弁したと記されている。
4日前の記事には「原子炉製造のための基礎調査費」が予算計上されたとあり、
第五福竜丸事件で騒然とした時期、
日本が原子力の時代を目指していたのが分かる。
3月16日の紙面には
「ディエンビエンフーの攻防戦激烈」「ホー軍援助を阻止」
との見出しが躍っている。
ディエンビエンフーはベトナム北西部の都市、
ホー軍は旧北ベトナムの最高指導者となるホー・チ・ミンが率いた軍隊のこと。
北ベトナムは旧宗主国フランスと戦い、
この年、ディエンビエンフーで激戦を展開した末、勝利した。
同じ面には
ソ連圏の軍備増強、
原子力技術の発展を米軍が懸念している旨を伝える記事も出ている。
(宝玉正彦12,9/2日経)
1954,3/16日、読売新聞は、
マグロ漁船第五福竜丸が太平洋のビキニ環礁近海を航行中、
米国の水爆実験に遭遇、「死の灰」を浴びて静岡県の焼津港に寄港したことをスクープした。
直後の22日、米国防長官補佐官アースキンは、
日本における反米世論の高まりを抑えるために、
日本に原子炉を建設するよう国家安全保障会議作戦調整委員会に進言する。
一方、読売新聞を率いる正力松太郎の側近、柴田秀利もこう考えた。
「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、
それによって、偉大な産業革命の明日に希望を与える他はない」。
米政府と日本のメディアが「原水爆反対」の世論に対抗するため、
手を携えて突き進んだのが
「原子力の平和利用のキャンペーン」だった。
正力はその後、科学技術庁の初代長官に就く(1956,1月)。
(山崎正勝「日本の核開発」上丸洋一評論12,3/11朝日新聞)
「ついに太陽をとらえた」
正力松太郎がまだ国会議員に立候補する前の
1954年元日から読売新聞は
「ついに太陽をとらえた」という大型連載を開始します。
「原子力は平和利用できる。
そのエネルギーを使えば地上に太陽を作り出すこともできる。
人類は無限のエネルギーを手にしたのだ」と謳い上げたのです。
敗戦からわずか9年。
原子爆弾という負の面からしか原子力を見ていなかった読者にとって、
原子力エネルギーこそが復興の救世主となるという主張は新鮮で、
むさぼるように読まれました。
この連載によって初めて原子力を知ったという読者も多く、
原子力に好意的な世論を形成しました。
(池上彰東工大講義録12,5/14日経)
原子力研究予算2億3500万円(334億円)
予算編成時に取引を。
以前インタビューを、すると、
「ウラン235にちなんで2億3500万円にしました」愕然とする話・・・
中曽根康弘元首相(核の平和利用を政治の場で推進する立場)は
当時、改進党という野党。
1954年(昭和29年)、政権政党の自由党の国会の議席数だけでは予算が通らないということで、
改進党に協力を求めてきたのです。
勢力は小さかったのですが、中曽根氏は
「じゃあ、自由党に協力しよう。その代わり、我々の予算要求を認めてほしい」
といって原子力研究を認めさせました。
こうして国家予算に初めて原子力研究予算が付きました。
2億3500万円でした。
現在の価値に換算すると、ざっと334億円ぐらいの規模になります。
(池上彰13,5/20)
