友達からメールが廻されてきた。

バッハを聞きたまへ───

http://bach-chaconne.blogspot.jp/2011/10/001bach-chaconne.html

シャコンヌは雨が降る、やたら明るい日にとか、と思ってもいたが、

この激甚な暑さにふとなにかを思ひ出した。

陰々滅滅の暑さの中で、

鋼鉄が灼けるやうな暑さの中でこそ、聞くのだ。


「亭主の好きな赤烏帽子」

 

「シャコンヌを聞きつゝ暑さ忍ぶれば

頭蓋の中にきのこ雲立つ」(智笑)

 

ナチスの手口に学べばいい・・・

ワイマール憲法はウィルソン米大統領などが支援、奨めた経緯がある。

ナチスは1920年代半ばころから育ってきている。

ベルリン体制の下、ドイツは天文学的なハイパーインフレの洪水に見舞われる。

戦後の日銀総裁一万田尚登はベルリンに勤務(1924~26)している。

上流階級の娘たちも街(街娼)に出る。

「農民は穀物の値上げ、労働者はパンの値下げ、パン屋と食品店はより大きな利益を獲得する」。

ナチスのゲッペルス宣伝相はこう訴えたという。

混沌と混乱の中で、───

「経済人の終わり」1939刊行

ピーター・ドラッカー氏と言えばマネジメント論の神様として知られるが、

世に出るきっかけとなったのはナチズムを分析した書物だった。

1939年に刊行された「経済人の終わり」である。

チャーチルが激賞してベストセラーになった。

経済や政治が混沌とする中で人々が

自由や資本主義など既存の価値に不信感を抱くようになったこと。

必ずしも政策に同調したわけではないが、

世の中が一気に良くなる奇跡をヒトラーに望むようになったこと。

そして知識人層が、おかしな方向に進んでいることに気づきながら

「無関心の罪」を犯したこと。

そんな社会の土壌を肥やしにナチスという怪物が巨大化し、

経済や社会から自由が奪われていく状況を、ドラッカーはドイツで身を持って体験した。

(実哲也・論説委員長13,8/11日経)

 

ナチス政権は国民の圧倒的な熱狂の中で

1933に成立する。

 

一万田が考査部長に就任した時(1939)、

日本の金融システムは既に臨時資金調整法による統制下にあった。

各産業を優先度が高い方から順に甲、乙、丙に区分し、

その基準に基づいて主に金融機関の業界団体の自主規制によって

設備資金の流れを統制しようとしたのである。

民間金融機関などの資金配分への政府統制が開始された。

 

1939「国家総動員法」により統制経済はさらに。

1937,8「改正暴利取締令」なるものがあったが、

39年9月18日時点での

・価格に固定した物品(マル停)、

・業者の組合で9/18価格と異なる価格を協定し官庁の許可を得た物品(マル協)のほか、

・政府が「公定価格を設定し「マル公」マークをつけるという価格統制の方法をとった。

■マル停

■マル協

■マル公

(統制)は→通貨、生産、物流、物価、配分へと。

 

1939日本発送電と配電会社9社

電力の国家管理───

日本最初の電力会社である東京電灯(現在の東京電力の前身)が設立されたのは

1883年(明治16年)のことである。

1883年から1939年3月まで民有民営の多数の電力会社が主たる存在で、

それに地方公共団体が所有・経営する公営電気事業が部分的に併存した。

次が

1939年4月から51年4月まで。

民有国営の日本発送電と配電会社9社が

それぞれ発電送電事業と配電(小売り)事業を独占した電力国家管理の時代だ。

 

一方で、

資本主義の実体とは=利潤に動機づけられた労働と資本の投入

→複利的資本蓄積= 「剰余価値」(経済成長)

となる。

 

一方で、

イノベーションは、歴史的に見るとほとんど常に

「利潤」と「戦争」によって動機づけられてきた。

国家が存亡の機に際して経済への統制を強め、

企業レベルの損得勘定を超えた多額の開発予算をつぎ込む。

軍事技術と民生技術は不可分になる。

資本主義の発展経路で国家と独占資本が結びつく段階が

在る=「唯物史観」としてマルクスは説明する。

経済界の巨頭が政治の主要ポストを占めるようになるのだ。

 

あの“アントレプレナー”のシュンペーターは───

シュンペーターは大著「景気循環論」(1939年刊)で、

ケインズ的な景気安定化政策としての金融政策には極めて懐疑的な見解を披瀝している。

不況のときに金利を下げるのは「政治的な儀式にすぎない」とまで言った。

その一方で、政策当局にとって最も大切なのは、

バブルが起きないよう警戒を怠らず、

金融市場の安定を維持するための制度を整えることだとした。

そのためシュンペーターは「預金保険制度」を高く評価した。

 

大衆は愚かだ。選挙を通じて平和や成長を邪魔する(倉石)

 

1939巷では───

日野原重明

女工さんと結核」

「28歳で医師になって初めての患者は16歳の女工さんでした。

母親も滋賀県の紡績会社で女工をしていて京都まで見舞いになかなか来られない。

結核性腹膜炎という病気で腹痛に苦しんでいた彼女がある日

『先生、私はもう死んでいくような気がします。

お母さんに感謝していたと伝えてください』という。

私は強心剤を注射して

『そんなばかなこといわないで。頑張って頑張って』というばかり。

やがて彼女が息を引き取った後、

母親ともども熱心な仏教徒だった彼女になぜ

『お母さんには感謝の言葉をお伝えするから安心して成仏しなさい』と

言ってあげられなかったのか、と悔やみました」

 

棟方志功

昭和14年(1939年)、36歳「二菩薩釈迦十大弟子」。

上野の博物館で興福寺の須菩提をみて、釈迦の十大弟子をつくることを思いついたという。

 

1939『風と共に去りぬ』( Gone With the Windヴィクター・フレミング監督作)

ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル

日米彼我の差。

 

森繁久弥

新京NHK(現長春)

昭和24(1939)年、森繁久弥はNHKの試験を受けて新京の放送局に採用された。

26歳から33歳まで7年間、満州で暮らした。

食べ物も豊富で、給料も良かった。

家族を呼び寄せたら終戦になった。

 

白鳥敏夫

一見する「革新的」外交とは───

戦前の外交官は「幣原外交」に象徴されるように、

親英米の現状維持であり、横暴な陸軍によって引き摺(ず)られたとのイメージが強い。

しかし、外務省にも軍部以上に強硬な主張を行う

外務省革新派」なるグループが存在した。

その代表格は靖国神社A級戦犯合祀(1978)問題で

昭和天皇が「不快感」を示されたとされる白鳥敏夫である。

彼らは

・ワシントン体制打破、

・独伊との提携強化、さらには

・対ソ必戦論を唱えただけでなく、次第に教条的になり、

「皇道外交」を提唱、

「世界維新戦争たる大東亜戦争」勝利のためには

「錦旗粛々とアメリカ大平原を進撃」せねばならないとまで主張するにいたる。

しかし、政策決定における影響力は限定的であった。

実際の外交政策は、彼らに近い思想を有していた

近衛文麿首相

松岡洋右外相ら政治指導者によって具体化されることになるが、

むしろ注目されるのは単純明快な議論で世論を先導した

言論における「革新派」の役割のことである。

彼らは「外交の大衆化」を促し「民主化の申し子」となる。

そしてブーメラン現象で戻ってきたより強硬な世論によって

政策決定の幅を自ら狭めていくことになるのである。

つまり、1930年代後半以降戦争への道を招いたのは、

軍人ではなく文官のイデオロギー外交であったと指摘される所以(ゆえん)である。

 

1938年、白鳥はイタリア大使に就任する。

1939年1月、平沼騏一郎内閣が成立し、

ナチスドイツは再び平沼内閣へ三国同盟結成を提案した

(1938年8月にドイツは近衛内閣へ議案を提出したが、内閣の意見がまとまらず、実現しなかった)。

大島浩駐ドイツ大使白鳥敏夫駐イタリア大使は、

この提案に積極的賛同と支持を表明し、連名で内閣へ賛成意見を提出した。

平沼内閣は直ちにドイツ提案に関する討議を行い、

板垣征四郎陸軍大臣と東条英機陸軍次長が三国軍事同盟の結成に積極的賛同を示した。

 

ノモンハン事件

(1939)5~9月ノモンハンで起こった軍事衝突事件。

ロシアは日露戦争をよく研究。

一方日本は“鎧袖一触”と傲慢に思いあがっていた。

1939,8/23に突然ドイツがソビエト連邦と「独ソ不可侵条約」を締結したため、

衝撃を受けた平沼首相8/28に

「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して内閣総辞職した。

平沼騏一郎の息子(養子)が、あの慎太郎と仲のいい平沼赳夫である。

 

1940,9/27

日独伊三国はベルリンで三国軍事同盟条約を正式に締結した。

 

終戦後、白鳥は

キリスト教の国教化と戦争放棄による

天皇制の護持を主張、

東京裁判のA級戦犯として終身禁固判決後、

1949年9月、服役期間中に獄死した。

 

1939英国

It is to this high purpose that I now call my people at home

and my peoples across the seas,

who will make our cause their own.

I ask them to stand calm, and firm and united in this time of trial.

The task will be hard.

There may be dark days ahead,

and war can no longer be confined to the battlefield.

But we can only do the right as we see the right,

and reverently commit our cause to God.

If one and all we keep resolutely faithful to it,

ready for whatever service or sacrifice it may demand,

then, with God's help, we shall prevail.

May He bless and keep us all.

 

この崇高な目的のために、今、私は国内外のすべての国民を召集します。

我が国民は、我々が開戦に至った理由を、

自分たち自身のものとして理解してくれるでしょう。

この試練の時に、冷静に、堅固に、結束して構えて欲しいのです。

任務は厳しいでしょう。

暗い日々が待ち受け、戦争はもはや戦場だけで行われるものではなくなるでしょう。

しかし我々は、我々が正しいと信じることだけを行い、

厳粛に神に仕えましょう。

我々が固い意志を持ち、神に忠実であるならば、

神がどのような犠牲を望んでも覚悟して臨むならば、

神のご意志のもと、我々は勝利するでしょう。
神の加護が我々とともにあらんことを。

 

1940

アラゴン「フランスの起床ラッパ」

「神を信じた者も信じなかった者も、

麦があられに打たれている時に気難しいのは愚かなこと……」。

フランスの抵抗派詩人アラゴンは第2次世界大戦末期、

詩集「フランスの起床ラッパ」を著し、国民を奮い立たせた。

「教えることは希望を語ること、学ぶことは誠実を胸に刻むこと」。

大学教授や学生へのナチスの弾圧にはこう応じた。

 

そして、敗戦、原爆へと結ぶ。

「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史(1~3)」

オリバー・ストーン、ピーター・カズニック著

本書は「プラトーン」「JFK」などの作品で知られる

社会派の映画監督オリバー・ストーンと歴史学者のピーター・カズニックが編む

「帝国」としての米国史である。

 

広島と長崎への原爆投下が必要なかったとの記述。

米国では原爆投下は戦争の早期終結のためとして正当化されている。

しかし、米国は日本が降伏寸前であったことを知りながら、

ソ連を牽制(けんせい)するために投下を決断した、というのが本書の説だ。

「原子爆弾の保有・示威行為」によって

欧州での「ソ連の影響力」を抑えようとしたバーンズ国務長官の思惑が詳述される。

 

(オリバー・ストーン13,8/11日経)

「クリントン前国務長官も含め、米民主党内に集まる

『冷戦リベラル派』は基本的に米共和党と変わらない。

大企業、メディア、学界、そしてウォール街は皆、

米国という名の『帝国』を建設する側にいる」

「私は彼らを『産軍・国際安保複合体』と呼んでいる。

彼らは静かに、しかし着実にある種の『革命』を進行させている。

それは政府による国民に対する(公権力の強化という)革命だ」

 

■グローバル市場経済メカニズムで

■戦後の平和外交で

当時のドイツと程度は違うにせよ、

経済の停滞が長引き、対外関係も緊張する中で、

人々の価値観や物の見方に揺らぎが生じているようにみえるからだ。

市場経済メカニズムを重視したやり方で本当に暮らしは良くなり、格差は縮まるのか。

戦後の平和外交のままで国は守れるのか。

漠然とした不安や不満が頭をもたげている感がある。

ドラッカーの教えに習えば、

自由で民主的な秩序を維持するためのカギは社会の側、

つまりわれわれ一人ひとりがどう考え、どう動くかにある。

「ドラッカーの原点は、一人ひとりが位置と役割を持つ自由な社会をめざすことにあった」

(生前のドラッカーと親交を深めた田中弥生・日本NPO学会会長)

(実哲也・論説委員長13,8/11日経)

 

たとえば幸せの条件

■低金利  

■物価安定

■減税

そして、日々の「経済的変化」とは“新しい唯物史観”が浸食している。

資本主義の実体とは=利潤に動機づけられた労働と資本の投入

→複利的資本蓄積= 「剰余価値」(経済成長)

日々の「経済的変化」とは“新しい唯物史観”。

例えば「だれがマックを食べたのか」

(コンビニやオリジン弁当、または食が細くなった若い世代)、

またはコンビニ生活モデルは

→無党派人口に現れる。

非正規

→(労働組合的なもの)「年功序列」「終身雇用」とは無縁になる。

 

格差是正

■賃金で(繁忙・成長)

■税再配分・年金、保険、医療の仕組み   

■金利

■公共投資

格差が激しくなると

社会は→右傾化するか

“魔女狩り”が始まる(倉石)

 

動物化したポストモダン(ナチス台頭期)ヶ始まるのだ。

思想が枯渇し感情や、「目の前」や、サッカー的ウェーブ。

 

多数が貧乏になると

→低所得者ほど(高所得者から税をとって)格差を是正するように求めます。

もし、格差が拡大し低所得者層の人数が多くなれば、

選挙を通じて低所得者の主張が反映されやすくなります。

高所得者の負担をより重くするような累進的な税制が実現する可能性が高くなるでしょう。

そうなると、高所得者の労働意欲が低下しますし、

生産規模の拡大につながる投資も進みません。

結果として経済成長が伸び悩むわけです。

(慶応義塾大学教授 土居丈朗12,12/3日経 )

 

再び、原爆とchaconneへ。

長崎市の田上富久市長が9日の平和祈念式典で読み上げた平和宣言の要旨

1発の原子爆弾で

24万人の市民のうち

15万人が傷つき、うち

7万4千人が命を奪われました。

日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。

(2013)4月、ジュネーブで開催された

核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会で、

核兵器の非人道性を訴える共同声明に、

日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。

NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、

NPTを形骸化し、北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、

朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。

・・・・・・

 

1945

俳人池田澄子(9歳か)

あぁ死ぬつもりなんだ、と思った。怖くはなかった───。

夏休みも終り二学期が始まり、暦の上だけではない秋になった或る日暮、

母に誘われ散歩に出た。

散歩なんてしたことないし、散歩する時刻でもない。

母は下の弟をおぶって、上の弟と私の手を引いて歩いた。

泳ぎには行っても散歩になど行ったことのない川辺をどこまでも歩いた。

あぁ死ぬつもりなんだ、と思った。

怖くはなかった。

随分と遠くまで歩いて、行ったことのない大きな橋を渡り、

はるばると帰った。

そうか、死ねなかったのね、と思った。

ほっとしたわけでもない。

祖母は感づいていたのかどうか、何事もなかったように夕食になった。

(日経)

 

父は自分の実家に家族を預けて出征(1942)か。

父は漢口で死んだ。

一九四四年の夏、父の死を知った。

八月二十日に死んだらしい。

父にはお骨はない。

船が沈み、お骨は海に沈んだので、白木の箱に父は居なかった。

 

「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」

「前ヘススメ前ヘススミテ還(かえ)ラザル」

多くの若者たちが、たとえば終戦時19歳くらいを境にして、

戦死するか、或いは戦後生き延びて復興に邁進するか、

に分かれる。

池田澄子さんは、

たとへば、鹿屋~飛び立っていった特攻の兵士たちも、

あるいはじゃんけんで負けた人たちで、

今さら運命を云々とは云へないながら、

あゝ、蛍になって還って来るんだね、と・・・。