「亭主の好きな赤烏帽子」

■1952国吉康雄が亡くなる前年に描いた「ミスター・エース」

またまた、久里さんの場合───

家内が國吉の絵を見て、
「あの新聞を読む女の絵、欲しいわ」
と、言った。
「ああ、あの絵か、展覧会の会期中に
かっぱらって来てやる」
と、豪語した。
そして、一週間後、國吉の新聞を読む女の絵を
家内に見せた。
「どうだ、國吉の絵だよ」
家内は驚き喜んだ。

久里さんは模写した國吉の絵を素敵に奥さんにプレゼントなさったわけだ。


「亭主の好きな赤烏帽子」
■1935国吉康雄「ディリーニュース」


この「かっぱらう」がすごい。

夭折のレイモン・ラディゲ

ではなく、

年寄りはみなラディカルだ

みな苦節や屈折がある

だからみんなどこか堪へ性がない

脱いでしまへ

公衆の面前でのパンツではない

仮面のことである


すごいエネルギーの放射を感じる

なみなみならぬ年寄りだ

排日の熱風の中で

故郷忘れて花いちもんめ

うっ屈と屈折と不安と屈辱と


agua(ヒキガエル)、さあ隠れもなく道に出て来なさい

これがわたしの命そのもの

醜くあらうがなからうが

これが私のいのちの歓喜

抗へない存在を伝説と神話にするには雷と放電が必要だった


仮面を引き剥ぐ激しい音がする

わたしはここにゐる、わたしがこれだ

隠れもなく───

そして、仮面のピエロはじろりとこちらを見やる

戦争は終わった

まるで私たちの時代の怯懦を見透かすやうに


倉石智證

1906単身アメリカへ(17歳)

1910ニューヨークへ

アルバイトに励みながらも、一貫して絵の勉強を続けてゐる。

ジュール・パスキンと知り合う。

1921ニューヨークのダニエル画廊で初個展。

子供や牛を題材にした、プリミティブで幻想的な画風は、徐々にアメリカの画壇でも認められていく。

1924年の米国排日移民法成立

1925年・28年と2度に渡ってヨーロッパを旅行(ジュール・パスキンも一緒に)。

1931カーネギー・インスティテュート主催の国際美術展で佳作を受賞。

この年、日本に一時帰国。

(野口英世も同年帰国、母しかと会うが)

マスコミなどの熱烈な歓迎を受けるが、

その帰国時に体験した日米間の文化的ギャップや、

身辺に起こった数々の不幸も重なって祖国喪失者としての自覚や、

それに対する苦悩や葛藤が以後國吉のレーゾンデートルに深い翳を落とすやうになる。


1952近辺では───


「亭主の好きな赤烏帽子」

■1947マチス「ジャズ8イカルス」


「亭主の好きな赤烏帽子」
■1952岡本太郎「顔」


どのおっさんたちもみんなラディカルに元気だ。