皇紀2602年になっていた。

1942伊東深水「皇紀二千六百二年婦女図」(写真は部分)は、

旧厚生省が研究中だった標準服を基に深水が考案して描いた。

ブーツをはいた3人の女性がさっそうと雪中を歩く姿は、戦時とは思えないほどモダンだ。
「亭主の好きな赤烏帽子」


しかし、この緊張感に満ちた表情はただ事ではない。

一方でこの年にこんな絵もある。

例の靉光のこれも不安な精神の表出である。


「亭主の好きな赤烏帽子」

1941年にふたたび少しさかのぼる。

(生田正治11,1/3「私の履歴書」)

1941年4月1日に小学校は国民学校となり

1年生の国語教科書の第1ページは

「さいた さいた さくらがさいた」から

「こまいぬさん“あ”。こまいぬさん“うん”」に一新された。

この年、六甲摩耶山のケーブル乗り口に近い福住国民学校に入学。

その数カ月後、関西学院大学が仁川に引っ越した後の

王子の空き校舎に上筒井(かみつつい)国民学校が新設されたので、

多くの級友とともにそこへ集団転校させられた。

41,7月、米国が在米日本資産を凍結。

10月には東条内閣が成立。太平洋戦争開戦の道をひた走り、

12月8日の真珠湾攻撃となる。

広い校庭と校舎には陸軍の対空防衛部隊が駐屯し、

夜間に飛来する敵機を照らす探照灯、

高射砲がそれぞれ数基とトーチカや塹壕(ざんごう)が配置されていた。

連日兵隊さんが訓練に励んでいるのを教室の窓越しに見物していただけで、

勉強した記憶はほとんどない。

放課後は校庭に出て訓練を終えた兵隊さんたちと遊んだ。

東北出身の兵隊さんが多く、

村上上等兵が「君たちはお国の将来のために一生懸命勉強しろよ」

と言って弟のようにかわいがってくれた。

その上筒井国民学校跡は市立王子動物園となっている。


41,7月、米国が在米日本資産を凍結。

10月には東条内閣が成立。太平洋戦争開戦の道をひた走り、

12月8日の真珠湾攻撃となる。

当日は早朝からラジオが「敵は幾万ありとても」と勇壮な軍歌をバックに、

対米英開戦、真珠湾奇襲攻撃大成功の大本営発表を繰り返し、

街では号外が乱舞した。

校庭に整列した私たちに校長先生は

「大和魂をもって戦えば、神国日本は必ず勝つ」と力強く訓示し、

私たちは何の疑念もなく勝利を信じて熱狂した。


(米沢富美子慶大名誉教授12,6/2「私の履歴書」)

母は野村証券に就職し、職場結婚した。

その相手が私の父、武文だ。

長崎生まれだが、肉親の縁が薄かったこともあり、結婚後は吹田の家で暮らすことになった。

結婚の翌年、1938年に私が生まれる。

父はカメラ好きで、娘の写真をせっせと撮り、アルバムに整理してくれた。

41年の初めに妹の満喜子が生まれる。

父母と祖父母と私と妹。平凡だけど、仲よく幸せな一家だった。ところが、

41年7月3日に事態は急変する。

夕食後に入浴した父は浴衣姿で私に添い寝し、

「極楽、極楽」と体を伸ばしていた。

「電報!」。まるで悪魔の所業である。

父が体を伸ばしたその瞬間に、召集令状が届いた。

極楽が一転、地獄に変わった。


妹は生後5カ月で授乳が必要だったが、心痛で母のお乳が止まった。

丸刈り頭になった父の複雑な表情を母が覚えている。

つらい思いを顔に出すのは許されない時代である。

「ご出征おめでとう」や「バンザイ」の嵐に送られ、父は出ていった。


1941ホー・チミンは雲南省から国境を越えて祖国ベトナムに30年ぶりに帰国し、

カオバン省に入った。

ベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織、

日本軍に対する武装闘争の準備に着手。

51歳になっていた。


民族独立と云へばまず、安重根(アン ジュングン)が思い出されるが、

1910,3/26に死刑執行、31歳だったから生きていれば61歳になってゐる。

歴史に「If」は評価されないが伊藤博文が存命していたならば、

日本やアジアの歴史も随分異なっていたかもしれない。

伊藤博文はご存じのとおり“小日本主義”だ。

満州も、朝鮮半島も民族自決が前提であり、

そのためには日本も支援するが、国家にそれぞれの産業を興すことで、

お互いの交易を盛んにすることで、A・スミスではないが、

国家分業の敷衍の後、お互いに豊かに栄える、といふ理想だったのではないだらうか。


2010,8/22ニュース

博文のメモ見つかりぬ「併合」の粛然として秋に入りぬ(智笑)

けふは日韓併合条約締結の日である。

博文の桂太郎首相に送る、“併合”の電文の下書きが見つかった。

通訳兼の前間恭作が捨てずにとっておいたやうだ。

電報の原案を書いている。

墨で棒線が引いてあったり、書き直したりした跡がうかがえる。

「韓国の富強の実が結ぶまで」・・・博文には「併合」という考えはなく、

独立を維持したうえでアジアの共通の基盤を築いていこうとする意思が

あらためて浮きぼりになった。

統監に関しても任せきれない外務官僚ではなく自らが担うことを記している。

日韓併合の日から100年が経った───私のメモに。


伊藤博文山縣有朋桂太郎も長州属だが、

外遊もある博文に比べて、馬関戦争以来国内ばかりの山縣の単線的な思考タイプに対して、

博文の思考経路はかなりワールドワイドで複線型だ。

博文は日清から日露戦争も、一貫して反対派であった。

アジアにそれでも“ウィン・ウィン”の関係を築くにはどうしたらいいかを考えていたに違いない。

山縣が指示を出し、桂太郎が執行する。

幸徳秋水らが大逆罪で絞首刑にされたのは1911正月明け。

安重根死刑の、翌年である。

むろん山縣が日本帝国陸軍の元祖であり、そして元凶となった。

ついでに云っておくが、桂太郎の下で幸徳らを死刑に強引に持っていったのが、

後にノモンハンの時の首相であった平沼騏一郎である。

平沼赳夫のおとっつぁんで、当時の日本の権力構造の一端である。

国家と、憲法・法律等を考えさせられるではないか。


民族主義や、社会主義が封殺されてゆく。

1942年正月明てすぐ、日本軍はコレヒドール島の北側に位置する

パターン半島に100門の大砲を据え付けて、

そこから7000トンの砲弾をこの小さな島に雨あられと打ち込んだ。


今村均将軍は、まさに徹頭徹尾、見事に自らの責任を果たした人である。

インドネシアでは、民族独立を目指すスカルノとの友情を貫いた。

昭和17年3月1日、今村中将は約4万の兵を率いて、ジャワに上陸、

わずか9日間の戦闘で、10万のオランダ・イギリス軍を降伏させた。

これは現地人の絶大な協力の賜である。

ジャワ占領後、現地人から独立の闘士スカルノを獄から救出して欲しい、

という多数の嘆願書を受けた今村は、スカルノと会い、

戦争終結後インドネシアがどのような状態になるかは、

日本政府とこの国の指導者階級とが決めるべき事で、自分の権限外だが、

自分の軍政中は、オランダ統治時代よりもよりよい政治と福祉を約束した。

スカルノは今村の言葉を信じ、協力を誓った。

(webより)


今村の軍政方針は、自身が起案した「戦陣訓」の

「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能(よ)く

無辜(むこ、罪のない)の住民を愛護すべし」

に則ったものであった。

たとえば、敵が破壊した石油精製施設の復旧に、

民衆は全力を挙げて日本軍に協力した。

今村は石油価格をオランダ時代の半額とし、民衆は石油が安く使えると喜んだ。

また日本では衣料が不足して配給制となり、

ジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきた。

しかし、白木綿を取り上げたら、現地人の日常生活を圧迫し、

さらに死者を白木綿で包んで埋葬する彼らの宗教心まで傷つける、と今村は考えて、

日本政府の要求を拒んだ。

(webより)


1942,3月

南機関とアウン・サン将校

アウン・サンの日本名は面田紋次。

ミャンマー独立には日本軍が関与した。

アウン・サン・スー・チー氏の父親、アウンサン氏は

1930年代半ば、20歳前後から英国からの独立運動で頭角をあらわし、

日本軍の「南機関」を率いた鈴木啓司大佐の目にとまった。

アウンサン氏は仲間とともに日本の軍事訓練を受け、

ビルマ独立義勇軍(後のミャンマー軍)の将校として

42年3月、ラングーン(現ヤンゴン)に到達。

日本軍と協力して英軍をインドに追いやった。

だが、次に実質的な日本軍の支配下に置かれたアウンサン将軍らは

45年3月に対日武装蜂起。

英国との交渉を通じて独立を実現する半年前の

47年7月に32歳で政敵に暗殺された。


(槇原稔・三菱商事の社長・会長09,9/4「私の履歴書」)
槇原稔の父は三菱商事の幹部。

英独戦争の激化でロンドンが空襲にさらされるに及んで、父は

1940年末ロンドン支店を撤収して帰国した。そして日米開戦。その翌年の

42年春、今度はマニラへの長期出張の社命が下った。

■フィリピンの復興と資源開発を進める政府の意向があったのだろう。

財界あげて総勢=1000人強に及ぶ大型ミッションが組織され、

三菱商事も=85人を派遣した。

父は比島方面総監督として、彼らを率いることになったのだ。

■ところが、父たちの乗った「大洋丸」が東シナ海で米国の潜水艦に撃沈された。

船体は真っ二つに割れ、多くの人が海の藻くずと消える大惨事になった。

三菱商事も=53人の貴重な人材を失い、父もその一人であった(享年49歳)。

大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)の経営者として後に有名になった中部謙吉さんは、

現場近くにいた自社の船に洋上の遺体回収の指示をしてくださった。

おかげで父の遺体も無事回収され、下関に帰還した。

父の遺骨は東京に戻り、

当時12歳だった私は、白い箱を抱えて東京駅を歩いたシーンを今も覚えている。


中島敦がパラオで『南島譚(たん)』(42年)を書くことができたのは、

帝国日本が南洋を占領していたからだ。

ミクロネシア人の言動は中島を困惑させる。

だが、この不可解さを嫌悪や侮蔑に転化せず、

南洋を理想化する安易なエキゾチシズムから己の視線を解放しようとする。

それ故、植民地官吏でありながら中島の描く風景はかくも透明な光と水に満ちている。

(小野正嗣・作家12,8/30日経)


1942,2/19フランクリン・D・ルーズベルト大統領、「大統領令9066号」に署名を行う。

大統領令9066号が発令された後の

1942年2月下旬から、

カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と

準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が

強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。

最終的に

同年3月29日をもって対象地域に住む日系人に対し移動禁止命令が下り、

12万313人の日系アメリカ人がアメリカ政府によって強制収容所に 送られた。

かれらの大半は戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所に入れられ、

のこりの人々は司法省やそのほかの政府機関が管理する収容所や拘置所に入れられ た。

■「史上最強の陸軍」と称され、

後に米国で最も権威ある議会勲章を授与された第442連隊戦闘団。


1942,5~日系人、米国各地の強制収容所に収容。約12万人

■ホウメイ・イセヤマ「蟹文様の硯」…収容所から日本への愛惜

■勇ましい愛国のシンボル、ではなく、そこに生きるということの精神性や、日常。

「亭主の好きな赤烏帽子」

■とても収容所内の日常で作り出されたものだとは思へない。