1942,1/3フィリピン制圧する。

1942,1/8東条英機による通達。

陸軍大臣東條英英機大将から発せられた戦陣訓が、全日本軍に訓令され、その内容に

「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う文言が書かれていた。

1942,2太平洋戦争ぼっ発直後、

旧日本軍はスマトラ(現インドネシア)の製油所を真っ先に制圧した(1942,2月)。

設備の復旧・運営にあたったのが、日本の海外でのプラント建設の源流だ。

日本工営、日揮、千代田加工などの原型・・・

1942,3/12“I shall return”

1941半ば、秋丸機関の報告───


「亭主の好きな赤烏帽子」

経済力の差は1対20。


1940米国でもまだ鉱工業生産の現場はしかし・・・


「亭主の好きな赤烏帽子」
■1940年代、工場で働く労働者。

労働と労働力の区別と労働力商品の発見、

生産過程における労働者の搾取(「剰余価値」)の発見。

使用価値を経て資本の自己増殖。

労働力を支出→対象化された労働力商品。

資本は労働力商品の額(賃金)しか払わない・・・

などなどが明確になって来る。


話がそれるが、資本主義過程の最終の段階で資本主義自体の自壊、

つまり革命が起きるとされた。

そもそも、本来なら起こり得ない国において、ロシア革命と云うものが起こったのだ。


軍靴が喧しく、統制経済が庶民の暮らしを圧迫してゆく。

1941八郎潟の干拓する計画が。食糧増産のためである。

「亭主の好きな赤烏帽子」
■1941福田豊四郎「冬漁」(八郎潟凍漁)


松本俊介───

中学時代に病で聴力を失った松本俊介が上京したのは29年(17歳か)。

そのわずか5年後(1934.22歳か)、戦時色が強まる中で

「精神復興という大きな任務」を負うとの言葉を残した。

1941、軍部による美術への干渉に抗議して、雑誌『みづゑ』に

「生きてゐる画家」という文章を発表した。

雑誌『みずゑ』昭和16年4月号に発表された『生きてゐる画家』という一文である。

これは同年1月号に掲載された軍人と御用批評家による座談会記事『国防国家と美術』、

そこで展開された軍人の暴論を受けて発言されたものであり、

彼が考える画家の社会に対する基本的態度を示したものだった。

個人というものが押しつぶされそうな困難な時代だからこそ、

個人の生活に目を向け、普遍的な人間性を獲得すべきだ、と。


「亭主の好きな赤烏帽子」
■1942松本俊介「立てる像」(神奈川県立近代美術館蔵)


1941年に高村光太郎が出した『智恵子抄』は狂気の妻をうたった。

「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた

/かなしく白くあかるい死の床で

/わたしの手からとった一つのレモンを

/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」

(「レモン哀歌」より)


『星月夜』(斎藤信夫)

静かな静かな 里の秋

/お背戸に木の実の 落ちる夜は

/ああ 母さんとただ二人

/栗の実 煮てます いろりばた


明るい明るい 星の空

/鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は

/ああ 父さんのあの笑顔

/栗の実 食べては 思い出す


さよならさよなら 椰子(やし)の島

/お舟にゆられて 帰られる

/ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと

/今夜も 母さんと 祈ります


1941年の歌だ。

みんなみんな、戦場へと持っていかれる。


フィリピン、スマトラ、そしてインドシナ半島。

1940ころはインドシナ半島はほぼフランスの植民地であった。

フランスの当時のヴィシー政権は親ドイツであった。

1941年(昭和16年)、植民地支配していたフランスは、

それまでのカンボジアの国王が死去すると、

息子を飛ばして孫のノロドム・シアヌークを国王の座につけました。

当時のシアヌークはプレーボーイとして知られ、

フランスとしては、操縦しやすいと考えたのです。

(池上彰13,,3,18日経)

しかし、ここからすでに戦後の国家の泥沼が始まり、

クメール・ルージュ、ポルポトによる200万人とも云われる虐殺の歴史へとつながってゆくことに。


孫文1866年11月12日 - 1925年3月12日

蒋介石1887年~1975年

ホー・チミン(胡志明)1890年5月19日 - 1969年9月2日

周恩来1898年3月5日~1976年1月8日


1924レーニン死去。スターリン後継者に。

1925孫文死去

「いまだ革命ならず」と自国の行く末を案じつつ。

1926~蒋介石の北伐が始まった。

1928張作霖の爆殺。


若きホー・チミンがサイゴンを出帆したのが

1911(21歳)年。以来、世界中を回るにつれ民族解放(独立)の意識が目覚めてゆく。

フランスで植民地学校の入学願書が不受理に。

マルセイユから船員となってアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地と

アメリカ合衆国、ラテンアメリカ、ヨーロッパ諸国を回った。

ホーおじさんのもう一つの顔はコックさん。

英語を学ぶためにロンドンに渡ったが厨房に勤務する際、

世界的に著名な名シェフであるオーギュスト・エスコフィエの薫陶を受けている。

1917年12月にパリに戻ったが、この年に起こったロシア革命は彼の思想に大きな影響を与えた。

1919、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が開催されたが、

ホーは安南愛国者協会を代表して会議に出席し、8項目からなる

「安南人民の要求」という請願書を提出した。

これは独立を要求するものではなかった。


1920ホー・チミンは「共産党」に入党。

1920年7月、フランス社会党の機関紙『リュマニテ』に、

フランス語に翻訳されたウラジーミル・レーニン

『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』が掲載された。

これに感銘を受けたホーは、

同年12月、フランス共産党の結成に参加した。

1920周恩来はパリへ留学している。

1920国際連盟の会合が初めて持たれる。

世界の大勢は民族自決、内政不干渉と云うことになってゆく。

1921中国共産党設立。

1921,10/27「バーデンバーデンの密約」

ヨーロッパ出張中の岡村寧次少佐(一六期)が、

陸士同期生でロシア駐在武官(ロシアに入国できずベルリン滞在中)の小畑敏四郎少佐

スイス駐在武官の永田鐵山少佐とドイツの保養地バーデン・バーデンに会し、

陸軍の革新に向けて同志を募り協力することを誓い合った。

東条英機は17期と一期後輩になる。

1922ソビエト社会主義共和国連邦成立


1941ホー・チミン、ベトナムに戻る。

1939年に第二次世界大戦が勃発し、

1940年6月にはナチス・ドイツがフランスを占領したため、

フランスの植民地であるフランス領インドシナ(仏印)には新局面が訪れた。

ドイツ政府と手を結んだ大日本帝国政府は、南方進出の一環として

1940年には仏印北部に、

1941年には仏印南部に進駐した(仏印進駐)が、

親独的なヴィシー政権との関係を維持するため、

在来のフランス・インドシナ政庁との共同統治体制を布いた。


ホー・チ・ミンは、香港、モスクワ、中華民国の延安(中国共産党の中央根拠地)や

雲南省などで活動を展開していたが、インドシナ情勢の急展開で、

1941年、雲南省から国境を越えて祖国ベトナムに30年ぶりに帰国し、

カオバン省に入った。

51歳になっていた。

彼はここで、ベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」

(通称ベトミン)を組織してその主席に就任し、

日本軍に対する武装闘争の準備に着手した。


しかし、ベトミンは軍事的にあまりにも弱体であったため、ホーは

1942年8月、中華民国に赴いて協力を求めようとした。

このときよりホーは従来の「グエン・アイ・クオック」ではなく、

「ホー・チ・ミン」の名を使うようになった。

だが、中華民国との協力関係を結ぼうとしたホーは、

共産党の勢力拡大を嫌う中国国民党の地方軍閥政権によって逮捕されてしまう。

13ヶ月間も各地の牢獄をたらい回しされたあと釈放され、

1944年にようやく根拠地に帰った。


ホー・チミンが故国にもどった年は

マッカーサーがレイテに上陸した年になる。

二人とも共に長い迂回があったのだ。


生田正治7歳ころか───

42年4月18日のお昼頃だったろう。

初めて警戒警報のサイレンが鳴り渡り、直ちに全員下校の指示が出た。

空襲など予想したこともなかったので事態がよくのみ込めず、

友だちとふざけ合いながら家路についた。

途中、爆音がするので空を見上げると、

見慣れない大型機が悠然と神戸上空を西に向かうのが見える。

日本軍の新鋭機とばかり思っていたら、

帰宅後それがドーリットル米軍中佐の率いるB25爆撃機編隊による

日本初空襲の一環であったことを知った。

私たちが見ている間、敵機は爆弾を投下せず、

上筒井国民学校校庭の高射砲部隊も砲門を開かず、

迎撃機の姿もない不思議に静かな風景だった。

海上大決戦と位置付けたミッドウェー海戦の大敗は秘せられ、

私たちは依然として戦勝気分の中にあった。

(株式会社商船三井社長・会長、日本郵政公社初代総裁1935年1月19日~)


野間宏

1946「暗い絵」発表

『暗い絵』は京大生時代の体験をもとに描かれている。

1935年に京大仏文科に入学した野間さんは、反ファシズムの人民戦線に共鳴し、

そのグループに近づいた。

しかし満州事変後、日本は軍国主義を強め、日中戦争が始まった

37年には、人民戦線事件で全国で400人余りの思想犯が逮捕された。

野間さんは京大卒業後、大阪市役所に勤務、

軍隊に召集され、フィリピンでバターン、コレヒドールの激戦に参加し、

マラリア熱で帰国すると、治安維持法違反容疑で逮捕され、

陸軍刑務所に送られた。

京大生時代から人民戦線運動にかかわったことが逮捕の理由だった。

(編集委員 浦田憲治11,12/11日経)


1942年正月明けてすぐ、

日本軍はコレヒドール島の北側に位置するパターン半島に100門の大砲を据え付けて、

そこから7000トンの砲弾をこの小さな島に雨あられと打ち込んだ。