雨が上がった
もう少しだけ歌わせて下さい
子供が遠くにゆきます
もう多分ここには帰ってこれないでしょう
濡れた地面がだんだん温まって乾いて来ると
ほこほこと青い芽があちこちからふき出でくる
最初は会いたい、あいたい、と云っていたのにもうすぐに云わなくなった
そんな風にお母さんと別れ
わたしはテロリストになった
音楽が流れ出る素晴らしい午後だ
しかも明日は休日と来てる
サンドイッチをぱくつき長い数式を解く
鉛筆の線がずっと右側の方に流れてゆく
だがそれは永遠に画面からはみ出るということはなかった
野生化した牛が取り込まれた
原発のこともセシウムのこともベクレルも忘れたことはなかったが
牛舎の外や柵の外のことは忘れてゐた
水のこともとっくに忘れて
さういふことならば自分のこと以外はたいてい忘れてゐた
牛のあの眼がすぐそばにあった
吐く生臭い呼気も
あの硬い角も
首を何度か振りわたしのほうに近づいて来る
すぐに気が付く
泣けばいいのか、笑へばいいのか
この季節にやっと桜がほころび始める
紅い土色の川をなんどか渡って
肩に頭に重い荷物をのせて
それが全財産で
川の向かうのかあさんと別れた
わたしははげしい愛国者になった
K、聞こへますか
革命です
音楽が流れ出る素晴らしい午後だ
真っ白い紙に数式を書く
永延と連立方程式が続く
ぞっとするほどの深い真昼間の闇
そこから先へは入れない
はみ出てゐるということ
わたしは闖入者だ
歌わせて下さい、もう少し歌わせて下さい
激しい亀裂があって
わたしはそれを跳び越へる
リュックサックを背負って賑やかなカラフルな群集の中に入る
ゴールが近く、もう少しだ
しーんとわたしの空の上が静まりかえり
それから、
爆弾が破裂した
倉石
テロリストの系譜
翌元禄15年12月14日(1703年1月30日) 赤穂浪士の討ち入り
幕末 新撰組
1909 安重根、伊藤博文を哈爾浜駅で。
元老の伊藤博文や井上馨は満州が純然たる中国の領土であり、
その分割に参加するのでなく、
中国を援助・指導して自由な交易による利益を追求することが望ましいとしていた。
しかし、これらの主張が、
10万人の命と20億円の国庫金と引き換えに
日露戦争の勝利によって手に入れた満州の権益、
という当時の庶民感情を抑えることは容易でなかった。
1910大逆事件へ
管野スガは、宮下太吉らは爆裂弾による明治天皇暗殺計画を。
宮下は長野県明科(あかしな)の製材所で爆裂弾を製造し、
1909(明治42)年11月、爆発実験を1回行い、
天皇に爆裂弾を投げる具体的方法について謀議するところとなる。
爆発物取締罰則違反の容疑により長野県で1910,5/25逮捕される(明科事件)。
「私はとても幸徳を仲間に入れることは出来ぬ」(宮下太吉)。
幸徳と菅野スガは内縁関係に。
1912,9/13乃木将軍夫妻の殉死
1921,11/4原敬、東京駅で暗殺(刺殺)された
1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、
戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に
朝鮮人無政府主義者・朴烈と愛人の金子文子が
治安警察法に基づく「保護検束」の名目で検挙され、
東京淀橋警察署に連行された。
朝鮮人殺害に対する国際的非難を浴びた場合に対する政府のアリバイ工作の一環である。
1923,12/27難波大助が虎ノ門で第48帝国議会の開院式に向かう
摂政・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の車に向けてステッキ状の銃を発砲・狙撃し、
現行犯で逮捕された。
1924,11/13に大審院で死刑判決。15日に死刑執行。
この事件により、第2次山本権兵衛内閣は総辞職。
衆議院議員で庚申倶楽部だった大助の父難波作之進は即日議員辞職し、
山口県熊毛郡周防村(現・同県光市)の自宅で閉門蟄居後、
食事を取らず餓死した。
難波の処刑後、皇太子は「家族の更生に配慮せよ」と側近に語った。
犯行に使われたステッキ銃は、
伊藤博文がロンドンで手に入れて、人づてに難波作之進に渡ったものであった
1926,7月22日、文子は栃木女囚刑務所で看守の目を盗んで縊死した。
ところが7月29日になって
予審中に朴と文子が抱き合っている写真が政界や報道関係に公開される。
これは、写真の存在を知った西田税が、
第1次若槻内閣の転覆を計画する北一輝の意向を受けて入手・公開したものであった。
1928,6/4に発生した張作霖爆殺事件
1930,11/14浜口雄幸、東京駅第4ホームで愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃された。
1932,2月、金解禁の責任者・井上準之助前蔵相が血盟団員・小沼正に暗殺される。
1932,3/5、午前11時25分、三井合名理事長・團琢磨暗殺される。
一連の血盟団事件。
井上日召「一人一殺」「一殺多生」「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」。
1932「五・一五事件」犬養毅「話せばわかる」
昭和維新と称するテロ事件が相次いだが、犯人は国民的な人気を博し、
例えば五・一五事件の青年将校の減刑嘆願書は100万通を超えた。
「革新官僚は軍部独裁に道を開いた面があるが、
新設された厚生省で国民健康保険制度などを始め、
財閥を弱める経済統制や社会的弱者を守る借地・借家法の整備も進め、
当時は国民の支持を得た」
1933,2/20小林多喜二虐殺事件。
睾丸の辺りが激しく紫色にうっ血して膨れ上がっているのを見た母は・・・
「階段のように山にせり上っている街を ぼくはどんなに愛しているか分らない」
と刻まれた多喜二の文学碑が小樽に。
1935,8/12相沢事件。相沢三郎陸軍中佐が軍務局長永田鉄山を斬殺
1936「二・二六事件」
高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎・・・
・・・ラジオは株式取引の中止を報じていた。
1945,8/15「特攻」
中津留達雄大尉は45年8月15日夕、海軍大分基地を飛び立って沖縄に散った。23歳。
終戦を知らされぬまま宇垣纏(まとめ)中将独断の命で宇垣を乗せ出撃、
パーティーをしていた米軍を見て終戦を悟りとっさに急旋回し、
無人の岩場に突っこんだというのが、城山三郎の推理である。
「特攻」創設者大西瀧治郎中将
彼は、その作戦を統率の外道(げどう)と自ら書いている。
しかし、青年たちの祖国愛の純心で、神風をおこすのだ、とも記している。
大西中将がおくり出した神風特攻隊は2500人を超えて敗戦となった。
敗戦の日、大西中将は東京の司令室で割腹自裁した。
かけつけた部下に言い渡したそうだ。
「介錯はするな、不要だ。まして医者など呼ぶな」
そしてさらに言ったそうである。
「オレは出来るだけ長く苦しんで、死にたいんだ。
外道の統率者として長く苦しんで死にたい」
1948,3/25川島芳子(愛新覚羅顕㺭(けんし)の日本名)
「家あれど帰り得ず
/涙あれど語り得ず
/法あれども正しきを得ず
/冤あれども誰にか訴へん」辞世。
北京で処刑される。享年42歳。
1960,10/12「61歳と17歳と」
安保闘争の余熱が冷めやらぬ60年10月12日。
公会堂で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が17歳の右翼活動家、
山口二矢(おとや)に刺殺された。
安保闘争を憎悪し右翼活動に傾斜した少年と、
苦学して社会主義運動に身を投じた61歳の政治家。
隔たった2つの世界が偶然、公会堂の舞台で交差する。
少年は浅沼の演説の終盤、右側前列の通路からカメラの機材箱を踏み台にして
舞台に駆け上がったという。
一瞬の静寂と、飛び交う怒号。
1963,11,22午後0時30分。ケネディ暗殺。
暗殺事件の調査委員会が実行犯と結論づけたリー・オズワルド容疑者は当時、
教科書倉庫だったこの建物の6階から狙撃したとされる。
東京オリンピックを翌年に控えた日本。
日米同時中継の実験放送で最初に伝えられたのがこの知らせだった。
3日後の国葬には池田勇人首相と大平正芳外相が参列した。
1961,1/20大統領就任演説では───
Let the word go forth from this time and place,
to friend and foe alike,
that the torch has been passed to a new generation of Americans
--born in this century,
1968年、米国は暗澹たる時を迎えていた。
黒人指導者、キング牧師に続き、
ロバート・ケネディも凶弾の犠牲となっていたからだ。
1968,10~「永山則夫事件」
米軍宿舎から盗んだピストルで、1968年10月から1969年4月にかけて、
東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、
いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。
永山則夫(19歳と3ヶ月)
右手で引き金を引いた22口径。
「無知の涙」・・・
メディアイベントとしての「青年の主張」がこの時代に。
安保の若者たちと集団就職後の働く若者たちと、都市化と大衆化と。
1974,8/15文世光ムン・セグァン事件
74,12/20死刑執行
文世光1951年12月26日 - 1974年12月20日(23歳か)
宣告から3日後の12月20日に、ソウル拘置所の処刑場において、
拘置所長が文の死刑を確認する判決文を朗読した後、
検事や牧師、刑務官など約10人が立ち会いのもと、
「私が愚かでした。
韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。
朴に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。
国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。
陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。
朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、
死刑に処せられて然るべきです」
と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、
家族に対しては
「母には、息子の不孝と期待に背いた事を申し訳なく思うと伝えて下さい」
という遺言を残し、午前7時30分に文の死刑が執行された。
■68永山則夫(19歳)
事件貧しさや差別が背景にある。
これはこれで「青年の主張」だったのだ。(倉石)
朴槿恵現大統領(当時22歳)で母をテロで亡くす。
1974,8/30三菱重工ビル爆破事件
東アジア反日武装戦線は、
1974年8月14日決行予定だった昭和天皇暗殺作戦「虹作戦」に失敗していた。しかし、
翌8月15日に在日韓国人で朝鮮総連系団体活動家の文世光が
朴正煕大統領暗殺を企てた文世光事件を起こした。
彼らは虹作戦を断念したことを不甲斐なく感じ、
文世光の闘争に呼応するため新たな爆弾テロを進めた。
8/30東京丸の内の三菱重工ビルで大規模な爆発が起こり、
8名が死亡し、385名が重軽傷を負った。
企業を狙った爆破事件は翌年5月までに11件起こり、
「東アジア反日武装戦線」というグループからの犯行声明が出された。
1975年5月19日、同グループのメンバー8人が逮捕される。
彼らは会社員など、昼間は普通の社会生活者だった。
この爆発の3分前、若い男の声で
「玄関前に爆弾を2個仕掛けた。これは冗談ではない。近くにいるものを避難させろ」
という予告電話がかかってきていたが、いたずら電話だと思い、途中で切った。
ダイナマイト700本分の爆発の超大型手製爆弾だった。
東アジア反日武装戦線・「狼」
佐々木規夫、大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明
背景に在る物事として───
アイヌ、朝鮮人労働者、植民地人民・・・
太平洋戦争への重大な加担者として三菱重工が選ばれた。
テロの時代は次第に変わってゆく。
地上の歴史は社会の変動と共に変異してゆくのだ。
日本ではこの年を境にイデオロギー的な事件は急速に収束して行った。
そして、あのサリン事件は1995年に起こる。
資本主義の社会ではおおむね上のような図になってゐる。
いや、社会主義の国でも、イスラムでも、キリスト教の国でも、
およそ生産と交換と消費があって、集団社会を営む国家に在ってはこの枠がいは考えられない。
市場を最も効率よく使うのが米欧アングロサクソン系国家だ。
社会を中心に、つまり、配給や分配を中心に考えるのが社会主義共産国家た。
政府中心は全体主義国家でこれらの国は戦前に国家統制と云う形で、
結局は戦争へと突入して行った。
市場における資源の効率的、公正な分配。
市場は淘汰と新陳代謝を促す。
また機会の公平を提供する。
分業や交易を通じて経済のパイを大きくするわけだ。
経済の成長はGDPやGNIのことで、
個々の名目から税金が発生して政府へと納入される。
政府には普通“ベスト&ブライテスト”がいてくれて、
あらためて分配を適正にして根社会の安定・安寧を維持することになる。
格差是正には───
・公共事業
・税
・利子
・教育
・健康や医療
などもろもろの施策を通じて行われる。
原発は「市場」と「政府」などの失敗からかもしれない。
米国の今回のテロでは「負け組」と云う言葉が語られた。
2005年、NYタイムズ紙のトーマス・フリードマンは著書「The World is Flat」で
グローバリゼーションにより地球規模で所得・情報が平準化し社会が安定すると論じたはずだった。
(以下世界のメディア王、米ニューズ・コーポレーションのルパート・マードック最高経営責任者(CEO))
「グローバリゼーションの進展が、
国家間、国内の階層間格差をこれほど拡大するとは想像外であった。
現在は多様化というよりも、民族、宗教、社会階層などの対立が深まり、
バラバラで不安定な社会」
「所得上位2%が富の70%を所有している。
高所得層は子供の教育に巨額の投資を行い、高所得・高学力を再生産している。
しかし、中低所得層は公教育の劣化もあって貧困と低学力の再生産に陥り、大問題だ」
「教育や所得格差の拡大は、興味や要求の異なる多くの人々を生み出す」
「高所得・高学力層は、WSJの社説よりも高度な分析や解説を要求している。
一方、中低所得層は極端に刺激が強い娯楽や激しいスポーツを求めている」
新聞のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)
ルパート・マードック最高経営責任者(CEO)82歳。
米国ないしは「国家」───
「ハイドレート(hydrate:水和物)」は、
水分子で構成されるカゴ状の結晶構造をしている。
このカゴ内に別の分子を取り込める。
メタンを取り込んだハイドレートが「メタンハイドレート」である。
取り込まれていたものが(安定)、
気圧から解放されると(不安定)、
水とメタンガスに別れた(安定)。
中国でも米国でもイランでもシリアでも、
それぞれの政体の在り様で国民を構造物の中に安定して取り込んでゐる。
日本ではごく一部の人たちがそれを“靖国”のやうなものと勘違いしている。
福島県浪江町で牧場を運営する「希望の牧場・ふくしま」は18日、
東京電力福島第1原発事故のため、
同県大熊町の帰還困難区域内に残されて野生化した牛15頭を
浪江町の牧場に移送する作業を行った。
牧場で飼育し、放射線が牛に与えた影響を調べるという。
獣医が同行し野生化した牛が暴れないよう除角や去勢をしたという。
作業に立ち会った飼育主の畜産農家、鵜沼久江さん(60)は
「原発事故から2年以上もよく生きてくれた」
と再会した牛の姿に目を細めた。
事故前に区域内にいた牛は約3500頭で、約1500頭が殺処分されたほか、
多くの牛が餓死したとされる。
