■1952,4/28サンフランシスコ条約発効
日本は独立した。
1948,8/15大韓民国が樹立。
1948,9/9朝鮮人民共和国独立・建国される。
1949中華人民共和国独立
1950までに台湾島地域および金馬地区などのみを
実効支配する国家(中華民国)として、再編成された。
1950日本、
傾斜生産が効き始めて来ていた。
巷にはこんな歌が流行っていた。
「わてほんまによういわんわ」(笠木シヅ子)
1950年(昭和25年)発売の笠置シヅ子の歌。作詞 ・作曲は服部良一。
たまの日曜サンデーというのに
/何が因果というものか
/こんなに沢山買物たのまれ
/人のめいわく考えず
/あるものないもの手あたりしだいに
/人の気持ちも知らないで
/わてほんまによういわんわ
/わてほんまによういわんわ
何はともあれ買物初めに
/魚屋さんへと飛び込んだ
/たいに ひらめに かつおに
/まぐろに ぶりにさば 魚はとりたて
/とびきり上等買いなはれ
/おっさん買うのとちがいます
/さしみにしたならおいしかろと思うだけ
/わてほんまによういわんわ
/わてほんまによういわんわ
現在のデフレ日本が信じられないやうな景気のよさである。
(10,12/6日経)
1950年、朝鮮戦争のころの売上高最大の日本企業は
1位鐘淵紡績。
2位は東洋紡績で、
上位には大日本紡績(現ユニチカ)など繊維企業が並んだ。
■1970年ころの日米の返還交渉では裏のテーマは繊維輸出の抑制だった。
そんなかつての中核産業もめっきり衰退した。
旧10大紡績も日経平均株価算出の採用企業に残るのは
東洋紡、日清紡HD、ユニチカなど4社だけ。
ユニチカは今や時価総額300億円余。
採用銘柄では3番目に小さい。
朝鮮戦争(1950,6/25~53,7/27)
この年に二人の日本のスターがアメリカにわたってゐる。
美空ひばり13歳、カリフォルニア州サクラメントの公演。
なんと公演日は6/24,25日とある。
天才少女、海を渡るである。
笠置シヅ子さんの「ヘイヘイブギ」などを歌う。
もうお一人は満州からの不思議運命の方「李香蘭」の名でも活躍した山口淑子
同じカリフォルニア州サクラメントで公演。
多くの日系人が、日本の文化を楽しんだ様子である。
「さくらさくら」や李香蘭時代のヒット曲「夜来香」など6曲を歌う。
1950朝鮮戦争のこの年にお二人の在日の方が誕生している。
伊集院静さん
1950,2/9生まれ、山口県防府市出身の韓国系日本人2世である。
出生当時の氏名はチョ・チュンレ(ハングル表記では조충래、漢字表記では趙忠來)
であったが、のち日本に帰化したことから、氏名を西山忠来(にしやま ただき)に変えた。
山口県立防府高等学校を経て、立教大学文学部日本文学科を卒業した。
当初、立教大学ではなく美術大学に進学するつもりでいたが、
当時義兄が巨人の野球選手だった影響で高校の夏休みを利用して東京に行ったおり、
長嶋茂雄本人から「野球をするのなら立教に行きなさい」と言われた。
その長嶋の一言で立教大学に進学を決めた。
───とある。
姜尚中さん
1950年8月、熊本市の熊本駅近くの「在日」の韓国・朝鮮人集落で生まれる。
東京に住んでいた両親が空襲で愛知県一宮市に疎開していたのですが、
そこでも空襲がひどくなりました。
朝鮮半島への帰国を決意して、
熊本市で日本の憲兵をしていた父の弟に別れを告げにきたところで終戦となりました。
そのまま住み着いて、養豚やヤミのどぶろく造りで生計を立てている間に私が生まれたのです。
みんな貧しかったし、共同体で大人は苦労したのでしょうが、
子どもの私は特に差別された記憶はないし、
周囲はみんな優しかったから、まあ幸せな時代でしたね。
わたしも4歳になっていた。
かすかに記憶だが自分の家のすぐ下の長屋に朝鮮の方たちが住んでいた。
しかし、一緒に遊んだりすると叱られたものだった。
大人たちは彼らを“チョウセンッポ”と呼んでいた。
いつの間にか彼らの家族たちはどこかへ引っ越していってしまった。
子どもたちは結構無関係に遊んでいたと思うのだが。
1951,9日本はサンフランシスコ条約を結ぶ。
同時に吉田茂首相は日米安全保障条約を結んだ。
当時の日本は米国による占領が終わり、やっと自立できると思っていた。
それだけに、米軍に全面的に防衛を頼ることには強い批判があった。
それでも吉田は国益にかなうと信じ、押し切った。
「安保条約は不人気だ。おれがひとり署名する」。
彼はこう語り、米サンフランシスコ市のプレディシオにある米軍施設で
ひとり、条約に署名した。
日本は北方四島を
「一度も外国領になったことがないわが国の領土」と位置付けている。
日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で
千島列島と南樺太を放棄したが「北方四島は千島列島に含まれない」とし、
米英も支持した。
56年の日ソ共同宣言は平和条約の締結後、
歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すとしている。
ただ日本は2島にしか触れていないと反発し、今も平和条約締結は実現していない。
(安保竹島12,8,31日経)
韓国は1951年7月、放棄地に竹島などを含むようアチソン米国務長官に書簡で要望した。
だがラスク米国務次官補(極東担当)は
(1)朝鮮の一部として取り扱われたことが決してない
(2)かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとはみられない――
などと韓国側の主張を退けた。
■日本が戦後の独立を回復した51年9月のサンフランシスコ講和条約では、
日本が放棄すべき地域を「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定。
竹島は含まれなかった。
連合国占領下の51年7月、竹島は米軍の海上爆撃演習地に指定された。
その後も在日米軍が竹島の使用を望み、
日米行政協定(日米地位協定の前身)で設立した合同委員会は
竹島を米軍の爆撃訓練区域に指定した。
これも日本政府が竹島を日本の領土とみなす根拠の一つになっている。
一般的に国際法では領土の根拠として───
「先占」、
当該国間での「譲渡」や「交換」が、
概念として有効とされる。
尖閣諸島
(中国外務省71,12月発表した声明)
「釣魚島などは台湾付属の島しょだ。
台湾と同じく古くから中国の不可分の領土だ」と主張する。
中国は「台湾に付属する島しょ」と位置付ける。
第2次世界大戦後の日本の敗戦処理で、
日本が主権を残す地域と放棄すべき地域を区別。
対日平和条約(1951)では「台湾及び澎湖諸島の権利放棄」を明記した。
中国側はこの「台湾」に尖閣諸島も含まれると解釈する。
ただ中国側は1970年代まで、尖閣諸島の領有権に公的に言及しなかった。
中国が領有権にこだわる理由は豊富な漁業資源や石油・天然ガス資源の存在に加え、
安全保障上の理由も大きいようだ。
周辺海域は中国艦隊の太平洋への出口となる。
日本から監視を受ける範囲を減らしたいとの思惑もあるとみられる。
1952サンフランシスコ条約が発効する。
1952年4月28日、
日本と第2時世界大戦連合国の戦争状態を終了するサンフランシスコ講和条約が発効、
約6年8カ月の占領が終わった。
日本は沖縄と奄美、小笠原諸島を除き独立を回復した。
日本時間午後10時半、米ワシントンで批准書の寄託式が終わると、
日本各地でサイレンや鐘が鳴らされた=写真は都内で万歳を叫ぶ人々。
占領期間中も国会や内閣はあったが、
・予算編成や
・法律制定、
・外交などの重要政策を日本単独では決められず、
東京に設置されたGHQ(連合国軍総司令部)などの承認が必要だった。
講和条約発効を機に、米国や英国と国交を回復、
日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。
ただ、全ての国との間の全面講和ではなく、
条約に署名しなかった共産圏の旧ソ連やチェコスロバキア(当時)、
講和会議に招かれなかった中華人民共和国などとは
正式な国交がない状態がその後しばらく続いた。
特に旧ソ連と条約を結べなかったことで
北方領土問題は暗礁に乗り上げ日本とロシアの関係にしこりを残すことになった。
対台湾(外交文書の開示(12,7/31))
(8/1日経)
吉田茂首相が米国に「反共」姿勢をアピールするため
中華民国(台湾)との平和条約締結を急いだ。
1952年に蒋介石率いる中華民国(台湾)との日華平和条約締結交渉が難航した際、
吉田首相が外務省に対し、早期締結に向け譲歩を指示していた。
日本の独立を回復したサンフランシスコ講和条約批准の見返りに、
米側に「反共」姿勢をアピールする必要に迫られていたためとみられる。
一方、既に大陸を実質支配していた中華人民共和国(共産党政権)との将来の関係改善を見越し、
台湾への過度の肩入れは控えた。
戦後外交のかじ取りを担った吉田首相の腐心がうかがえる。
条約交渉に関わった外務省の後宮虎郎アジア局第2課長が
締結直後の52年6月に省内で行った「極秘扱い」の講演記録によると、
日本は蒋介石政権を「落ち目」と軽視。
中国大陸への主権を認めることは「(吉田)総理お声掛りのタブー」との構えで交渉に臨んだ。
台湾は自らを「正統政府だとはっきりさせる」との姿勢を堅持し、
交渉は予想以上に長引いた。
外務省は決裂も視野に入れ始めたものの、
最終的に吉田首相が
「いつまでぐずぐずしているか。簡単なものにして早くまとめよ」と指示。
日本が台湾の主権に関する主張を一部受け入れる形で妥結に至った。
前年の51年、吉田氏はダレス米国務省顧問への書簡で
中国共産党政権を敵視し、中華民国との条約締結を約束した。
日華条約は、72年の日中国交正常化に伴い失効した。
服部龍二中央大教授(日本外交史)は
「中国との関係に配慮し、台湾を地方政権として限定承認するという外務省案に
吉田は理解を示していた。
最終段階では対米関係を重視する観点から条約締結を急がせ、バランス感覚を示した。
その結果として、中国の扱いが将来の課題として残されることになった」と指摘している。
1952,5,29
「わが国は戦後初めての国際機関への加入を果たした」
■1952,5,29国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認した。
(写真は同年8月、IMF加盟協定書に署名する新木栄吉駐米大使)。
国際通貨基金(IMF)と
国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認した。
日本は為替相場を安定させ、国際貿易の拡大を目指す
「ブレトンウッズ体制」に正式に参加することになった
同体制は、米国がドルと金の交換停止を宣言した「ニクソン・ショック」で崩れたが、
IMF・世銀はその後も存続。
生産の3要素は───
・資本
・労働力
・技術などの生産性
有力な資本調達先が保証され、労働力は余りあり、
日本にはまだ戦前からの技術力も受け継がれていた。
マネーのつながりは、情報の量的、質的つながりをも意味する。
現在のTPPもその意味では経済ばかりではなく安全保障の情報も含む。
“つながる”という概念こそが飛躍的創造的破壊を促すのだ。
サンフランシスコ講和条約の発効で独立を回復した
1952年には世界銀行に加盟し、
翌年から13年間で総額=8億6290万㌦の融資を世銀から受けた。
対象事業には
・黒四ダム、
・東海道新幹線、
・東名高速道路など復興と高度成長を象徴するようなインフラ事業が目白押しだった。
・製鉄や
・自動車、
・造船といった基幹産業の大型設備も目立った。
奇跡が達成され、世銀からの借り入れの完済がなった
1990年の翌年からは、日本は10年に渡って世界最大の援助供与国となった。
■2010年度予算案では=6187億円でピークの1997年度の=半分。
中国は加盟してないが対外援助08年に=125億元(約1650億円)で、
5年間で=2.5倍に増えた。
「李承晩ライン」
1952年(昭和27年 )1月18日、大韓民国(韓国)大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき、
韓国政府が 一方的に日本海・東シナ海に設定した軍事境界線を引いた。
竹島はサンフランシスコ平和条約で韓国に領有権が認められなかったことから
李承晩大統領がいわゆる「李承晩ライン」を設定し(1952)、竹島の領有を宣言。
日本人漁業者の死亡者が出るほどの拿捕事件が続いた。
■韓国による日本船舶の拿捕(1953年12月)
少し前に遡るが
1950年5月9日、フランスのロベール・シューマン外相が、ジャン・モネの考案をもとに、
(コニャック商人出身、国際連盟事務次長から金融マンに「欧州統合の父」)
フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼産業を共同管理するという構想を発表。
これを「 シューマン・プラン」とか、「シューマン宣言」と云う。
「楽観主義者は困難のなかに好機を見いだす」とチャーチルはいい、
「困難なときでないと改革はできない」とモネはいう。
1955バンドン会議


