ドイツがポーランドに攻め込む前年、
1938サルトルは「嘔吐」La Nauséeを書いた。
日本は1941太平洋戦争に突入し、
1942カミュは「異邦人」を発表した。
『実存は本質に先立つ』は1945の講演でサルトルが定義づけたものだ。
しかし、そんなことより前に、
「嘔吐」の主人公ロカンタンは、すでに遅れて来た「異邦人」のムルソに
圧倒的嫉妬を感じていた。
コミュニストのサルトルは革命を思考している。
カミュは、───
カミュといへば彼は詩人だった。
評論家は論理的に説明しようとするが、
カミュはただ主題を放りだすだけである。
フッサールからキェルケゴール、ヤースパース、サルトルまで、
私に云わせれば、日本人の哲学者も言論人も、
戦争回避にはほとんど役に立たなかった。
1945「実存」論を述べる前の年、
「パリ解放 1944―49」とされるが、
1944年6月、ノルマンディ強行上陸を決行した連合国軍は、
市街戦を避けるためにパリ迂回作戦を立てた。
8月19日、対独レジスタンスの武装蜂起。
25日、「自由フランス」軍のルクレール将軍麾下(きか)の第2機甲師団のパリ突入。
ドイツ軍司令官フォン・コルティッツ将軍の無条件降伏の受諾。
翌26日、百万人以上ものパリ市民が街路を埋め尽くしたドゴールの凱旋パレード。
この「自由フランス」軍の単独作戦は、
ドゴールを評価しない
・アメリカによる軍政を拒否する決定的な要因となり、
・イギリス追従路線からの脱却を表明し、また、
レジスタンスの主力を担った
・フランス共産党の発言力を封じ込もうとするしたたかな作戦であった。
言説のレトリックのページに閉じこもるよりも、
あからさまで緻密な戦略である。
社会はたしかに戦争もさうだが政治によって動かされ、
政治は権力によって動かされる。
ドゴール将軍のしたたかさ───
「パリ解放」後のフランス社会が、まず着手したのは、
戦争緒戦以来の「仏・仏戦争」の決着をつけることであった。
つまり、ヴィシー派への全国規模で爆発的に断行された「野放しの粛清」。
具体的には1万数千人に及ぶとされている適正な裁判なしの処刑。
ドイツ将兵の愛人だった女性の剃髪(ていはつ)刑と市中の引き回し。
ただ、共産党の背後に屹立していたソ連との対立。
こうした権力闘争、さらには共産党と社会党の政権争いなどが、
戦後の復興を遅らせてしまったのだが。
だが、果たせるかな、
フランスは対独協力国という烙印を押されることなく、
連合国の一員として、ドイツ占領地域を割り当てられ、
国連の安保常任理事国として返り咲いたのだった。
1944といへば7/7に日本はサイパンで全滅し、
連合国サイドではブレトンウッドで戦後経済秩序のための経済会議を開いてゐる。
さすがに東条英機はその責任を感じたのか退陣し、
田舎に引っ込んでお百姓のまねごとを始めた。
インパールが3月からとして、
太平洋戦争も、欧州戦線も完全に勝負あった、と云うべきだらうか。
何度も繰り返し云うが、戦争を始めた人たちも引責されるべきだが、
ここから以後の戦争指導者たちの責任は重大である。
およそ360万人とも云われている戦争犠牲者の、
おそらくは半分以上はこれ以降(シベリア引き上げまで)の戦いで犠牲になっているのだ。
実存とは不可解である。
意味をはく奪された本質の前の実際に在るそこの存在。
戦争は個人から多くの属性や、意味や、地域、故郷、家族をはぎとり捨て去る。
集団や個人は数字や記号に置き換えられ、
激しく揺さぶられて、特攻機は弾幕のなかを海に突っ込んでゆくことになる。
1944,9
「なかりせば・・・」
パパ・ブッシュはこんなところにゐた。
(ジョージ・W・ブッシュ11,4/2「私の履歴書」)
私がこの世に生を受けたのは1946年のこと。
この時、父はまだイエールの学生だった。
その2年前(1944)の9月には米海軍の兵士として
旧日本軍が駐留する太平洋の父島上空を飛ぶ飛行機の中にいた。
日本軍の迎撃を受けて海面に不時着、
ひとりぼっちとなりながら何とか一命を取り留めた父は45年に軍役を終了。
帰国後、母・バーバラと結ばれ、イエールに近いニューヘブンに新居を設けている。
父・ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ
■妹ロビンが1953、白血病で───
「以来、私は生命のあることが当たり前と思ってはいけないと思うようになった」
1960年代に“一世を風靡した”実存とは何ぞや。
不条理とは何ぞや。
その後ブッシュ・Jrが「9.11」テロ事件後、
泥沼のアフガン・イラク戦争に突っ込んでいったのはみなさんご承知の通りである。
私はそれを、彼には悪いが、
かのリーマン・ショックの遠因の一つだとも思ってゐる。
われわれの不条理性とは同じ
1942に刊行されたカミュのエッセー「シーシュポスの神話」の方にあるのではないだらうか。
われわれははじめから負け戦と分かっていて、賽の河原に石を積み上げる・・・
(13,2/2日経)
カミュはエッセー「反抗的人間」(51年)で、
歴史を絶対視し恐怖政治をもたらしかねない共産主義革命や、
いかなる暴力の正当化にも反対の立場を取った。
これが哲学者ジャン=ポール・サルトルとの間で「革命か反抗か」の論争を喚起、
サルトルはカミュを
「モラルの名において美徳の暴力をふるっている」と非難し、
カミュは知識人サークルで孤立した。
しかし近年、哲学者のベルナール=アンリ・レヴィは、
「アカデミズムや、虚飾、難解さに堕した哲学者を侮蔑する哲学者」
「芸術家的な哲学者」と見て、
硬直した現代哲学の壁に風穴を開ける可能性を期待しているという。
1945,2「ヤルタ会談」
戦後世界秩序が決定づけられた。
今の北方領土もさうだが、日本政府指導部の怠慢が謗られる。
45,3硫黄島の戦い
フィリピン戦線
45,4沖縄戦
大和沈没
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1948,3/25
川島芳子(愛新覚羅顕㺭(けんし)
東洋の“マタハリ”と呼ばれた川島芳子もついに捕らわれの身になり
「家あれど帰り得ず
/涙あれど語り得ず
/法あれども正しきを得ず
/冤あれども誰にか訴へん」辞世。
父は清国親王 母はモンゴル王女 養父は日本人(川島浪速)
この結縁故アジア人のアジアのための平和をと活動するも
日本敗戦により捕らわれの身となり
一九四八年(昭和二十三年)三月二十五日北京で処刑される。
享年42歳。(飯田耕平氏ブログ)
コミュニストサルトルは革命を夢見ていたのか。
戦後の多くの知識人たちは教養者としてコミュニストだった。
1960年代“アンガージュマン”(参加)と謂い、学生若者たちを盛んに鼓舞したサルトルも、
今ではカミュ以上に忘れられている。
哲学はまったく有効ではなかったのだ。
時代はとっくに
「冷戦」(二つの陣営)と
経済学(両陣営ともに極端に云えば「福祉国家」)
に傾いていった。