「亭主の好きな赤烏帽子」

■カイガラムシ


お母さんが犬を連れて散歩してゐる

犬が小川の縁を覗き込む

小さな女の子が二人

やはりしゃがみこんで覗き込む

お母さんが歩きだすと犬も子供たちも全員が歩きだして

道いっぱいにてんでんばらばらだが

私が軍手を脱いで「こんにちは」と云ふと

「こんにちは」と元気な声がかえってきた

お母さんが先に進むと女の子二人は小さな手でバイバイをして

お母さんの大きなお尻にワンちゃんは尻を振って従うが

もう、私には一顧だにしない


きゃさきゃさきゃさと羽音がして

鳩の群れが鎮守のお寺の甍を越えて

枯れた葡萄畑や、

枯れた柿畑や、

枯れた桃畑の上を翔んで旋回してゆく

冬の青空に眩しいばかりだ

何か不思議な精密機械音ののやうな

鳩の群れの羽音を頭上に聞いて見送ると

鴉がやはり電信柱の上で鳩を見やってゐる

佐久平の方から山を越えてやって来たんだ

朝の8時前には放たれて

1時間も過ぎるころには群れをなして帰ってきた

45羽中、37羽

どこの山の稜線を越えて来たんだらう


どこかでタイヤの空回りするすごい音がするなと思ったら

あんなところで軽トラが悲鳴を上げてゐる

電信柱が揺れているんだ

久さんが軽トラの運転席から降りて来て

タイヤの下あたりを覗きこんで

また運転席に

バックにギヤを入れてみるが

にっちも、さっちも行かない

あれあれと近寄って見ると

荷台の端の変なところが電信柱の鋼のロープにしっかり食い込んじまっている

ちょいと待ってと、二人してよいしょと軽トラをロープから外す

久さんは突然パーキンソンの発作にあおられ

ちょっとそれで眠くなり

それでついと、電信柱に寄ってしまった

春は、不意に眠くなる


わたしは先ほどから畑の端から端まで

腰をかがめてはうろうろしてゐる

犬の散歩も、

鳩の群れの羽音も、

久さんの軽トラのタイヤの音も電信柱も

みんな、みいんなこの畑で見たり聞いたりした

剪定で切り落とされた柿の木の無骨な枝枝が

霜柱の去った畑の土の上にいっぱいに転がり散らばってゐる

これはこれで結構難儀なことだ

枝枝にはカイガラムシの白い塊りが鳩の糞のやうにくっついてゐて

わたしは枝枝を小脇に集めては畑の隅で盛大に燃やす

高く高く積み上げてはぱちぱちと生木が爆ぜる音を聞く

炎が人の丈ほどにも上がると

もうどうにも止まらない


昼近くになると妻が餅を持ってやって来た

盛大な焚火はようやくに大きな枝枝を残して灰になり

あゝ、やっと大人しくなった

餅はこんもりとした灰の上に

生え初めた繫縷はこべはかたい土の足元に

遠い八ヶ岳には銀色に雪が輝き

あとは餅が焼けるのを待つばかり

腰に手を当てて野良着の胸を少しはだけ

冬樹を越えた扇状地の向かう

櫛形山にも少しの雪が残り

見はるかす───


母と子の犬の散歩は幸せではないだらうか

佐久平を碓氷の峠を越えてきゃさきゃさと鳩の群れが帰って来る

これも幸せではないだらうか

あゝ、電信柱が揺れてゐる

久さんはパーキンソンに春はつい眠くなる

これも幸せではないだらうか

餅が焼けてきた

どうかすると小春に風が少しばかり吹いて

焚火の灰がほかりと口を開ける

中の熾きが赤々と焔へ立ち

ひとしきり、また口を閉じる

カイガラムシもおよそ灰の中に真っ白に焼尽し

妻と笑へはおよそこんな幸せな午後はない


倉石智證