Authority(権威)がなくなった時代には大きな頭のやつが出て来て波動が起こるから、

たんすの引き出しに記号をつけて物を整理しておくような「小才」の流儀は用に立たぬ、

と森鴎外が断じたのは1909年だった。

・・・行政府が弱体化した。

橋本徹や石原慎太郎や安倍晋三のようなものが出て来る。

『隷従への道』(The Road to Serfdom)とは

1944年にフリードリヒ・ハイエクによって書 かれた政治学の著書。

社会主義、共産主義、 ファシズム、ナチズムが同根の集産主義であると批判し

当時のベストセラーになった(「春秋」12,11/4日経を参考に)。

行政府が混乱し、一方国家の力が強まれば、個人の自由は失われていくのだ。

義務と権利の主題、集団的自衛権・・・

一見無関係に思える自民党の政策テーゼも、

ある日突然オセロの眼のように引っくり返って、

個人を或いは共同体を締め上げてくるのかも知れない。


積極的自由と、そうではないごく一般的な庶民的な自由、というものがある。

中国などの社会を想定すると、人々は経済が今のところ優先され、

とりあえず眼の前のパンがあればそれでよしとするかのようで、

一党独裁で三権分立や多党制を認めないような政治システムでも、

人権や自由、または環境問題や高齢化社会、

社会的格差が次第に顕著に懸念されるようになっても、

大分の大衆は唯々諾々とその政治システムを受け入れているのだ。

しかし、他の国のことをあれやこれや言える筋合いのものでもない。

国民とは多かれ少なかれ国家に加担する存在であり、

どちらかというと今日の生活であり、

誰しもが遠くを見つめるほどの余裕を日々持てるわけではないからである。


多くの部分が緊密に関連しながら全体が機能しているさま・・・

プラズマとは第4態=電離した気体。

大衆と云ふものを物語るとき。

さて、大衆は公共的理性になり得るのか。

プラズマ は、気体を構成する分子が部分的に、または完全に電離し、

陽イオンと電子に別れて自由に運動している状態である。

プラズマは、中に多数の自由電子があるため電流が極めて流れやすいという特徴を持つ。

電流が流れればその近辺に電磁場を生じ、

それがまたプラズマ自身の運動に大きく影響する。

そのため、プラズマ中では粒子は集団行動をとりやすく、

外部から電磁場を掛ければそれに強く反応し、

全体として有機的な挙動が観測される。

(有機化学的という意味ではなく、有機体のように

多くの部分が緊密に関連しながら全体が機能しているさまのこと)


日露戦争の後、薄氷の勝利に対する条約が不満だとて日比谷焼討ち事件もあった。

日本は足下も知らず夜郎事大に傲岸不遜になり、

金甌無欠の偏狭なナショナリズムは国家の進むべき道を誤らせ、

そこからあとは日本は容易に太平洋戦争に突入していった。

歴史を鑑みれば、クリミア戦争でも第一次大戦でもそうだが、

相対する国民の両国の世論が単純に沸騰することで、

微細な問題が大きな国際紛争へと発展してゆくことは、歴史的事実が教えていることである。

そういう曖昧な大衆という息が苦しくなるほどの怠惰と臆病と痴鈍の、

蹌踉と迷妄させる霧の中から、

たとえばランボーは決然と灼熱の砂漠へと旅たって行ったわけだが、

積極的な自由とは、一度は国家という漠然とした秩序から、

撤退することで完成することもあるようだ。


マルクス経済学が社会主義思想として世界に奔流のように流れ出して以来、

それ以前のイギリスからの産業革命や、フランスからの市民革命、

アメリカ発の自由主義資本革命なども相まって、

それらの不本意な部分が第1次世界大戦に行き着いたわけだが、

経済が世界的に自己免疫過剰反応に苦しんでいる最中、

様々な国家が、地政学的、自国の歴史的経緯もあるが、

その中である意味では必然とも云えるそれらの国特有の政体を採用し始めた。

『隷従への道』が始まったのである。

かって人々は神との契約のもと、いたるところで鉄鎖につながれていたが、

共和など社会との契約に変換した後でも、

人々の心性において、大衆とは秩序へ、

つまり、ある体制へと容易に傾斜してゆくプラズマ=磁場次第では

どうにでも急変しうる自由電子みたいなものであったのである。


安保騒動はあったがすでにオリンピックも終わり右肩上がりの平和とも云える時代に、

美濃部都知事は大変な得票率で革新都政をひっぱってゆく。

いわゆる所得倍増が実現した後で、公害問題などが列島に叢生、

命を大事に、暮しを大事に、社会主義生活重視の政策を頻発した。

1995では青島幸男、横山ノックなどのタレント議員が

それぞれ東京と、大阪の知事に選ばれた。

1999石原慎太郎が約260万票で東京都知事に選ばれる。

選挙のたびに「国民に信を問え」と云ふが、実におかしなことである。

大方が、国民が正しかったことなどほとんどないからである。

チャーチルが云ったことだか

「民主主義は最低の政治手法である。ただそのほかの政治手法を除いての話だが」

は人口に膾炙している。


「国家と云うものもいい習慣を持たないといけない」

とサッチャー首相は云ふ。

彼女に記者は「今のお気持ちは」と尋ねる。

元首相は問い返す。

「なぜ私の考えでなく、気持ちを尋ねるのか」。

元首相は言う。

「考え」を「言葉」にし「言葉」を「行動」にする。

「行動」が「習慣」となり「人格」を形づくり、やがて「運命(さだめ)」となる。

移ろいがちな「気持ち」でなく「考え」が大事なのだと。

(サッチャー元首相の伝記映画の中で)。

きょうのニュースでは元首相は87歳になられた(12,12/22)。


しかし、国民のその時々のマンタリテ(心性)は

大いにその生まれ育った時代の

たとえばとくに経済的背景にも影響されるようだ。

今回の衆院選(12/16)。

投票率はついに史上最低の60%を割り込んだ。

直後の韓国大統領戦(朴槿恵氏新大統領に)の75.8%とは大きな隔たりがある。

国民は、あるいは有権者の若年層たちはすっかり政治に対してあきらめてしまったのか。

それらが一番危惧されるところである。

投票率60%を割った選挙が選良を選んだ。

あきらかにすべてを白紙委任したわけではない。

しかし、それらが国家をいや応なく形づくり始める。

だが、60%を割り込んだ上での国家体は、

民主主義を形成する基本形をすでに逸脱しているといわざるを得ないのではないか。

はたしてこれから実行されるであろう一挙イットウソクに対して

内外に、あれは国家の判断だったと国民一人ひとりが納得し、自

信をもてるかどうかが問題でになる。


苛酷な第1次世界大戦後もそうだったが、

各国は奈落の底の経済に対してそれぞれの独自の政体

(ナチズム、共産主義、全体主義、皇国史観)を掲げ、

アジテートしプロパガンダを徹底した。

ドイツではワイマール理想国家がものすごいインフレの急襲の前に

炎となって燃え尽きてナチズムが台頭し、

日本では政友会と民政党の2大政党制政治がスキャンダル合戦の末、断末魔を上げる。

国家行政が衰退し、一見中立、公平のように見える、頼もしきかなの軍部に、

国民の多くはは疑義を唱えることもなく傾斜し、台頭を許すようになってゆくのである。

現今の2大政党制も同根である。

みな「こっちの水が甘いぞ」と誘い込む。


失われた20年というものがある。

長い長いデフレの中で人々はどこかやりようもない憤懣に窒息しかかっている。

少子高齢化がいよいよ眼の前に現実問題として立ち現われ、

パラサイトの人口は増加、単一世帯の増加、生活保護者の急増、

非正規雇用者はついに3人に1人という恐ろしい事態に立ち入っている。

しかも、巷間云われているやうに、国家の負債額は1000兆円を超えた。

バブル直前の時は当時の三重野日銀総裁は

「まるで乾いた薪の上にいるようだ」と発言したが、

はたして今の国民の多くの内心のマンタリテはどのようにふつふつと醗酵しているのだらうか。


やらなければならない様々な課題は出尽くしている。

要は、どうしてそれらが素早く前へと進まないのかである。

企業においてならあっと云う間にマーケットのシェアが奪われていくことになる。

実際に日本の政治部門においては、寒風吹きすさぶシャッター通りに他ならなく、

ジャパン・パッシングは普通になった。

郊外迂回路は新バイパスの韓国、台湾、香港、シンガポールなどになった。

今はそっちの方が勢いが盛んで賑やかである。

「Authority(権威)がなくなった時代には」と森鴎外が云ったとき、

オーソリチィとは=然るべき統治機構・秩序であるか。

アメリカ(オバマ)でも、インド(シン首相)でも、イタリア(モンティ首相)でも、

多くの国家で民主主義が思ったほどに有効に機能していない。

それどころか多くの時間とエネルギーと費用を浪費して、

行きつ戻りつしている有様に落ち込んでいる。


キーワードは“The End of Free Market”である。

中央集権的資源配分。

端的には国家資本主義“レッド・チャイナ”のことである。

かって社会主義が効率が悪かったが今は、民主主義の方が効率が悪い。

WTO加盟後10年で外準15倍=3兆㌦と事実は物語る。

そしてなんにせよ国家も国民も名目の中で生きているということである。

GDPが雇用を生み、GDPが年金に直結し、GDPが税収の基になり

国民サービスへの配分の原資になるという当然の理だ。

だがだからといって、むろん、

全部を一党独裁開発国家の中国の其の通りにせよということではない。

民主主義を探訪する。

チャーチルの言葉を踏まえてではあるが、

あえて云ふならばここは民主主義の統治機構の抜本的改革が必要になりそうだと思ふのである。


倉石智證