サセサセさしすキリギリス
おいおい、おまへ
そんなに鳴いて大丈夫か
この通りにはマツヤ、ローソン、ギョーザ屋、越前屋、
華為技術、GOGOカレー、ワタミまで、
みんな、しのぎを削っている
サセサセさしすキリギリス
あゝ、おまへを聞いているだけで
夜通し、眠れない者がゐる
煌々と灯りを付けて
ネオン瞬くこんなところにも
愛が、やっぱり欲しいのだ
圓朝が広大なお屋敷が昔あったといふが、
この公園に
カップルが夜に塗まみれ
それを、おまへ
夜通し、鳴くといふのか
腕を組み、富久交番の傍ら
暫し、小泉八雲や圓朝の来歴を思ふ
サセサセさしすキリギリス
おいおい、おまへ
おまへはいっッも同じ処で鳴いてゐるが
おまわりさんが私を見てゐる───
明治から今ころまで
考えたらずいぶんとほくまできたもんじゃないか
倉石智證
初代三遊亭圓朝、
(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 明治33年(1900年)8月11日)
今の新宿一丁目、花園公園に広大なお屋敷を構えていたといふ。
圓朝自作の人情噺二作(芝浜と文七元結)
“贈与の経済”───
「文七元結」
バクチで借金まみれの左官の長兵衛。
改心させようと娘のお久は吉原に自らを売り、50両という金をこさえる。
長兵衛はその金を持って帰る途中、
集金した大金をなくして川へ飛び込もうとしていた手代の文七に会い、
その50両を与えてしまう――。
色々あって最終的には金もお久も無事に戻り、
それがきっかけとなって文七とお久は所帯を持ち、元結の店を開く。
粋で丈夫な元結は江戸っ子の評判となり、
誰言うとなく文七元結……。
円朝はそんな人情噺を仕立て上げたわけである。
(落語家立川談四楼10,10/22日経)
さて、そのお屋敷から歩いて5分ほど、
靖国通り沿いの富久交番の裏手、
今は成女の学校の正門の脇に、小泉八雲の旧居跡、という碑文が立ってゐる。
(以下webより)
▼明治23(1890)年、
通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り
4月4日横浜港に。
7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、
島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と
島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に就任、
8月30日に松江到着。
▼明治24(1891)年、
1月 松江の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚する。
11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。
校長は嘉納治五郎)の英語教師として熊本に赴任。
▼明治27(1894)年 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
▼明治29(1896)年 東京帝国大学文科の英文学講師。
帰化して「小泉八雲」と名乗る。
秋に東京都新宿区富久町に転居する。
▼明治35(1902)年3月 東京都新宿区西大久保の家に転居する。
▼明治36(1903)年 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)
▼明治37(1904)年 早稲田大学の講師を勤め、
9月26日に狭心症により死去。54歳没。
墓は東京の雑司ヶ谷墓地。
言葉を操るお3名さま方が、すぐお近くにお住まいされていた。
八雲は圓朝の人情噺を聞いただらうか。
新宿に縁の深い漱石も、小泉八雲と交流があったことは想像に難くない。
1900年前後のことである。
たった、100年ちょっと前のことである。