福島の三春に滝桜を見了はんぬ。

それからわたしたちは福聚寺に立ち寄り、

鶴ヶ城へと流れた。

天守閣に登り、花片が天守の甍に触れるのを見ていると、

桜花が白く眼下に雲とひろがった。

友人はそれから弘前へと桜を求めて旅立った。


「亭主の好きな赤烏帽子」


「亭主の好きな赤烏帽子」

花に嫁ぐ

花を娶る

花瓶の花をそのままトイレに飾った

私が便座に座ると、ちょうど左肩の上から見られているやうな感じになった

わたしは見られている


滝桜のやうに一夜にして漲り

はらはらと散ってゆく

それはあっという間に陸地を伝わり

弘前に伝染った

みるみる膨らんでゆくのが分かる


花に嫁ぐ

花を娶る

私は見られているが

便座の上のわたしはみるみる桃色に染まって

桃色の眼のふちから見やると

ぞろぞろと大勢の人が列島を遡ってゆくのが眼に入った

しかし、

さらにその先の樺太まで

あれらはやはりいまだの沈黙の春だ

花に嫁ぐ

花を娶る

空がどんどん近づいてくる



「亭主の好きな赤烏帽子」
福聚寺(玄侑和尚さんちの)
「亭主の好きな赤烏帽子」
鶴ヶ城天守閣より


倉石智證

京の都から病がちなお姫さまがその側女とこの磐梯熱海の霊験をきいて、

はるばると500の川を越えてやって来たのは、伝わる話の中で北畠顕家の名が出るので、

おそらく南北朝の時代のことだ。

そして南北朝といへばやはり花は吉野で、

吉野といへば西行さんといふことになる。


「吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲き遅れたる桜なるべし」

「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそわずなりにき」

「白川のこずゑを見てぞなぐさむる吉野の山に通ふ心を」

「散る花を惜しむ心やとどまりてまた来ん春のたねになるべき」

花の終わりをいたみながら次の春に寄せる思い・・・

「願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃」

※如月の望月=2月15日。釈迦の命日。

(願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい)

西行が来世へ旅立ったのは2月16日。

釈迦の後ろを一日遅れてついて行った。

「ほとけには 桜の花をたてまつれ 我が後の世を 人とぶらはば」

日本人のDNA、断ち切り難し。

心が身にそはずになりたる人たちの列が、

ぞろぞろと南方北へ動く気配がする。


桜花とは話がはずれるが、

宿を借りた磐梯熱海の華の湯には、

このやうな紀行文が風呂に行く廊下の壁に認められていた。

文政10年ころとあるから、西暦では1827年ころとなる。


「熱海のみちくさ」(藤沼玉嶌記」)

月見月のなかころ、熱海てう温泉に、まからはやと、

孫を片荷に、ぢぢひは中荷に打乗り、またき朝露を押しわけて、はばあと馬士うちつれて、

富田の里を打過ぎ、下伊豆原を行く、

西方の景色を見渡せハ、野路の尾花の色銹て、葉も末枯れて、

這ひつとふ蔦紅葉片むく笠を引たれは

「どちらから風にみのいる秋の空」

なと口すさみて、下伊豆の里をよぎれハ、

西の田の面に古きほこらなといと尊く、

南の方は、山根の流清らかに、坂を登れば松柏生ひ繁りて、

月日の光りを遮り、青菖のしとねの如く、心も澄み渡りけるハ諏訪明神の鎮座なりけり、

「神さびや口そそぐほど蔦の露」

かくまつりて、幣なるささけ、鈴打ふりて過き行けそ、

四ッ屋の里出て山路めきて、ほとなく安子嶋とう村をも近ふ見得渡り、

葛葉とるなう賤の男の、いとなまめきし声打揃て、歌うなといとおかしくも、また哀れにも侍る。

「わか老の葛のうら葉や秋の山」


安子嶋も打すぎぬれハ、行ほとなく会津より奥仙道の駅家(うまや)なる横川の橋にいたり、

両の岸をのぞめは、大石をもて積みのほせ、大木をくみ上げ、

丸木を割て土を盛り、地にすくれたる大橋なり、

瀑水落て石高く、矢を射る如くさかまき狂ふありさま、いとものすこき、

馬もしとろにして、からき思ひをなし相渡りて

「人影に鮎もひえむや秋の風」

かく打過て横川の駅に至り、馬よりおりて腰のひさこを動かし、

酒なとくみかわしそ、心もすこやかに、眼に見ゆるものみな面白からさるものなし

「押わけてめくへおきけり萩の中」

なと打わらひて道をいそぎ、根岸の道もよくすきて、熱海湯元にたよりつきぬ


「湯ほてりの抜けるほとつつ夜寒哉」

単衣ころもを身にまとひ、濡れ手拭を片手にさけ、

湯けたに行かふ老も若きもそぞろめきて、いとにきにきしく、

両方の楼上を見渡せハ、むかしにかわり、きらひやかにして、浮身の君も数多く、

楊柳の袖を欄干にたれて、糸竹の妙なる音色なと、

旅行くの賢愚をそらさまにし、なまめくさまなと、いとおかしく、

げに目出度温泉とはなりぬと、うれしかりけれハ、

「うかれ女に白髪見せふ秋の暮」


あくる日ハ、空さいわひにいとのとか、うかれ出て、

川向ひなる大峯とやらんにまからむものと、

はたけ道をつたひ、小川の橋相わたり、古き釜をみ、

いにしへのいかなる人のもて遊ひ給へなものと、奥床しく思ひやられて、

「なつかしき露の名のみや茶の湯釜」

釜なる湯をのそみ呑なとして、安らひつつ、

滝の不動に詣てはやと、子供なと引つれ畑道つたひ、

山根打すきて、木々のしけりたる中に、

峩々たる岩石そば立ち、蔦紅葉さひつとひかかり、

つくりなとものすこく岩屋の奥に立たせ給ふ霊像を拝して、

「尊さに手折られもせぬ紅葉哉」

なと句ならすを捧げ奉りて、御坂を下りかへり、

昼はひねもす湯に入り、夜は夜もすから榾火をうちかこみて

「なかき夜を山豊年の咄しかな」


日数もみちて、家路に帰る心せはしく、馬のひつめもはげしかりたれハ、

他事なく花月楼の床に入ぬ

「温泉の香のまた袖にあり家の萩」

かくつたなき筆を、うこかしそめるも老のうつつと見ゆるたまひかし


  花月楼 玉嶋

  平成6年四月  

  彦峯書


西行さんからおよそ500年経って、今度は

芭蕉さんが1689年、陸奥に歌枕を尋ね歩いた。

西行500回忌であった。

その間“三十一文字”はショートカットされて俳句となり、

さらにそれから200年経った年に、

正岡子規が陸奥の旅に出てゐる。

五七五はまことわれらが日本人の生活のリズムとなって引きつがれている。

滝桜はおよそ1000年、

根っこは100㍍四方にひろがるとかや、

木の精霊、花の精霊はまことに地に空にましまして、まこと

「なにごとのおはしますかはしらねともかたじけなさになみたこぼるゝ」

なのであった。

滝桜がはらはらと身を震わして花を全身に散らすころ、

花の精霊は空に漂ひい出て、

まぎれもなく弘前の方に向かったのだと思ふのだが・・・