「亭主の好きな赤烏帽子」

かへらばや

浜の磯水いそみにかへらばや

あれ、人の香のするなつかしや

やゝひととせの過ぎむとす

碧き海原に西の風吹く、

人の香のする


海嘯かいしょうの磯の轟とどろのおそろしや

沖へ流さる黒き水塊

とほざかる陸地くがちのさらに水煙の

白くしぶく

山際に街を押し上げ人の命も

さらばとなりに

吾は沖に出でぬ

人知れぬ長き旅路に


かへらばや

忘れたことぞなき

片時も

波を枕に心細きかな

に寄する波

また波の主のなき舳先、艫とも、舷ふなばたを洗い去りぬ

鳥とても便りなきに

すぐに飛び立ち

また長く帰り来むもなし


夜ともなれば星のまたゝくよ

いをの声さへもやすみ

人っ子ひとり

わたしは全世界から忘れられ

孤独になった


一人ぽっちに馴れると

何事もなきかのごとく

季節がこんな船のうへにも流れることに

夏が過ぎ

秋が過ぎ

冬が過ぎた

波ばかりではなく

風も、雨も

それに時までも吾が船体を洗いざらいにし

錆びが浮きはじめた白い舷は

それはそれで老人のやうに枯れて

味わひ深くなった


夜が過ぎ、昼が過ぎ

昼が過ぎ夜が過ぎまた朝になり

繰り返し繰り返し一日が過ぎた

アラスカといふ海に漂ひ出でぬ


碧いあおい海なりき

青いあおい空なりき

西風の吹く

あゝ、人の香のする

懐かしや

わが故郷のともばらの浜辺に

かへらばや

吾が船の煙突は

思慮深き佇立ぞ

水漬く屍かばねさがす

あのみな人の

いまはまさに逝かんとするが

待て少し

いまはの時を

刻を───

あゝ、故郷のともばらの浜にかへらばや


倉石智證

津波で流され米アラスカ州沖を漂流する日本漁船。

米当局は漁船を沈める方針

 

幾山河こえさり行かば寂しさの

はてなむ国ぞけふも旅ゆく

若山牧水の 第一歌集 『海の声』 (明治41(1908)年)

錆びてなほ漂ふ船の一人りなるはてなむ海ぞけふの旅来て(智笑)


白鳥はかなしからずや空の青

海のあをにも染まずただよふ

あぁあ、こんなところまでよくぞ無事に

あの大勢のみな人の形見を乗せてやって来たものを、

さながらヤマトタケルノ「あづまはや」と嘆きつつ、

白鳥にぞなって、故郷に帰ってゆくがごときではないか。