「亭主の好きな赤烏帽子」
1895マルコーニ21歳で無線電信を発明した。

この頃の日本の青春群像を少し───

1894漱石は神経衰弱を患い鎌倉の円覚寺に参禅しに行ったりしている(27歳)。

塔頭「帰源院」で寝起きした。

「佛性は白き桔梗にこそあらめ」

「門」1910に「朝日新聞」に連載はこのときの体験をもとにして書かれたとも云われる。

子規は、病身でありながら従軍を切望し、

「行かば我れ筆の花散る処ところまで」

「神州男児万々歳」といった詩句を書いた。

明治28(1895),5月、1ヶ月あまりの大連滞在の後、帰国の船の上で喀血

神戸病院へ入院。

文学へ専念しようと決意する。

文学と討ち死にを覚悟。

松山へ漱石の愚佛庵に転がり込む。

銀杏活けてしばらく仮の書斎かな

10月末、もう一度東京の根岸の家に戻る。

脊椎カリエスが発症する。

つらい闘病生活が始まる

「墨汁一滴」

さかんに呻き、さかんに叫び、さかんに泣く。

ホトトギスをはじめる。

子規は晩年墨汁一滴で「痛いことも痛いが、綺麗なこともきれいだ」。

金魚を金魚鉢に放して見ている。

因みの漱石も子規も1867年生まれの同じ齢である。


樋口一葉(1872~1896)東京生まれ

17歳の時に父親が亡くなり、戸主として母と妹を養う責任を負う。

生涯に15回引っ越した。

14回目の住いが東京・下谷竜泉寺町で

(一葉は1893,7月から翌年の4月まで吉原と目と鼻の先にある下谷竜泉寺町で雑貨屋を営んだ)

ここで見聞きしたことが、奇跡の14ヶ月と呼ばれる晩年の創作につながった。

「たけくらべ」は、

95年から「文学界」に断続的に掲載したのを、

96,4月に「文藝倶楽部」に一括掲載。

森鴎外が激賞した。

その年、結核により死去、貧しさの中で24歳の短い命を閉じた。

95年には鴎外はすでに32歳、そんな鴎外も

1889「於母影」を発表した時はまだ26歳のみずみずしさ。

君をはじめて見てしとき

そのうれしさやいかなりし

むすぶおもひもとけそめて

笛の声とはなりにけり


孫文(29歳)

梅屋庄吉(27歳)

孫文の革命(辛亥革命1911年)を物心両面で支えたのは

「日活」創始者の1人で長崎出身の実業家、梅屋庄吉(1868~1934年)である。

梅屋は香港で写真館を経営していた

1895年、孫文と出会って意気投合し、革命のための資金を提供し続けた。

現在の貨幣価値で総額1兆円とも2兆円ともいわれる。

盟友の支援なしに革命は成就しなかったかもしれない。

半面、梅屋がシンガポールで映画館を開いたときは孫文を知る華僑らが助けたという。

東京の日比谷公園内の「松本楼」といえば、

毎年恒例の10円カレーを思い浮かべる人も多かろう。

だがここは「中国革命の父」と呼ばれる孫文ゆかりの場でもある。

店内の古びたピアノはかつて孫文の妻、宋慶齢が愛用したものという。

人生の後半を革命にささげ、辛亥革命を成した孫文。

その孫文の革命を資金面で支えた梅屋庄吉。

「君は兵を挙げよ、我は財をもって支援す」

「亭主の好きな赤烏帽子」

■右が孫文である。

胡錦濤国家主席2008年に来日した時、松本楼を訪れている。

孫文と梅屋にまつわる史料をながめ、功績をしのんだ。

その際には「中日友好、世世代代」と記帳した。

(日経「春秋」)


自由新聞社

社長板垣退助

自由新聞社は銀座にあった。

社長は板垣退助である。

板垣は社員を集めて「孫子」を講じるのが常で、

聞き飽きた古手の社員は早々に席を立つのだが、

父は高名な政治家の話を熱心に拝聴したらしい。

もうひとり、一生懸命に聞いている若い記者がいた。

それが幸徳伝次郎、後の秋水である。

189523歳の父策太郎は1歳年長の秋水(24歳)と親友になる。

月給は7円、下宿代が6円

懐事情は秋水も似たようなもので、

2人で16銭の手当が付く泊まり勤務を買って出て、

机を並べてアルバイト原稿を書いた。

一緒に飲み歩き、悪所通いにも精を出したらしい。

(小泉淳作・画家11,8/3「私の履歴書」)

2012,1/9、淳作さんは今年亡くなられている。


“光る、ひかる東芝・・・”をうっかり忘れるところだった。

1890年11月、第1回帝国議会が開かれたときの議事堂は木造だった。

石造などの堅固な建築が議会の開会に間に合わず、仮の議事堂として建てられた。

ただし木造は火災に弱い。翌91年1月焼失してしまう。

原因は、漏電だった。

電灯がまだ街中に普及していなかったころのことだ。

「電気は怖い、危ない」との声が高まり、

電気をいかに安全に使うかが電線や電気器具メーカーなど産業界の課題になった。

電線を覆う素材を何にすれば発火を防げるか、感電防止の技術はないか。

人々は知恵を絞り、電気を生活やものづくりに役立ててきた。


明治維新の人文科学の面の人材の系譜は続いていたものだが、

「周は旧邦といへども、それ命、維れ新たなり」

明治維新の「維新」を命名、一等先に掲げたのは「熊本実学党」を実践した

横井小楠である。

坂本龍馬「日本をいまいちどせんたく(洗濯)申し候」

はまさに維新そのものであったが、

「共和」という概念は西郷隆盛に受け継がれ、

小楠の弟子の井上毅明治憲法をつくり、

また弟子の元田永孚ながざね教育勅語をものした。

徳富蘇峰もこの熊本実学党の流れを汲む。


ところがテクノロジーの方はそれらの系譜とは別に突然ぽんと現れることもあるやうだ。

1890のこの年、国産電球「白熱舎」が設立された。

木造国会議事堂が漏電の事故で燃えてしまう(91,1月)前の年である。