1895辺りまで大雑把に世界の中における特に隣国の朝鮮や中国との歴史的不均衡を述べた。
また鉄道や電気が地表や地面を縦横に走り始め、
新たなる資本家たちの勃興における生産性の飛躍や、それによる新しい人々の移動や、
しかしまた、いつでもそうだがそれに乗り遅れたり、排除されつつある人たちのことも少し述べた。
近代というものをどのやうに解き明かすか。
近代とはプロメテウス以来のわたしたちのとって引き返すことができない原罪であるのか、
ポンドはようやく世界に凋落しつつ、
しかし、アメリカ大陸ではかって見たこともないダイナミズムで産業資本家たち、
いわゆるエンタープライズが立ちあがって来る。
ディケンズは1867年に米国を再訪する。
ディケンズは小説の登場人物にこう言わせた。
「競争、競争また競争――
新発明に次ぐ新発明――
変化に次ぐ変化――世の中には、わしはもうついてゆけない」
蒸気機関と鉄道網が社会の鼓動の速度を増し、
ダーウィンの進化論(1859)やライエルの地質学が世界観、価値観を覆した。
思想とテクノロジーの変化の衝撃が社会を揺るがせた。
ダーウィンの進化論“自然選択”は選択淘汰となり、
資本主義のまことしやかなもう一つの論理の別な核となってゆく。
1859には偶然のやうにJ・S・ミルが「自由論」を著わす。
自由とは何か、を問いかける。
いずれ、「全的自由」としてアメリカのエンタープライズには不可欠な要素になる、
資本性の自由にも敷衍されるかとも思われる。
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。
同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、
それはその者が自分の主張しかできないからである」
と述べた。
別な表現では、ビスマルクは、
「愚者は体験に習い、賢者は歴史に習う」(ビスマルク)
歴史とは他者のこと、客観性のことか。
似た言葉で為政者がよく使う言葉に、
「由らしむべし、知らしむべからず」
があり、
「アンガージュマン」
とサルトルが「五月騒動」や我らの「安保闘争」で盛んに云ったのは「主体的参加」、
つまり、今はやりの責任ある独立した個人、ということであらう。
車は左、飲酒運転はだめ等社会が決めた物事の本質の中には
人々が本来自分の中に持ってゐる積極的な判断(自由)を衰弱させる。
政府、世論からの自由。
不満足とはこの場合積極的な自由か。
満足とは他から与えられた自由。
マルクスの云ふ自由は神からの全的自由である。
「モノ」と「事」からの自由。
モノの究極とは結局はマネーのことでもある。
「事」はそれこそ神話的キリスト教精神の連綿としたつながりのことである。
それは結局のところ無神論に行きつき、
悪しきロゴスから、意味を無意味に求めることからの解放を説いた。
すぐにニーチェが“神は死んだ”と呻吟、
ドストエフスキーは「罪と罰」のなかで、
もし神がいなかったら、神を創り出さなければならないと、主人公に云わせる。
資本主義は確かにマルクスが云うように社会に新たなヒエラルキーを自己リレーし、
労働問題や、社会主義運動も生まれてくる。
それらはみんな新たな近代がもたらせつつあるものであった。
リーランド、スタンフォード(アメリカ大陸横断鉄道、スタンフォード大学)
ロックフェラー(石油王)
ヴァンダービルト(鉄道王)
カーネギ(鉄鋼王)
広瀬宰平(住友別子銅山)
益田孝(官営三池炭坑が三井に払い下げに1882)
岩崎弥太郎(長崎造船所が三菱に1884)
デュポン(ダイナマイト工場)
コダック(写真)
ベンツとダイムラーは(ドイツでガソリン車を)
1892年、ドイツのルドルフ・ディーゼル博士がディーゼルを発明。
1893モービル創業。
タイムマシンの造語はH・G・ウエルズの小説「タイムマシン」に由来するが、
1895年の作品であり、アインシュタインの相対論の10年も前のものだ。
このマシンに乗って802701年の未来世界を見聞し、無事またロンドンへ帰りつく物語である。
背景には当時の流行思潮の進化論と共産主義ユートピアがある。
進化論1859
資本論1889
生存や生活の困難に立ち向かう必要のなくなった人類の大半は脆弱な美しい存在に退化し、
残りの一部はただ機械的に働くだけの存在に変種している。
共に知性の消えた2種類の動物に分化している。
砂を噛んだような未来小説である。
面白いのは、人類史の段階認識がベーシック・インカム議論(配分の問題)と
ウエルズの未来論で一致していることである。
テクノロジーをもってすれば、生活に必要な基礎的な物資やサービスが
人口のほんの一部の人間の働きで得られるやうになる。
生産ではなく大きな政府の「配分」の問題ということになる。
別の見方をすれば理想的社会主義だ。
生産の3要素として、
・資本
・労働
・技術(テクノロジー、科学)
だとして、テクノロジーのイノベーションの一つとして、
1895イタリア人マルコーニが、無線通信装置を創案。
未だたったの22歳のことである。
翌々年には、無線通信会社をロンドンに設立する。
会社特許をとり、通信は英仏海峡をこえ、ついには大西洋横断にも成功。
直進する電波が、なぜ水平線のかなたの大陸に到達するのか、
不思議におもわれていたときに。
この超絶の技術が認められて、ノーベル物理学賞をうけるのは、35歳の年である。
ようやく放射線の話が出てきた。
原子から素粒子にいたる20世紀の物理学はよく
「X線からクオークまで」と表現される。
19世紀末、1895年のX線発見の直後には
ベクレルやキュリー夫妻により放射能が発見され、
この無尽蔵のエネルギーはアインシュタインの相対性理論(1905)が導いた質量エネルギーで説明された。
感嘆したキュリー夫人はまだ無名だったアインシュタインの就職先を気遣ったという。
(物理学者・甲南大学教授 佐藤文隆11,5/17日経)
蒸気機関車に乗って労働者は無尽蔵に農村から都市へと流れ込んできた。
一方で劣悪なスラムが都市の周辺に作り出されてゆく。
金融資本家が台頭してくる。
1885ジェイコブ・シフ(ドイツ、フランクフルトの旧いユダヤ教徒の家に生まれる)は、
当時「西半球で最も影響力のある2つの国際銀行家の1つ」と謳われた
クーン・ローブの頭取に就任。
鉄道建設に投資し、ニューヨークのペンシルベニア駅や
ハドソン川地下横断トンネルなどを建設、
電信会社、ゴム産業、食品加工の分野にも進出した。
ユダヤ資本は特に国境を越えてゆく。
国家には縛られないのだ。
日露戦争の陰にロスチャイルドの姿が見え隠れしている。
勿論、ロスチャイルドは陰の指南役であるから直接表に出ることはない。
ニューヨークの金融家ジェイコブ・シフを代理人として立ち働かせている。
そのロンドンでの起債でわが高橋是清がお世話になるのがこのジェイコブ・シフさまであるが───
日本の銀行を少し述べておく。
1867,2/15渋沢栄一は主君となった徳川慶喜の名代として
パリ万博視察に行くことになった慶喜の弟昭武の随員として渡仏。
まず、スエズ運河を渡航する際にその大きなプロジェクトに感嘆し、
そして、瞬時に株式というシステムの機能を理解した、と云われている。
おそらくヨーロッパを巡っているうちに近代資本主義のダイナミズムに気が付いたに違いない。
イギリスでは“リミテッド”(有限責任)という概念は1840年代の初めに確立していた。
1873第一国立銀行が設立され(第一…はただのナンバリング)
伊藤博文の国立銀行条例の建議(1872)に基づいて設立(1873)第一国立銀行。
よって国立銀行と云うが、民間資本である。
発券銀行制度を導入した条例、当初は発行する銀行券は金貨との交換を義務付けられていた。
三井組と小野組を中核にして設立した「三井小野組合銀行」の後身。
従来、三井も小野も互いに同様の営業を為していたが
これら富豪を含めなければ新しい事業に邁進できないとして、
かねてより井上馨、渋沢栄一紙幣頭、芳川顕正紙幣権頭の尽力により2社を纏めたものであった。
(webより)
1875渋沢栄一が初代頭取に就任する。
1876年(明治9年)、不換紙幣の発行も認められるようになると急増し、
1879年までに153の国立銀行が開設された(以後は認められていない)
1882年に日本銀行が開設されると、国立銀行は民営化されて普通銀行になり、
紙幣発行も日本銀行のみが行うようになった(旧国立銀行の紙幣は暫くの間は流通していた)。
「1881政変」でインフレ主義の大蔵卿大隈重信が下野し、かわって松方正義が大蔵大臣になる。
以降16年間大蔵卿・蔵相を務め、
大規模な紙幣整理と軍拡のための増税を強行し( 松方財政)、
農民層の分解を促進して資本主義の基礎をつくったとされるが、
これがかの有名な“松方デフレ”と呼ばれるもので、
1884秩父騒動にみられるように農民を困窮のどん底に落とし込んだ。
しかし、政府の中銀には正貨が準備マネーとして蓄えられ、
それにより政府はさらに新しいマネー(ハイパワード・マネー)を用意することが可能になったわけだった。
マネーストックを増やすためには、正しくは「新しいマネー」が必要となる。
そしてそれは「借りる」という行為においてのみ、資産は余剰を生み、
また銀行に還って来るということになったわけだった。
高橋是清は、
1895(明治28)年日本銀行から横浜正金銀行に本店支配人として入行し、
97年には副頭取に就任し、
99年に日銀副総裁就任のため正金銀行を退職した。
またこの頃日本では金融資本家として一世を風靡していたのは松本重太郎である。
1878第百三十国立銀行を設立したのを始め、
大阪紡績、山陽鉄道、明治生命保険、大阪麦酒など多数の企業に関与してゆく。
1890年11月、第1回帝国議会が開かれたときの議事堂は木造だった。
石造などの堅固な建築が議会の開会に間に合わず、仮の議事堂として建てられた。
ただし木造は火災に弱い。翌91年1月に焼失してしまう。
原因は、漏電だった。
電灯がまだ街中に普及していなかったころのことだ。
「電気は怖い、危ない」との声が高まり、
電気をいかに安全に使うかが電線や電気器具メーカーなど産業界の課題になった。
電線を覆う素材を何にすれば発火を防げるか、感電防止の技術はないか。
人々は知恵を絞り、電気を生活やものづくりに役立ててきた。
倉石智證