アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明し、

福沢諭吉が「文明論之概略」を著した

1875年、これも明治維新後の日本国にとって経済の血流となる紙幣製作のために、

お雇い外国人が呼ばれた。

維新後の新政府は技術を海外にもとめた。

白羽の矢は、エドアルド・キョッソーネに。

紙幣の銅版画のプロだった。

お雇い外国人として高給でよばれたイタリア人は、けっして版画家の最高峰とはいえない。

しかも、故郷ジェノヴァは、ルネサンスこのかた、芸術のイタリアの局外におかれてきたし、

19世紀のイタリア画壇は、低調そのものだった。

野望もあっただろうに、キョッソーネは極東の政府使用人として、忠実にはたらいた。

じつに何百種類の銅版原画と要人の肖像画とを制作。

日本の水準を一挙に高からしめた。

しかも、切手、印紙、証券、国債から紙幣まで、およぶところ万般。

そしていまなお、日本の職人さんの腕に引きつがれている。

■1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、

同省から破格の慰労金2500円を授与された。

1898年、東京・麹町の自宅で65歳で死去、

現在も東京の青山墓地におやすみになってゐる。

 

カメラが売りだされた。

富士フィルムにぶっちぎられたコダック社は───

1873クロード・モネ「印象、日の出」一日の始まりを告げる美しくも切ない太陽の光、

写実絵画が主流だった発表当時は、

「未完成だ、汚らしい」と批判され、侮蔑を込めて「印象派」と呼ばれた。

モネの人生は、光の芸術である写真の黎明期と重なる。

1888年、コダック社から誰でも手軽に買えるカメラが発売されたのが、

モネ48歳のとき。

その宣伝文句は

「あなたはボタンを押すだけ、あとはコダックが全部やります」

というものだった。

(写真家 ハービー・山口12,2/21日経)

 

勝海舟

木村熊二

松浦栄

(写真)

島崎藤村

私(栗原達雄)は、松浦栄を洗礼した牧師の木村熊二が教えたと考えている。

旧幕臣の木村勝海舟の援助で米国に渡り、13年間暮らした。

その間に英語や写真の技術を身につけたのではないか。

木村が撮った集合写真に、松浦の写し方や説明文の書き方と似ているものがある。

松浦と同じころに(1888ころか)同じ教会で受洗した青年に、1歳年上の島崎藤村(16歳)がいた。

木村からも米国のいろいろな話を聞いたことだろう。

クリスチャンとして木村や藤村の影響を受け、

米国、とりわけ差別されていた先住民への関心を高めていったような気がする。

(栗原達雄11,11/10日経)

松浦栄1873生まれ、15歳で受洗。

西部開拓時代の末期を記録した写真群、

労働者が集まる酒場や草競馬や鉄道の敷設工事の現場・・・

 

1889明治帝国憲法

憲法とは、その国の慣習、制度、文化と密接に結びついている。

文化とは言語、歴史、宗教である。

大日本帝国は不磨の大典「明治憲法」を発布した。

89,2/11日、祝砲や鐘が雪の東京市中に響き、国民は沸きにわき、

帝国植民地時代にあって国民国家としての誇りと自信を実感したに違いない。

激しい国際秩序の中にあって、

野蛮や、半開ではなく文明国の仲間入りを果たした。

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

「天皇ハ神聖ニシテ冒スヘカラズ」等々、

しかし、藩閥政治の政治の掣肘を排す目的だったのだが

「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」

11条の天皇之統帥権の問題は後々の禍根を残すことにもなるのだが

それはもうしばらく先のことである。

■民権運動の中に当時の時代の前衛とアバンギャルドが潜んでいる。

戊辰戦争のショックとトラウマは自由民権運動へと引き継がれ、

薩長に対する対抗軸として天皇の統帥権が示された。

えらい時代はどの時代にもあったのだ。

極度に緊張した時代が過ぎるとその時代にふさわしい“前衛”が生まれる。


「亭主の好きな赤烏帽子」
■教育勅語記念切手

翌90年、教育勅語がなった。

「朕惟フニ我カ皇祖皇宗

/國ヲ肇ムルコト宏遠ニ

/徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」。

主幹した元田永孚ながざねは実学党と呼ばれた肥後横井小楠の弟子であった。

維新以前に「共和」と「割拠」(地方分権)という概念があったが、

例えば

・割拠は高杉晋作などが主張し、

・「共和」は西郷隆盛によって選ばれた。

その共和を西郷に教えたのが小楠である。

元田永孚はそのような師を持ち、

宮内省に入り儒教的理想主義でもって侍講として明治天皇に仕えた。

何にせよ

・鉄道や

・学校という近代の仕組み、

・憲法に

・教育勅語、

戦争の準備はとりあえず整ったのである。

■事実がそこに「在る」、ということはすでに歴史がそこから始まってゐるということでもある。

この場合の事実とはすでに横井小楠であり、歴史は後世の元田永孚になる。

また熊本からはその後累々たる人材がうまれてくる。

 

「君臨すれども統治せず」

万世一系の天皇これを統治す───

主権の存在(権威)は天皇にあるとしながら、

主権の行使(CEO)は憲法に則ってと明記する。

つまり、伊藤博文のイメージしたものは「立憲」、

天皇機関説に近かったものではないのだろうか。

■住友別子銅山の近代化を急ぐ。

1874広瀬宰平は住友家から総代理人(CEO)としての経営の委任状をもらう。

オーナーの指示のもとでは

西欧が100年かかって進めた技術の近代化を20年で進めるというプランを実行できない。

1874広瀬宰平はフランス人技師ラロックを雇い入れ技術革新によって

産銅コストを世界水準に引き下げようとする。

グローバルスタンダードの荒波の中で、

「一意殖産興業に身をゆだね、数千万の人々と利を共にせん」

自分たちだけが儲けるのではなく、

この国の人たちともどもに豊かになりたいのだという思いを掲げた。

■明治15(1882)年に広瀬宰平が作った『住友家法』には、

よく知られた「信用確実を旨とし、浮利に走るな」ということが書かれていますが、

そのあとの条文には

「たとえ当主であってもふさわしくないものは廃嫡する」

と書かれてあります。

つまり、住友家のオーナーは場合によって使用人が選ぶことがあり、

住友家法によってオーナーは、立憲君主のように

「君臨すれども統治せず」と定められたのです。

■行政は優秀な人たちによって行われるべきで、

それによって「万世一系」は守られる。

しかし、この番頭さんのやうな仕組みは日本独自のものなのだらうか。

 

1889当時は官尊民卑がひどかった時代ですが、広瀬宰平は、欧米巡遊の中で、

欧米に於ける実業家の評価の高さに感心し、

これからは実業家が経済活動を通して国を豊かにしていく時代だという思いを強くし、

帰国後、大阪商法会議所においてそのことを述べています。

そして明治25(1892)年、宰平は殖産興業につくした功績により、

渋沢栄一、古河市兵衛、伊達邦茂とともに、

民間人として初めて明治勲章を受章しました。(Webより)


「亭主の好きな赤烏帽子」

1890,5別子銅山・別子開坑200年祭を記念して作られた写真帳

その中に山根製錬所の写真がある。


「亭主の好きな赤烏帽子」

私の最も好きな写真です。

山根製錬所は、今の山根グラウンドから別子銅山記念館の場所にありましたが、

山の上の煙突は、120年を超えて今も。

この写真が撮影されたのは5月下旬で、

製錬所の手前には、麦秋を迎えた麦畑が広がっています。

製錬所をつくった広瀬宰平も、ここに写った麦たちも、これから起こることを知らない。

 

「亭主の好きな赤烏帽子」

 

1881原油採掘を開始。

■興味深いことに、ヴァンダービルト(鉄道王)カーネギー(鉄鋼王)と同様に、

ロックフェラー(石油王)も株式を上場しなかった。

利益を投資に回し続けることで、それぞれの業界で激烈な競争を勝ち抜いた。

当時の油田基地は鉄道による輸送手段が整ったペンシルベニア州北西部にあった。

にもかかわらずパイプラインを建設し、

輸送コストで割高であった鉄道への依存を断ち切ったのは、

ロックフェラーの拡大再投資への姿勢を示す象徴的な出来事といえる。

(神戸大学教授 三品和広11,6/15日経)

彼が築いたスタンダード・オイル・トラストの事業は米石油最大手エクソン・モービルに継承されている。

採掘から小売スタンドまでの垂直経営統合。

■地にあるものはみんな大量に掘られ始めていた。

人類は汚い汚れた手で地面を引っ掻き、膝で這いずりまわる。

文明とはそのやうなものなのかもしれない。

 

三池炭鉱・伝承によると、三池で石炭が発見されたのは1469年

農民がたき火をした際、山肌で“燃える石”を偶然見つけた。

江戸時代には三池藩が採炭し、瓦焼きや製塩の燃料として瀬戸内などに運んだ。

明治に入り、しばらくは官営だったが、

1889年(明治22年)三井財閥が経営を引き継ぎ、急速に発展した。

その後、米マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ団琢磨は、

先端技術を導入し勝立坑や宮原坑、万田坑(1902開坑)など採炭場を次々と開く一方、

石炭積み出しのため三池港を整備した。
「亭主の好きな赤烏帽子」

有明の「導流堤」が完成する。

1890完成「導流堤」

ヨハニス・デ・レーケ(1842~1913)オランダ人土木技師。

1873年にお雇い外国人として来日。

職人出身だったが、30年に渡って滞在、木曽三川、淀川など

各地の河川の治水工事や築港に力を尽くした。

有明海に注ぐ筑後川河口に引き潮時、姿を見せるデ・レーケ導流堤。

この方にはどういうわけか自然を征服しようという概念がなかったやうだ。

抑え込むのではなく、寄り添うやうに流しやる。

■「文明」としての典型なるは、自然に対しての人為、と云ふことになるだらう。
「亭主の好きな赤烏帽子」
反文明と云へばこのお人だ。

1890ラフカディオ・ハーンが日本の地を踏む。

明治23年(1890年)雑誌特派員として来日するが、

同年、英語教師として松江中学に赴任し、妻セツ(節子)をこの地で娶(めと)った。

小泉節子の『思い出の記』───、

セツから怪談を聞く時、八雲はこう言った。

「本を見る、いけません。ただあなたの話、

あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」

須佐之男命が詠った

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 

八重垣つくる その八重垣を

は日本最古の和歌と云われる。

その八重垣神社のある松江ゆかりの小泉八雲は言うに及ばず、

多くの作家が誘われるようにしてこの地を訪れ作品を残している。

感覚、感応の人ハーン(小泉八雲)は、日本の湿りをよく理解していた。

モンスーン的列島をこよなく感じていた。


「亭主の好きな赤烏帽子」
■1891浅草陵雲閣

 

しかし、文明はものすごいスピード人々の生活の中に浸透していった。

「亭主の好きな赤烏帽子」

明治24年(1891年)濃尾大地震が起きたとき、

名古屋の師団長はのちの総理大臣、桂太郎だった。

桂は直ちに被災者の救援と人心の安定のために師団を出動させ、大きな成果を上げた。

そののち、桂は天皇の命令なしに兵を出したことについて進退伺を出し、

却下されている。

(北岡伸一 東京大学教授12,3/13日経)

 

即応ということ、

フクシマも浜岡も大飯も、原発という原発に関しては“即応”という概念が不可欠である。

たとえばフクシマでは「一個大隊」という概念、「兵站」は、という概念である。

あれはあそこで軍隊を敵に回して一歩も引きさがることなく戦う、ということだったのだから。

それを実に民間がやったことになる。

孫請けが、ひ孫請けが前面に立つ。

ストレステストなんて技術的な問題は

今の科学技術を駆使すれば簡単にクリアできることは想像できる。

問題は「巨大技術の制御」ではなく、むしろ万が一の後の“即応”こその問題なのである。

最悪戦争状態などと云ふことになれば、

或る組織を自衛隊の配置の下に置くと云ふことも考えられる。

行き着くところにゆけば、人権や私的財産権のまったくの制限もありうる。

しかし仮に今でも帰れない地域に関して、もし財産権の調和ある国有化が出来てゐたなら、

すでに無人地帯にソーラパネルが敷き詰められ、

新しい雇用へと結び付けられたのかも知れないのだから。

次々と湧いて出てくる組織や体質の問題。

 

地から噴き出て来るものがある。

地震津波ばかりではなく、いよいよ近代の病、公害が大きく立ちはだかって来るのだ。

 

田中正造

第1回総選挙(1890,7/1)で改進党から出馬して当選し、

以後6回連続当選を果たした。

正造は第2回帝国議会(1891,11/26)で初めて

足尾鉱毒事件を取り上げて政府の対策を追及した。

以後も議会の質問と請願という合法手段で粘り強く戦いを続けた。

群馬県館林市の渡良瀬川沿いにある雲龍寺は

正造が指導した鉱業停止請願運動の事務所が置かれた寺である。

この寺に集結した数千人の被害農民が

東京へ大挙請願に出ようとして警官・憲兵と衝突、

多数の負傷者、逮捕者が出た「川俣事件」(1900年2月13日)が起きた。

正造はこれに衝撃を受け、ついに議員を辞職して天皇への直訴に及ぶことになる。

これはまだだいぶ後のことであるが・・・

(特別編集委員 安藤俊裕12,2/4日経)


「亭主の好きな赤烏帽子」

整理すると───

1889大水害

「小辺路は信仰の道であるとともに、

十津川の人間にとっては哀惜の道でもあるのです」。

途中まで同行してくれた地元の語り部集団「十津川鼓動の会」の今西芳民会長が、

そんな言葉を漏らした。

1889年(明治22年)、168人が亡くなった大水害で

村は地形が変わるほどの被害を受けた。

約2600人が小辺路を歩いて村を出、

新天地の北海道に移住(北海道新十津川町)。

家族を失い故郷を後にする悲しみの記憶が石畳に残っている。

1891濃尾大地震

1894明治東京地震

1895茨城県南部の地震

1896明治三陸大地震

(■1921年、1922年、→1923年、関東大震災の流れも不気味です)

 

1892

“諍ひ”

福沢諭吉

勝海舟

榎本武揚に、

「痩我慢(やせがまん)の説」という書面を送ったのは1892年(明治25年)1月末

維新後に明治政府に仕えて名利をむさぼる

勝海舟や

榎本武揚の行動は、

三河武士の痩我慢の精神からすれば許されないとして隠棲せよと迫ったのである。

「福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ」(「氷川清話」)

 

勝海舟は自分といっしょに咸臨丸でアメリカに行った福沢諭吉が、

ウェブスターの英語辞典を買い込むような開明思想をもちながら、

いまだに、古い武士道に則った、

「主君」だの「忠臣」だのということにこだわっていることが、

逆におかしかったのである。

勝海舟は、福沢諭吉の「やせ我慢の説」に対しては、まったく無言を保ったが、

ただ福沢諭吉自身については、こういうことを言っている。 

「あの男は、維新の時も本所あたりに隠れていたんだ。

弱い男だからね。それで、後から何とかかんとか言うのさ。

あれに福地桜痴ね、皆、後で何とか言うのさ。

諭吉は、それでいながら相場なんかやって、金儲けをするような男だからね」

■1899,1/19に脳溢血により意識不明となり、21日死去。

最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。

 

かって諭吉と橋本左内は緒方洪庵の適塾で学んだ同期であった。

図らずも左内はあの安政の大獄で28歳と云ふ若さで命を散らした。

それはなぜか・・・。

それでは即応とは何か。

即応とはあの頃の草莽崛起そうもうくっきの多くの若者たちもそうだったが、

即応とはもはや評論ではありえない。

橋本左内は幕末の政治のリアルに本然そのままに身を挺した。

リアルとは刀の刃の下に自分を投げ出してもやまない、と云ふことだった。

『文明論之概略』(1875刊)は福沢諭吉の著述だ。
諭吉は文明論を語るが”脱亜入欧”と転換し、朝鮮半島などアジアを見限った。

窮鳥として飛び込んで来たかっての教え子で半島の開明派

金玉均キムオッキュンを簡単に見殺しにするなど真の文明論者とは云い難い。

いつまでも国を開けない朝鮮に愛想を尽かし、脱亜入欧にかじを切った。

「文明国家に なるためにアジアを脱してヨーロッパを指向しなければならない」

として「脱亜入欧」 主張した(1885)

1913,9,4「足尾鉱毒事件」告発した田中正造は後に。
真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし。

と云ったそうである。

 

即応とは何か。

即応とはもはや評論ではあり得ない。

刀の刃の下に自分を投げ出す、ということだ。

百万弁の科学的評論は何にもならないのである。

行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず

なのである。

 

2020,4/13

自衛官は全体で22万人。

東日本大震災時には延べ10万人が派遣された。

今回においても「即応」である。

即応とは危機に於いて自動的に立ち上がって来る何か、である。

村であったら消防隊などのようなものか。

国であったら、自衛隊、病院、消防、警察など、

それらのすべての職種が危機に対して訓練、熟知を尽くしていなければならない。

現在自衛隊の医官は1000人ほどだと云ふ。

ダイヤモンド・プリンセスでは実際に活躍していただいた。

しかしその後、大規模な病院内感染はあらかじめ想定されていたことだった。

今からでもすべての病院や、介護老人施設等に、自衛官を派遣、

病院や施設の外で、検査、監察の体制を整えるべきである。

SARS、MERSとかは云い訳に過ぎない。

東日本大震災でも熊本大地震でも「即応」と云ふ大前提では同じである。

この分では、国が国民を守ってくれない、なんて云ふことがありうることかもしれない。

日本では、あれは戦争中のことだと思っていたが、

フクシマでも今・・・

そしてまたしても今・・・

この画像はある医師からの提言によるもの。

下の画像は現在でも───保健所が目詰まりの元に。

政府は「緊急事態」で国民に“自粛”を要請するばかりが仕事ではないはずだ。

まず、自分たちから“前方展開”を始めなければいけない。

「あなたの行動が、他の人たちの大事な命を救うことになる」

───いかにも美しい言葉にすり替えられてはいけない。

偏差値ばかりで物事を進めていると、つまり現場のリアルとは当然かけ離れた結果になる。