日本は東京オリンピックへ向けての猛ダッシュを始めた。
1956年頃の綺羅星のごとき錚々たる人たちの物語から始める。
伊藤忠商事元社長室伏稔(1931~)
伊藤忠商事に入社したのは1956年(昭和31年)だった。
日本は「焼け跡闇市」を抜け出し、高度成長に向かおうとしていた。
この年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。
私が伊藤忠に入社したのも日本がさらに成長するには貿易立国の道しかないと考えたからだった。
商社業界も着実に復興しつつあった。
戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって
三菱商事、三井物産など財閥系商社は解体されたが、
このころには三菱商事はすでに復活。
三井物産も59年に復活することになる。
いったん大建産業という会社に集約されていた
伊藤忠と丸紅なども再び別々の会社に戻り、まさに飛躍期を迎えようとしていた。
(11,9/8「私の履歴書」)
伊藤忠の本社は大阪の本町にあり、入社式はそこで迎えた。
当時の伊藤忠の売り上げ、利益の7割は繊維部門があげており、
大阪本社は繊維が圧倒的に強かった。
「関西五綿(伊藤忠、丸紅、東洋棉花、日本綿花、江商の関西系の五大繊維商社)」
の時代の名残だった。
これでは近代的な総合商社に脱皮することはできない、と経営陣は考え、
東京支社を非繊維部門の中心として、急激に強化しようとしていた時期だった。
私の配属先はその東京支社の金属鉱産部燃料課輸入石炭係。
名前は長いが、要は製鉄会社にコークス原料となる石炭を売り込む仕事だった。
コークス用に使う石炭は強粘結炭が最も適しているが国内には少なく、
米国などから輸入せざるを得なかった。
「産業のコメ」である鉄は戦後復興とともに需要が急増し、
日本の粗鋼生産量は
・50年の483万トンが
・55年には940万トン、
・60年には2800万トンと驚異的な勢いで増えていた。
八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管など製鉄会社向けの
原料炭、鉄鉱石などの輸入販売は商社にとって重要なビジネスであり、
商権拡大のチャンスだった。
私の初仕事は石炭の輸入許可書を通商産業省(現経済産業省)に持って行き、
承認を受け、判子をもらってくることだった。
当時、日本は外貨不足に苦しんでおり、外貨は重要な輸入品にしか割り当てられなかった。
伊藤忠が輸入していたのは、米国のイットマン炭という強粘結炭で、
ポカホンタス・フューエル社が生産していた。
イットマン炭からつくるコークスは高炉のなかで崩れにくいと評判で、
製鉄各社の評価はきわめて高かった。
問題は他の商社が輸入する別の強粘結炭との価格競争と
製鉄会社からの増量要求への対応だった。
稲盛和夫(1932~)
伊藤健介
山あいの町、岡山県高梁市で生まれ育ち、高校卒業後の
1956年、京都の碍子(がいし)メーカー、松風工業に就職した。
京都でまず生活基盤をつくり、大学に行こうと考えていた。
松風工業では新分野のファインセラミック製品を開発・生産する
「特殊磁器課(特磁課)」に配属され、
そこで直属の上司だったのが稲盛和夫(元京セラ名誉会長)だ。
当時の月給は5000~6000円。
居酒屋で日本酒が40円、ビールが120円ほどだっただろうか。
お金に余裕がない時代である。
なみなみとつがれたお酒をかみしめながら飲んだ。
飲みながら何を話したのか。今ではよく覚えていない。
仕事の話ばかりしていたように思う。
稲盛は将来の夢や希望を熱く語ってくれた。
この人についていこうと、ごく自然と思うようになった。
(京セラ相談役 伊藤謙介11,10/17日経)
芳賀徹(1931~)
比較文学者、国際日本文化研究 センター
あれは1956年の初夏のパリ。ソルボンヌの昼休みに、
アメリカ人の女子留学生バーバラといつものように昼食に行こうと、
カルチエ・ラタンの一角で信号待ちをしていると…竹山道雄先生とばったり、なんてことも。
1950年代半ばのパリの日本人留学生はまだ数少かった。
国立図書館の薄暗い一室に籠(こも)って
博士論文の下調べをするというようなその後の流儀とは無縁だった。
バーバラとは毎週のように古典劇やジャン・ジロドウの芝居を見にかよったし、
日本人技師の通訳のアルバイトも実にいい勉強になった。
とくに日立製作所の高木正・山本秀幸両技師と
ひと月余りもヨーロッパ各地の工場を廻って、
交流・直流の電気整流器や冷式圧延機の研究をしたのは、かけがえのない体験だった。
日本に帰国後、明治の岩倉使節団の『米欧回覧実記』をはじめて読み、
その文明観察の徹底に感嘆して論文を書いたのも、
あのお二人と連日、轟音と鉄臭の現場を走り廻った経験があってのことだった。
1956今井俊満『夜の讃歌』をふとしたことで購入する。
サム・フランシスもリオペルも、タピエス、アペル、それにフォンタナも、
みな鮮烈な知的野生人たちだった。
美術というものが人間の生命と思考の深層の表出にいかに不可欠であるかを、
私ははじめて知った。
(比較文学者 芳賀徹11,6/9)
土光敏夫(1896年生まれ。宮澤賢治と同じ年、明治三陸津波)
1956年、石川島芝浦タービン社長
土光氏は社長として航空機エンジン事業への本格参入を決めた。
朝鮮戦争(50~53年)後であり、日本でも防衛力の整備が必要になっていた。
戦闘機エンジンを国内生産する必要があったが、
航空機の中でも戦闘機のエンジンは技術的に極めて難易度が高い。
だが土光氏は参入を決断し、
57年、東京都に田無工場を建設した。
その前に社員を集めた総会を開き、壇上に立った土光氏は
「この航空機エンジン事業に石川島の社運を賭ける」
と拳で机を殴りつけながら熱弁を振るったという。
その拳が血で真っ赤に染まったのは有名な話だ。
57年には石川島重工業が航空機エンジンの田無工場を作り、
そこですごい人たちと一緒に仕事をするようになりました。
その多くは親父が集めてきた人たちでした。
最も有名なのは初代の航空宇宙本部長となる永野治さんです。
工場は戦前の海軍で活躍した技術者ばかりで、
失敗を恐れない雰囲気に満ちていました。
いつも家では書斎に閉じこもっていた。
いない時に入ってみると、ドイツ語や英語の技術専門書ばかり。
英語の技術雑誌「エンジニア」がたくさんあったことを覚えています。
(土光陽一郎氏85歳談)
■若手にどんどん重い責任を与えて、仕事をやらせる。
「重荷主義で育てよ」がある。
若いうちから、能力を上回るような仕事を与えてこそ人材が育つという意味だ。
「少数だから精鋭が育つ」のである。
田中角栄39歳
1957年、田中角栄は39歳で郵政相に就任。
NHK紅白歌合戦の審査員などテレビに積極的に出演した。
ちょびひげを生やし、だみ声で機関銃のようにしゃべる様子は好評で、全国的な知名度を得た。
郵政相ポストを自らの手で「権力」に変えた。
民放36局に一気にテレビの予備免許を与え、放送業界での力を確立。
全国特定郵便局長会の整備に尽くし自民党の集票マシンに育てた。
その後も蔵相、幹事長などを歴任。
初入閣から15年後の72年、当時最年少の54歳で首相に上り詰めた。
岸信介
スカルノ
ODA=Official Development Assistance政府開発援助(外交)第1号
日本とインドネシアの「戦後」を、オランダを加えた三国関係で読み解いていく。
スカルノ大統領は、難航していた日本との賠償交渉を
57年の岸首相との会談で決着させた。
その直後に、旧宗主国オランダの資産が国有化される。
独立後も経済を牛耳っていたオランダを排除するには、日本の賠償資金が必要だった。
このインドネシア側の論理を、本書は外交文書によって明確に裏づけた。
一方の日本は、賠償を資源豊かなインドネシアへの先行投資とみる実利志向で、
政財界がまとまっていく。
だが、その後問題になった兵補や従軍慰安婦への補償は結局なされず、
当事者家族にわだかまりを残した。
(「戦後日本=インドネシア関係史」倉沢愛子著)書評11,12/11日経
1958年、インドネシアと国交樹立
テレビ
1958,12,23東京タワーの完工式が開かれ
翌日から一般公開が始まった=写真は開業当初のタワー。
地上333メートルと当時は日本で最も高い建物で、初年度には540万人の人出があった。
東京タワーができるまでは各放送局が別々の場所に放送塔を建設していたため、
チャンネルを変えるごとにアンテナの向きも変える必要があった。
1カ所に集約することで手軽にテレビが見られるようになった。
高層ビルに遮られずに電波を届ける目的もあった。
住宅団地
戦後日本の繁栄の象徴、東京タワーが完成したのは1958年。
東京都日野市の多摩平団地も、その年に産声をあげた。
日本住宅公団(現・都市再生機構=UR)が整備した大規模賃貸住宅の先駆けだ。
築後半世紀の住棟を民間が再生(東京都日野市の多摩平団地「記憶から再生へ」
再生事業のひとつが、東京電力グループが提案した「シェア住居」。
間取りはワンルーム。
1階にオール電化のキッチン、シャワー室など水回りを集約し、入居者で共用。
ともに語らうくつろぎの空間を備える。
(11,2/1日経)
産業の発展と暮らしの水準の充実化はまた膨大なエネルギーの必要性を実感させる。
日本を変えてゆくものはまさしく企業であって、その企業は───
日本企業といえば、ジェームス・アベグレンが
1958年に「日本の経営」という本を出版して以来、その特殊性が注目されている。
なかでも重要視されたのが、
・終身雇用、
・年功序列、
・企業内組合の3点セットである。
これらは確かに日米の企業を比較したとき目立つ相違点といってよい。
しかし、目立つ相違点が重要な相違点とは限らない。
三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎は米鉄鋼王アンドリュー・カーネギーと同じ年
(1835)に生まれている。
米国のエンタープライズが一業に徹したのに対して、
日本の財閥は昔の持ち株会社の一種である
合名会社や合資会社という制度を活用し、当初から多角化を追求した。
(神戸大学教授 三品和広11,6/30日経)
■持ち分会社とはいろんな可能性を持ち寄ってする会社。
「義務」と「権利」で成り立っている。
(自然人ではなく法人的信頼を有する)
■社員の地位を持ち分という。
■「義務」持ち分者(個人でも会社でも)は無限責任を有する。
■「権利」配当や執行権は定款によって定められる。
寺澤芳男27歳
「経済発展には外資導入は不可欠」
米投資視察団「Seeing is believing」
ニューヨークでは在留邦人らを相手に営業をし、
1958年に日本に帰ってきた。
「華の独身」27歳だった。
戻った外国部では女子社員が毎朝男性社員の湯飲み茶碗にお茶をつぐことを奇異に感じ、
すべてひとりひとりが自らやるべきだと主張した。
男尊女卑の日本の社会がやりきれなかった。
帰国直後、奥村綱雄社長に関西弁で命令された。
ユージン・ブラック世界銀行総裁に手紙を書いて
日本への視察団員の人選を委任しようとしたのだ。
奥村さんは「Seeing is believing」で
日本の復興ぶりや近代工業国に成長しつつある状況を世界の人々、
当時はやはりアメリカの人々に見てもらいたかったのだ。
さらなる経済発展には外資導入は不可欠との考えだった。
(寺澤芳男・元米国野村証券会長11,11/9「私の履歴書」)
室伏稔
瀬島龍三
「瀬島学校」
「室(室伏)さん、ありがとう。伊藤忠を頼むよ。日本を頼むよ」
瀬島龍三さんは小さな声で私にこう言うと、ほっとしたように目を閉じられた。
2007年夏、調布の瀬島さんのお宅にお見舞いに伺った時が最後のお別れになった。
瀬島さんが伊藤忠に入社したのは
1958年1月、11年に及ぶシベリア抑留から帰国してからだった。
当時、私は原料炭の輸入を手掛ける若手社員で、瀬島さんとの接点はほとんどなかった。
仕事をご一緒するようになったのは、瀬島さんが業務部長になり、
私がニューヨーク駐在になってからのことである。
土光敏夫1959年
「すべての責任はわたしが負う」
驚くべきことは決断力です。
航空機エンジン事業への参入にしても、
ブラジルでの造船所の建設にしても、
今の時代の経営者ならば、これほど難しい決断ができただろうか。
そこに驚きを覚えます。
私が入社した時、財務部門の同期は9人もいました。
それは土光さんが
59年に決断したブラジルの造船所事業に加えて他の海外造船所もあり、
若い財務・経理の担当者を派遣する必要があったからです」
(釜和明IHI社長談1971入社)
「ブラジル進出はリスクが大きすぎ、狂気の沙汰という意見が多かった。
私は、それらの反対意見を、
『すべて責任は私が負う』として押し切り、
(昭和)33年1月8日、ブラジル関係当局と協議し、議定書の調印を行った」と。
稲盛和夫
伊藤健介
「創業」
入社して3年目だったか。
稲盛から「独立して会社を興したい。一緒にやらないか」と誘われた。
新製品の開発を巡って上層部と対立し、会社に見切りをつけるというのだ。
自分も会社を辞めるのに迷いはなかった。
このとき退社したのは稲盛を含め8人。
京都駅近くの酒場で夢を語り合った特磁課のメンバーが中心だ。
少しずつ日をずらし辞表を出した。
一番若かった私は最後だった。
理由が言い出せず、「どうしても故郷の岡山に帰らないといけない」
と言って辞めたことが今も心苦しい。
こうして京セラの前身、京都セラミックが
59年、誕生した。
創業後は早朝から深夜まで仕事をした。
時折、人情あふれる酒場に出向き、生きるエネルギーを得ていた。
(京セラ相談役 伊藤謙介11,10/17日経)
前田勝之助(1931~)27歳
東レ名誉会長
1959(昭和34)年1月、本社に開発部ができたのに伴って部員として着任した。
将来を見据えた全社的な開発計画を策定する部署で、取り組むべきテーマは4つあった。
(1)ポリエステル繊維
(2)アクリル繊維
(3)ナイロン素材のプラスチック
(4)ポリエステルフィルム――がそれだ。
いずれも激しい国際競争が繰り広げられている分野。
繊維メーカーの印象が強いものの、
実際は高分子材料を用いた化学素材メーカーである東洋レーヨンは、
それぞれの分野で内外のライバルとしのぎを削っていた。
私が開発を命じられたのは社内で
「F4(ファイバー・フォー)」と呼ばれていたアクリル繊維だった。
当時は風合いが男性的で
衣類、カーテン、産業用ベルトなどに使われていたポリエステル繊維の「テトロン」がブームで、
アクリルはソフトタッチで染色がしやすいという特徴があるものの、まだこれからという素材だ。
それだけに新しい用途が見込めることから当時の
米デュポン、
独ヘキスト、
英ICIなどの海外勢もアクリルに注目していた。
私の直感は「アクリルから炭素繊維を作れないか」ということだった。
海外勢はレーヨンから炭素繊維を目指しているけれど、
アクリルの分子式における炭素の密度はレーヨンより高い。
■新素材へ───
新幹線
1959,4,20国鉄(当時)が東海道新幹線の工事に着手した。
東京―大阪間の約500キロメートルの区間を5年という短期間に完成させる工事で、
総事業費は約3800億円。
東京五輪を目前に控えた64年10月1日に開業した。
第2次大戦中に東海道線を改良して弾丸列車を走らせる計画があったが戦局の悪化で頓挫した。
再び新しい鉄道構想が脚光を浴びたのは、経済復興が進んだ50年代後半。
人の移動が増えて在来線では輸送能力が不足しつつあったうえ、
より速い列車が求められていた。
開業当初は時速200キロメートルで東京―大阪間を最短4時間10分で結んだ。
従来より約2時間速くなり、旅行客やビジネス利用が爆発的に増えた。
田子倉ダム
「稼働したのは1959年です。ダムは約9.95平方キロで、最大出力39万キロワット。
日本有数の水力発電所です」。
Jパワー田子倉電力所の千葉宗治所長代理が説明してくれた。
「高度経済成長に伴って膨らんだ首都圏の電力需要に応えるため、
只見川流域にはどんどんダムができた。
田子倉の補償交渉は難航して、
社員がリュックに現金を詰め込んで家々を回ったと聞いています」
(Jパワーの関連会社、JPハイテック田子倉事業所の吉津(きづ)唯利さん10,8/28日経)
閑話休題───
世間はこうなっていた。
1959年の第1回レコード大賞を受賞した
「黒い花びら」(作詞・永六輔/歌唱・水原弘)を作曲した中村八大は、
戦後ジャズ・ブームで絶大な人気を誇ったビッグ・フォアの花形ピアニストだった。
この時の大賞の最終候補曲は
・水原弘「黒い花びら」と
・フランク永井の「夜霧に消えたチャコ」(作詞・宮川哲夫/作曲・渡久地政信)と
・スリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」(作詞・星野哲郎/作曲・浜口庫之助)の3曲だった。
後に大きな足跡を残すことになる作詞家の星野哲郎にとっても、
作曲の浜口庫之助にとっても「黄色いさくらんぼ」は初ヒット作品である。
またこの年、水原弘とともにロカビリー・ブームから登場した
・守屋浩の大ヒット「僕は泣いちっち」は
同時期に浜口庫之助が作詞作曲を一人で手がけた作品だった。
(高護・音楽プロデューサー、ウルトラ・ヴァイヴ社長11,12/1日経)
世界環境はこうなっていた。
1959,3月、チベット動乱
このときの現場責任者が胡錦濤さんと云われている。
■中国、チベット支援倍増→今後5年間で=3.9兆円。愛国心の浸透を狙う。
(10,3/13日経)
今は昔・・・
1910,6/24日昼、ワシントン隣町のハンバーガー店「レイズ」。
オバマ大統領とメドベージェフ大統領は“バーガー首脳会談”を、
両国間の貿易・投資の促進で合意。
オバマさんはロシアの世界貿易機関(WTO)加盟への全面支持を表明し、
メドベージェフ大統領は「ロシア版シリコンバレー」計画への米企業の参加を要請した。
■終戦後からの“グレートゲーム”冷戦構造につながった。
旧ソ連時代には、フルシチョフ首相(当時)の
1959年の訪米をきっかけに、
対立する米ソ両国の指導者が競争しながらも共存を目指した時代があった。
「北朝鮮帰国事業」
「地上の楽園」
「マンセー(万歳)」の歓声が響き紙テープが飛び交うなか、タラップを上がる人たち――。
1959,12/14日、975人を乗せた最初の船が新潟港を出発した。
国が仕事や生活を保障するとして
当時「地上の楽園」と謳われた北朝鮮への帰国事業が始った。
「北朝鮮帰国事業」は
1959,2月の閣議了解に基づき、日朝両国の赤十字が共同で実施。
84年までに=約9万3000人が新潟から北朝鮮に渡った。
在日朝鮮人に同行した配偶者=約1800人も含む=約7000人の日本人もいた。
開始から数年、食料や日用品を送るよう求める手紙が日本の親族に届き始め、
困窮した生活の様子が少しずつ広まった。
溥儀
溥傑
周恩来
「特赦」
1959年9月17日、中国の劉少奇国家主席は、毛主席の提案に基づいて、
罪を悔い改めた戦争犯罪者に対する特赦を発布した。
撫順の戦犯管理所で服役していた溥儀氏が特赦通知書を受け取ったのは
この年の12月4日である。
1960年1月26日、周総理は、中南海の西花庁で、溥儀氏とその親戚と会見し、宴会を開いた。
そこで周総理は彼らと直接、
今後の溥儀氏の生活や仕事、学習、思想改造問題について相談したのだった。
周総理は、
「現在、各民族は平等になった。
各民族はともに発展している。
満州族と漢族はもっとよく団結しなければならない。
あなたはつとめて学習し、よい成績を出さなければならない。
それはあなた個人にとっても、人民にとっても、満州族にとっても良いことだ」
(中日友好協会副会長・王效賢)
いよいよ安保の時代に突入してゆく。
岸信介首相
アイゼンハワー大統領
1960,1/19日、ワシントン、霙――。
岸信介首相はアイゼンハワー大統領とともに
ホワイトハウスで日米安全保障条約に署名した。
5条は米国が日本を守る。
6条は米国に日本が基地を提供する。
「はっきりと自由陣営へ」、
署名はソ連を中心とした東側ではなく、米国を中心とした西側につく、
いわば体制の選択を意味した。
冷戦下で60年当時、日本のGDPは世界の=4.2%で
米国のそれは日本の=11.5倍。
日本の集団的自衛権行使を前提としない、
片務的な安保条約の運用に米国は矛盾を感じなかった。
94年、日本のGDPの世界シェアは=18.2%、
96年の日米安保の共同宣言では、米側は経済力に見合った日本の役割を求めた。
■日米防衛協力のための指針(ガイドライン)
■周辺事態安全確保法
などは1996年に。