ドッジラインは1949年のこと。
この年“シャウプ勧告”もある。
税制と財政の方向が導き出された。
しかしこの後、日本経済は急速な復興の道を歩んだ。
実質GNPは1947年度から大幅なプラス成長に転じ、
51年度には戦前(1934~36年平均)の水準を超えた。
急激な経済成長の下で当初は高率のインフレが続いたが、
そのインフレも50年には終息した。
米政府の政策転換により
日本に厳しい財政・金融の引き締めが強制されたことの結果である(ドッジライン)。
そしてこの後、50年代前半、朝鮮戦争による追い風を受けて
日本経済は高度成長に向けて離陸した。
(東京大学教授 岡崎哲二11,7/18日経)
成長のためにはさらなる膨大なエネルギーの確保と安定供給体制が必要となって来ていた。
米国は当初、1947独占禁止法を、
過度経済力集中排除法…つまり、戦前の財閥解体の路線ではあったが、
冷戦がはじまり、明確に日本をアジアの共産主義圏に対しての橋頭保として位置付ける
必要性が明確になって来た。
戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による
過度経済力集中排除法のもとで9電力体制が生まれた。
この体制づくりに活躍したのが松永安左エ門だ。
日本発送電側につく政府や組合関係者らの四面楚歌の中で孤軍奮闘して
GHQと意思疎通した結果、成立したのが今も続く10地域独占体制である。
松永自身が昭和初期に「電力統制私案」として発表していた構想であり、
昭和6年旧電気事業法体制の完成版ともいえる。
■パラダイムシフトの原則を2つ。
★第1の原則は、「電気」という商品が普通の財と同じく自由に売買できるという、
独占から自由な電力市場への本格的なシフトである。
すなわち
★原価主義から価格をシグナルとする市場の活用に移行する。
これは一見、昭和初期までの自由な電力市場に戻るように思える。
当時の電力経営者はそれこそ多士済々、群雄割拠の時代で、
電力がダイナミックな起業家精神を取り戻すという意味ではそう考えてもよい。
(奥村裕一 東京大学特任教授11,12/21日経)
まだ米国の統治下にあった沖縄をのぞき、
地域別に9つの民営の電力会社が発足したのは1951年。
60年前のきょう(5/1日)である。
戦後、電力再編が紛糾するなか、9電力体制に導いた人物がいる。
松永安左エ門。「電力王」と呼ばれた業界の長老だ。
「関東電力」のはずだった社名を「東京電力」にしたのも松永。
戦前、松永は東邦電力を率いて九州から関西、関東へと攻め上がったことがある。
東京で使った会社の名が「東京電力」だった。
自らの夢を、ちゃっかりと新会社に託すしたたかさ。
それにしても、松永にどうしてこれほどの影響力があったのか。
戦前、電力の国営化や軍需利用の流れに真っ向から反対した。
軍部になびく経済人を戒め、大蔵大臣の就任要請もすげなく断ったという。
そうした一貫した態度が戦後に生きた。
気骨の人である。
戦後の民営化の後には電力投資が必要と、料金を7割も値上げさせた。
わが道をゆく姿は、「電力の鬼」ともいわれた。
その松永は本紙の「私の履歴書」で、
自らを「常に反対の側の面が目につく男」と評した。
約12年にわたった電力国家管理に終止符を打ったのは、
1951年(昭和26年)5月に実施された電気事業再編成であった。
再編成の結果、北海道、東北、東京、中部、北陸、関西、中国、四国、九州の
民間電力会社9社が誕生し、9電力体制が成立した。
9電力体制は、88年10月の沖縄電力民営化により10電力体制に姿を変え、今日も続いている。
電気事業再編成はGHQ(連合国軍総司令部)の強権を背景にした
ポツダム政令(電気事業再編成の実施を求める政令)で実行されたため、
立役者はGHQだったとの見方が根強くある。
しかし電気事業再編成の真の主役は戦前の民間電力会社、
東邦電力の経営者であった松永安左エ門であった。
(一橋大学教授 橘川武郎11,6/8日経)
(64,1/28「私の履歴書」)
「全国を九地域にわけて一区域一会社主義をとり、
群小会社は合同させ、できない場合はプールし、供給区域の独占を認め、
鉄道省が多く持っていたような官・公営の火力設備も民営に移して
全国的に電力の負荷率・散荷率を向上させ、
料金は認可制とし、監督諮問機関として“公益事業委員会”
を設置することなども提唱してみた」と書き、
「戦後、現状に再編成したのとほとんど等しい案」
(一橋大学教授 橘川武郎11,6/8日経)
そして、現在───
中電などの事実上の創業者であり、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門は
電力の国家管理に徹底して反対した。
民営化のためのテクニックが、今日に至る地域分割体制である。
この結果、地域の独占体となった電力会社が、首相のひと言で重大な岐路に立つ。
皮肉というほかはない。
(11,5/13日経「大機小機」)
1951年、サンフランシスコ条約が結ばれ、翌年、
1952年4月28日、日本と第2次世界大戦連合国の戦争状態を終了する
サンフランシスコ講和条約が発効、約6年8カ月の占領が終わった。
日本は沖縄と奄美、小笠原諸島を除き独立を回復した。
日本時間午後10時半、米ワシントンで批准書の寄託式が終わると、
日本各地でサイレンや鐘が鳴らされた=写真は都内で万歳を叫ぶ人々。
占領期間中も国会や内閣はあったが、
予算編成や法律制定、外交などの重要政策を日本単独では決められず、
東京に設置されたGHQ(連合国軍総司令部)などの承認が必要だった。
講和条約発効を機に、米国や英国と国交を回復、
日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。
ただ、全ての国との間の全面講和ではなく、
条約に署名しなかった共産圏の旧ソ連やチェコスロバキア(当時)、
講和会議に招かれなかった中華人民共和国などとは
正式な国交がない状態がその後しばらく続いた。
特に旧ソ連と条約を結べなかったことで北方領土問題は暗礁に乗り上げ
日本とロシアの関係にしこりを残すことになった。
しかしは、商売の手立ては次第に整ってゆく。
いずれにしても“結ばれる”、ということがいかに重要なことかが
これ以降の日本の躍進ぶりを見れば分かろうというものである。
サンフランシスコ講和条約の発効で独立を回復した
1952年には世界銀行に加盟し、
翌年から13年間で総額=8億6290万㌦の融資を世銀から受けた。
対象事業には
・黒四ダム、
・東海道新幹線、
・東名高速道路など復興と高度成長を象徴するようなインフラ事業が目白押しだった。
・製鉄や
・自動車、
・造船といった基幹産業の大型設備も目立った。
奇跡が達成され、世銀からの借り入れの完済がなった
1990年の翌年からは、日本は10年に渡って世界最大の(ODA)援助供与国となった。
■ついでながら
2010年度予算案では=6187億円でピークの
1997年度の=半分。
中国は加盟してないが対外援助08年に=125億元(約1650億円)で、
5年間で=2.5倍に増えた。
ここいら辺りの産業における傾斜生産資本導入の経緯として、
後の池田勇人首相とは「おいおまへ」の間柄だったと云ふ小林中が
1951年、日本開発銀行の設立に伴い初代総裁に。
就任後は開銀の業務を市中銀行の肩代わり融資に限定しようとしたドッジを説き伏せ、
基幹産業に直接融資するという方針を貫いた。
資金不足にあたっては、開銀が政府保証を付けて外資を導入するという施策でまかなった。
世銀との融資の交渉は小林中が賄った。
開銀の融資により、鉄鋼、自動車、造船会社の設備投資が活発になり、
戦後復興に弾みをつけることとなった。
後に、小林中は永野重雄(富士製鐵社長)、桜田武(日清紡績社長)、
水野成夫(産経新聞社長)とともに「財界四天王」と呼ばれ、
池田内閣に影響力を及ぼしていった。
冷戦とマッカーシズム───
ジョージ・ケナンはマッカーシズムが猖獗を極めていた
1953年春の講演で、
「許し、思いやり、理解に対する人間の能力に訴えるのではなく、
嫌悪と恐怖に対する能力にのみ訴える」勢力を批判し、
「精神の寛容、善良な性質、品性、健全さ」の保持を説いた。
彼はこの後国務省からの退職を余儀なくされ、学究生活に入るが、
この勇気ある異論は半世紀後、齢100歳になろうというケナンが
ブッシュ政権のイラク開戦を批判した精神にも通底する。
(11,9/25日経)
人間の持つ嫌悪と恐怖に対する能力に訴えるといへばこの年、
米国では「strange fruit」が発売されている。
黒人の悲惨な差別を訴えるjazzの名曲で、ビリーホリデーが唄う。
53,5月、シャンソン歌手ダミアは日比谷公会堂で公演、「暗い日曜日」を唄っている。
この同じ年にフィデル・カストロは最初ま武装蜂起をして失敗し、逮捕されている。
「Atoms For Peaceアトムズ・フォー・ピース」
戦後になって、世界は原子力の平和利用の道も競い始めた。
「原子力を平和のために」。
53年のアイゼンハワー米大統領の国連演説がきっかけだ。
世界で初めて発電用の原子炉を稼働させたのは今度はソ連だった。
モスクワ近郊のオブニンスク原発だ。
運転を始めたのが54,6月。
今日がその記念日という。
(「春秋」11,6/27日経)
原発をめぐる歴史には戦後の国際政治が投影される。
1953年12月8日、日本の真珠湾攻撃から12年後のこの日、
アイゼンハワー米大統領は国連総会演説で「原子力の平和利用」をうたい、
国際原子力機関(IAEA)の創設を提案した。
米ソの核軍拡競争を沈静化させるのが狙いだったが、
冷戦下で水爆実験は繰り返される。
第五福竜丸事件が起きたのは、この国連演説の3カ月後(1954)である。
歴史が皮肉なのは、この事件で原子力平和利用が動き出したことだ。
日本の反米感情を転換させるため米国は
敗戦国である日本に認めなかった原子力の平和利用を格好の武器にした。
それは原子力の平和利用を推進する日本の政治家の思惑とも合致する。
中曽根康弘氏には原発なしには「日本は4等国になる」という危機感があった。
そこにはエネルギー問題を超えた「国家安全保障の意識があった」(自民党幹部)。
「この戦後政治の選択がなければ、戦後日本の経済発展はなかった」
と福田康夫元首相は指摘する。
(11,7/18日経)