「雇用、利子および貨幣の一般理論」
民間部門(貯蓄-投資)にたいていの国民純生産、つまり雇用はありそうだ。
政府部門(公共投資などの「独立支出」)も自律的ではないが不完全雇用という形で雇用を生む。
賃金は純生産から生まれる。
生産性から云えば政府部門からよりは民間に属する方が効率的だ。
民間部門は常に売上を気にするからだ。
経済は「欲して、得る」。
マネーとは純粋な貨幣とは異なり、それは欲望として前頭葉にある。
欲望は生存の根源ではあるが新たな欲望は連続する経験の果てに導き出されたもので、
古い欲望の上位に常に位置するようになる。
古い脳はいつでも保守的であり、
前頭葉はいつだってそんな辺縁系に対して隔靴掻痒している。
好奇心に満ち、疲れを知らないentrepreneurはおそらくこの前頭葉に属する。
微生物、植物、ホモサピエンスに至るまで「経済活動」でないものはない。
ただ人間だけがよりドーパミン的(「もっと」)であるらしい。
わたしたちはそれを我慢できない・・・
ところが昔バブルがはじけた。
バランスシート調整と云ふ。
傷ついたストックをやっとのフローで修復してゆく。
長い失われた20年近くの暮らしで、PTSD、みんなすっかり心神耗弱に陥ってしまったのだ。
マネーが出ていかない。
マネーサプライとはATMで現金を引き出してから初めて現実となる。
いや、実際はネットマネーは遥かにその倍速のスピードで決済に使われている。
普通は日銀が輪転機を回せば回すほどデフレから脱却できるはずだか、
現実は輪転機を回そうが回すまいが、貨幣に対する需要供給は変わらないようだ。
モノの世界では供給が多いと価値(価格)が下がるものだが、
日銀が供給を増やしてもデフレから脱却できないのはなぜか。
資本主義ではまず、借りたものは返す、のが原則だ。
利子を付けてたいていは返すことになる。
利子は当座の間自分で使えなかった利便性に対する我慢料だ。
我慢や不安が多ければ高くなる。
閉鎖経済があったとして、
その世の中では誰かが支出したものは、誰かの得るものになる。
誰かの支出が誰かの収入になるから、
誰もかれもがおカネを使わないようになったら、
誰もかれもの収入も閉ざされるということになる。
返さないではなく、返せなくなったり、
アブナイカラと誰もマネーを使わなくなったら、
つまり、それがデフレということで、モノも人もあまり、世の中は在庫だらけになるのだ。
バブルがはじけて世の中は不況になった。
景気がいいとはモノの取引が如何にも活発であるということで、
不景気になるとこれがびた一文でも容易に動かなくなる。
(実体経済、金融、心理、在庫)・・・が不況の正体特徴で、
就中、この「在庫」というものが厄介な存在となる。
人、設備、負債の過剰をどのように整理してゆくか。
1997年ころから年間自殺者が30,000人を超えてゆく。
不確実性という概念はケインズの経済学の核心であるらしいが、
ルーレットのような賭博や交通事故は計量出来たとしても、
何年か後の利子や、戦争などの確率に対しては計量出来ない、ということだった。
かくして、リスクと不確実性(ケインズだったら有効需要管理)は分別されてゆくのだが、
不断のエネルギー所有者たるentrepreneurたちはどのやうにして実際のところ、
その都度その不確実性を選びとるのか。
それに対して、リスクは避けられる確率論があったとして、
不確実性に対しては結局人々はその歴史とか風土とかに根差した「慣習」によって判断するだろう、
とケインズは述べた。
そして、ミンスキーという経済学者は1975年に自分の著作で、
いやいや、「慣習」ばかりではなく、いや、と云うよりもそれは「負債」という概念によってであるとして、
「慣習」を、ないしは「慣習」に「負債」という心理を潜り込ませた。
「慣習」は生物がそれによって生き延びてきた古い大脳辺縁系に属する。
「負債」はメソポタミア以降の前頭葉の所産、つまり欲望のようなものである。
「借りる」という行為が生まれ、相対する「貸す」という共犯関係が表出した。
オプションが始まる。
信用取引は最初はヘッジであったものが、
デリバティブは次第にレバレッジの規模を天文学的にふくらませていって、
自己と実体経済の総体の中で自己振動を起こし、
マネーセクターは自壊するというという道筋をたどることになった。
ハイパワードマネーは最初の「新しいマネー」である。
金融機関に送られて負債の部に入る。
企業は借入れてそれは負債の部に置かれるが同時にバランスシートの「左」で預貯金に。
預貯金はそのままに置かれていたら何も生み出さない。
企業が借りるという行為は何のためかというと、その預貯金を資産化して(設備投資など)、
そこに労働や、時間や、組織を加えて、差益を生み出すためである。
差益は剰余となって「右」の負債の部に積み足される。
結果、企業の剰余は結局膨大な貯金となって金融機関に積み立てられることになるのである。
政府と、中銀と、金融機関などは一種の共犯関係に置かれている。
政府が短期国債を発行する。
金融機関がそれを入札する。
日銀がそれを買い上げる。
日銀が金融機関から(たとえば)短期債など買えば買うほど、
金融機関はコストの安い「新しいマネー」を日銀から仕入れることになり、
そのスプレッドは運用してもよし、他に貸しても売っても利幅が出ることになるわけだ。
今回も米国のバーナンキさんに先行されて、
米国の短期金利はぐぐっと日本の短期金利の上に覆いかぶさって来た。
日米の短期金利差が縮小して、見事とり敢えず円安へと傾いたわけだが、
それはそうとして、
こんなにも金利(長短ともに)が低利に貼りついているというのに、
マネーは銀行のさらに前の庭へと容易に流れ出してゆこうとしない。
増えるというのには案外鈍感だが、減る、という事柄には敏感に反応する。
長期の利息には同様にあまり関心を示さないが、
目の前の現金には単純に反応する。
今日の100万円の方が、1年後のたとえば105万円よりも大事になるのだ。
「負債」というのは「借りる」という行為だ。
そして、「負債」というのは心理そのものになる。
信用取引の根幹である。
IはInvestment(投資)、SはSaving(貯蓄)
LはLiquidity Preference(流動性選好)、MはMoney Supply(貨幣供給)
IS・LM曲線はかくして物理と心理が交差するところとなる。
悪いパターンの経常赤字とは、
民間部門(貯蓄-投資)+政府部門(税-政府支出)=経常赤字・・・だとして、
・貯蓄に関しては
(イ)家計部門があって───
通常は若い世代は貯蓄傾向が顕著で、普通ならそれが一般的であるはずなのだが、
→若い世代の所得が減少→貯蓄減
高齢者たちは貯蓄を取り崩しながらの生活に入った。
しかし、総じて先行きの将来に対しての不安感に消費は抑え気味になる。
(ロ)企業部門は───
少子高齢化の内需低迷に投資を抑制
民間部門はかくして貯蓄超過を維持しているとして、
・政府部門(財政赤字)が膨大なわけで、
結果として経常赤字になったとしたら、
当然自国内での国債消化はできなくなるわけである。
政府部門(財政赤字=負債)は国民の今と将来の「負債」であり、
その心理が重く国民全体にのしかかっているわけである。
家計部門の消費は一般消費(生命維持)と効用の為(満足や自分を褒めてあげたい)。
企業部門の投資は企業心理や投資環境に左右される。
政府部門には膨大な民主主義の赤字が先送りされ、垂れ流されている。
企業と政府の支出は独立支出というらしい。
たとえば不景気などの時に家計が消費を絞って倹約し可処分所得を貯蓄に回したとして、
その引き上げた部分を独立支出が埋め合わせることができれば、
有効需要(景気の補足)は生まれるだろう、ということだった。
ところが政府はすでに財政制約に陥っている。
それどころか我が日本では地方交付税を除いた一般予算の51%強を
社会保障費の支出に振り向けざるを得ないことになっているのだ。
前にも何度も述べたことだが、
社会保障費は一方的に社会で費消されるばかりで、
いわゆる企業のリスクマネー・資本性マネーとは根本的に質が異なるのである。
リスクマネーは資産となって働いて、剰余を生み出す。
しかし、費消されて売り上げに結びつかない費用は新たなマネーを生み出さないし、
雇用も生みだすことはないのである。
消費するとは文字通り消費するか、使うことが目的である。
ところで売るという行為は、必ず買うという行為に結びつく。
ここには消費するのとは違って必要な循環が生まれてくる。
売るためには店舗を作ったり、商品を生産するためには設備も必要になる。
僕は需要サイドのことではなく、供給サイドのことを云っているのだ。
カンパニーやエンタープライズは膨大な借入が必要になる。
やっと、借りるという行為が出てきた。
小作人がいて、小作人は地主さんから種籾を借りる。
借りたものは利息を付けて返さなければならない。
ところで一粒のおコメから約60粒くらいのおコメが生産されるということだが、
おコメ(お百姓さん)の生産性が60倍だとして、
エンタープライズの生産性はその比ではないのである。
おコメはそのうちどのくらい現在や来年の幸福のために回されるのだらう。
借りるということ───、
使われていない人の預貯金から使う人の預貯金にマネーが移って、
エンタープライズは膨大な付加価値を世の中に生み出してゆく。
倉石智證