自分の将来の幸福・満足に反する

誤った行動を適切に自制、修正する上での教育や経験の重要性。

人間の認知能力(知能)や感覚特性と意思決定との関係。


兵学校に入るとき、日本にいる保証人を1人立てる必要があり、

父の従妹の夫の海軍大佐に頼んだのだが、それが海軍省の教育局長だった。

むろん敗戦直後、学校の本部に

その人の住所の書かれている入学誓約書を見に行ったのだが、

今その書類を焼却したばかりだと、灰を見せられた。

海軍省に電話をかけてもらうなんてことは思いもしなかった。

それに私は、戦争に負けたというのに、

海軍大佐が生きて前の役職にそのままとどまっているなんてとても思えなかったし、

もし生きていたとすれば、それこそ腹かっさばいているべきだと思っていたので、

その人を捜そうとはしなかったのだ。

しかし、その人の住所を知ることができれば、少なくとも遺族の所在が分かる。

そこで海軍省を探したが、この時点では海軍省はもう存在していないことになっていた。

ところが、あるとき新聞で海軍省の残務整理部が目黒の雅叙園にあることを知った。

そこで、無駄でもともとと、仕事?の合間をぬって目黒まで行ってみた。

だが、その残務整理部を尋ねあてると、

驚いたことに私の保証人の海軍大佐ご当人がそこにいるではないか。

向こうも少しは気にしていてくれたらしく、

「今までどこに行っていたのだ」と尋ねる。

そして、すぐに汽車の切符と弁当を用意してくれ、

山形県の新庄という町に自分の家族が疎開しているから、このまますぐそこへ行けと言う。


情報に対するアクセス、またリテラシー。


山形県新庄───

その祖父の実家である戸澤家の娘で、父と一緒に育った従妹が2人いて、

下の信が、やはり新庄出身の海軍将校永井太郎に嫁いだのだ。

11月半ばのもう肌寒い早朝、私は新庄駅に降り、

永井家にいって朝食をごちそうになり、一眠りさせてもらった後、

そのまま父のもう1人の従妹、雪の嫁ぎ先である五十嵐家に連れていかれ、

以後そこで世話になった。

この雪叔母は、父より2歳下、

父ともっとも歳(とし)も近く仲もよかったそうで、私をかわいがってくれた。


佐賀から新庄へ、

16歳の少年の9月から年末まで。

Know whoである。

そしてそれから

Know how へ、

凡ての生き方がここに現れ、将来を決定づけた。


五十嵐家は新庄でも指折りの大地主で、敗戦間際まで呉服屋もやっていたそうだ。

雪叔母の夫の五十嵐源三郎は、県会議員をしたこともある親分肌の快男児だったらしいが、

敗戦直前の3月に急逝したという。

女4人、男3人の子供のうち、長女と次女が結婚し、

長男が兵士としてシベリアに抑留されていたが、

私とほとんど同年齢の次男と三男がおり、

その下の三女と四女はまだ小中学生だった。

そのほか、田畑や山林の管理をし、家計を処理する番頭や、

男女の使用人も4、5人はいて人の出入りの多い家だったので、

私もそこにまぎれて、あまり気兼ねなく居候させてもらうことができた。

■この雪叔母は女学生時代を東京で過ごし、モダンな生活感覚をもっていたし、

内に烈(はげ)しい情念も秘めていながら、

父親の面倒を看(み)るために土地の商家に嫁いでずいぶん苦労もしたせいで、

人の気持ちのよく分かる魅力的な女性だった。

なにより、立ち居振舞いの美しい人だった。


1946年、

木田少年(大雑把に17歳とする)。

新庄市から─鶴岡市に

昭和21年(1946年)の夏に満洲からの引揚げが始まり、

9月の末には私の家族も帰ってきた。

といっても、満洲国の官吏をしていた父はシベリアに抑留され、

帰ってきたのは母と姉2人と中学1年の弟の4人である。

母の兄の一家と一緒に帰国してきた私の家族は、

同じ山形県でも母の郷里の鶴岡市に落ち着き、そこから新庄に連絡してきた。

しかし、鶴岡にも別に近い親戚(しんせき)がいるわけではないので、

遠縁の家の一間を借り、そこに私をふくめて5人が暮らすことになった。

とにかく持って帰ったのは各自リュックサック1つの荷物だけだから、なにもない。

寝具から調理器具、食器まで、すべて親戚・知人からもらい集めたものばかりだ。

その上、引揚げてくる途中で母が腸チフスにかかり、

体は青ぶくれ、下痢がつづき、いつ医者に見せても、

今週いっぱいもたないだろうと言われるような状態だった。


家族の帰国 父は抑留、一間に5人 

食いぶち稼ぎに悪戦苦闘が始まる。


とにかく食べ物の調達をしなければならないので、

引揚げ者仲間の造る、まったく泡のたたない石鹸を仕入れて

近郊の農家をまわり、米と取り替えてもらおうと考えた。

たまに

「むずせーのう(かわいそうに)」

と言いながら米と交換してくれる家もあったが、1日歩いて5合にもならない。

まるで物乞(ご)いだ。

■そのうち、伯父や父の縁故をたどって、鶴岡市役所の臨時職員に雇ってもらい、

社会課の窓口に立った。

仕事は、引揚げ者に給付される生活補助金の申請書の受付である。


代用教員(終戦直後の小学校高等科)───

ひと月ほどして、部屋を貸してくれている家のご主人が、

近郊の村の小学校の代用教員の口を紹介してくれた。

紹介してくれたのは、鶴岡からバスで30分ほどの温泉地、湯田川村の小学校だった。

このころは小学校6年を卒業し、中学校・女学校に進学しない子供は、

高等科に2年間通うことになっていた。

その高等科1、2年の男子生徒の担任である。

秋のうちはバスで通勤したが、雪が積もるとバスは停(と)まる。

雪道を歩くと2時間はかかり、汗びっしょりになる。

なるべく宿直を引き受け、宿直室に泊まりこんでいた。

敗戦直後で、戦争中の教科書は一切使えない。

プリントを作り、それを使って1、2年の複式授業だ。

4、5歳下の男の子と遊んでいるのは、それなりに楽しかった。


鶴岡市湯田川村───

(ヤミ米を東京に)

小学校の代用教員の口にありついたものの、

給料は600円、とても5人家族は暮らせない。

悪いと思いながらもアルバイトをせざるをえない。

私が選んだのは、週末に東京まで闇米を運ぶ仕事だった。

これなら、新庄にいたころ幾度も東京の親戚(しんせき)に届けさせられていた下地があった。

知人に頼んで米を買い集めておいてもらい、

それを週末の夜行列車で東京まで運ぶのだが、

鶴岡駅からでは窓からでさえ乗れないので、2駅もどって余目(あまるめ)駅から乗り込む。

みな同じことを考えるので、夕方になると大勢の担ぎ屋が余目に集まり、

荷物を真ん中に積み上げ、まわりに円陣をつくって汽車を待つ。

それを取締まりの警官と進駐軍のMPが取り囲み、

たまにMPが空に向けてピストルをぶっぱなすこともある。


そこに8時ごろ秋田始発の夜行列車が入ってくる。

みなわれがちに荷物を抱えて窓から乗り込む。

入り口からなどまったく乗る余地がない。

だが、なかにガラガラ空いている車輌(しゃりょう)がある。

秋田から朝鮮人が占拠してきた車輌だ。

私はそこの窓から荷物を投げ入れ、自分も乗り込むことにしていた。

「入ってきたら殺すぞ」と凄(すご)まれても、

「乗ってからにしてくれ」と言って、強引に乗り込む。

実際になぐられもするが、少し我慢していたら、

親分風の女性が「そのくらいにしておき」と停(と)めてくれたこともある。

毎週のことなので、やがて顔見知りになり、引き上げてくれるようにもなった。


仕入れがうまくいって、一度に1俵分60キロ近く運んだこともあるが、

やはりきつかった。

通常は30キロだ。

上野まで行くと、神田の須田町で例の海軍大佐が活字と印刷の会社をやっていて、

時価で買いとってくれるので仕事は楽だった。

帰りに新庄を回り、叔母の家に1泊することもあった。

2度運ぶと給料1月分くらいになるので、やめられない。

だが、シベリアに抑留されている父が生きているのかどうか、

いつ帰ってこられるのか、まったく見当がつかない。

夕方に学校の宿直室などで、

いったいいつまでこんな生活がつづくのだろうと考え始めると、気持ちが暗く沈んでゆく。

中学校や兵学校の同級生はみなどこかの学校に入っている。

それが羨(うらや)ましくて仕方なかった。


一俵=60㌔=約600円(代用教員の1か月分の給料)ということか。

一石=100升=4俵・・・1俵=25升か。


1947年

(木田少年は大雑把に18歳とする)

ところが、昭和22年(1947年)の2月

あることをヒントに、そのころ統制物資だった畳表を、

商品見本市に出品したいからと言って岡山の商工会議所から取り寄せ、

それを闇に流すという、子供にしては大それた詐欺まがいの商売をして、

給料1年分ほどの金を稼ぎ、それを当てに学校に入ろうと決心した。

母もなんとか恢復(かいふく)してきていた。

姉たちは泣いて反対したが、こんなチャンスは二度とない、

ムリヤリ押し切った。

といっても、家族を置いてよそに出ては行けない。

だが、鶴岡には中等学校以上の学校はない。

どうしようか迷っていたとき、たまたま学校に遊びに来た村の青年が、

今度鶴岡に県立の農林専門学校ができるので、そこを受けるつもりだと話しているのを耳にした。


「亭主の好きな赤烏帽子」

耳をダンボにして情報をキャッチする。


農業にはなんの興味もないが、どうせ卒業できる見込みはない。

農業でもなんでもいいや、人生の中休みがしたいだけだと、

私もそこを受けることにした。


「亭主の好きな赤烏帽子」
農専の先生たちと。


1947,10月、父シベリア抑留より帰国───

父は満洲時代、しばらく教育関係の役所の長官をしていたことがある。

農専の先生のなかに、満洲で吉林師道大学の動物学の教授をされていた

阿部襄(のぼる)先生(父と面識がある)がおられたが、

開校後間もなく、この阿部先生が吉林時代の同僚で、

英語や文学・哲学など教養科目を担当される浅川淑彦先生を連れてきたので、

父を知っている先生が2人にふえ、悪ぶってばかりもいられなくなった。

これまでどおり週末の闇米運びを続けていれば、1年はもつはずだったのだが、

恐ろしいほどのインフレの進行でまったく計算が狂い、

夏休みの終わる頃(ころ)には財布の底が見えてきたのだ。

もう学校などやめて本格的な闇屋になるしかないと思いながら、決心がつきかねていた。

■そんなところに、10月の初め、不意に父がシベリアから帰国してきた。

父は敗戦時には満洲国の人事院の長官のような役職にあったが、

いくら説明してもロシア人に理解してもらえず、

結局外交官のグループに分類され、それが幸いして、もっとも早く帰国できたらしい。

先に帰っていた友人たちが、

理化学研究所の総務部長という就職先まで用意してくれていたので、

舞鶴から東京にいってその就職の話を決め、

それから鶴岡に帰ってきたのだった。

私たち家族の喜びは言うまでもない。


父がシベリアから帰国すると、ありがたいもので、

私は家族を扶養する義務から一挙に解放された。

できれば旧制の高等学校に入りなおすべきところだ。

だが、なによりもこの農専の居心地がよかったのだ。

親しい先生や友人も大勢いた。

そして屈託焦燥感

不安から逃れようとやがてがむしゃらの読書にふけるうちに

19世紀後半のロシアの作家ドストエフスキーに出会った。

『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』を初めとする彼の作品の主人公は、

その頃(ころ)の私より少し年上の20代半ばの青年たちで、

それぞれに能力はありながら、帝政末期のロシアでその能力の向けどころがなく、

みな絶望して悪に走ったりする。

自分自身深い絶望を味わっていたので、

私にはこの青年たちが自分のこれからの姿を映し出しているように思われ、

ますます熱中していった。

手に入る限りの作品を読み、次はさまざまな人の書いたドストエフスキー論を読んだ。

当時もジッドシェストフ、ウォルィンスキー

小林秀雄、森有正といった人たちの、

必読とされる評論があって、みな面白かった。


「亭主の好きな赤烏帽子」

ある家の属性や生産性は引き継がれてゆく。

天性の知の根底にさらに上の究極を目指すものが萌芽してくる。

話は飛ぶが、「就活」などというものではないのである。

学ぶということはほとんど生きる本能のようなものだ。

教育は五感を磨き上げることをセットしなければならないと思うのだ。

正義だけでは生きてゆけない。

特に正義だけを語る人は、ある意味で何にもできない人である。

ともかくも木田少年は青年の入口に立ち、

家族を扶養するという義務から解放されたものの、

新たな青春の惑乱へと入ってゆく。


倉石智證