いつでも自分の心は自由にしておかなければならない。

1853年、ペリー来航のこの年、

19歳の坂本龍馬は江戸に剣術の修行のために上京する。

1854年、武市半平太の土佐勤皇党に入る。

28歳(1862年)脱藩、

33歳(1867年)薩長同盟。


第2次世界大戦後の日本の復興を研究した重要な著書

『敗北を抱きしめて』で知られるジョン・ダワー氏は、

ダイナミズムと方向転換の早さが日本の特徴だと話している。

このことは、封建社会から強大な産業国家への転換や、

攻撃的な軍事国家から平和主義を60年間貫き通す国家への変身に端的にうかがえるという。

また、変化は常に上層部から始まったわけではない。

米国のマシュー・ペリー提督が乗った黒船が沖合に現れた1853年

当時の将軍は病床に就いた。

しかし、それでも劇的な変化は起きた。

先導したのは、日本を近代的な工業国にしようというビジョンを持った若いサムライたちだ。

(2011年6月23日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)


1853ウィリアム・ホルマン・ハント「世の光」(オックスフォード、ケーブル・カレッジ蔵)で───


「亭主の好きな赤烏帽子」

「私は世の光である。私に従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

というヨハネ伝8章12節の有名なキリストの言葉を表現したもの。

キリストがカンテラをもって戸口にたたずみ、扉をたたいている。

これは、

「見よ、私は戸口に立って、たたいている。

だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、

私は中に入ってその者とともに食事をするであろう」

という黙示録3章20節の言葉を示唆する。

産業革命後の近代社会においてもなお人々は、このような絵を歓迎した。

(神戸大学准教授 宮下規久朗11,8/1日経)


「亭主の好きな赤烏帽子」
1854ギュスターヴ・クールベ 「出会い(クールベさん、こんにちは)」


「亭主の好きな赤烏帽子」
1854大久保一丘の「伝大久保一岳像」

自分の息子をモデルにしたと思われる肖像画。

幕末の絵とは思えないほど写実の技が使いこなされ、描写に気品がある。

世間、あるいは、人と言葉を交わし、手を差し伸べ合ったり、別れたりする場を社会と呼んでいる。

思いを込める、いつくしみ合う。

近代がひそかに息づき始めている。


「米、密航計画」

吉田松陰は嘉永4年(1851年)3月、参勤交代に同行して江戸にも遊学。

佐久間象山に出会う(松陰22歳か)。

嘉永7年(1854年)1月、ペリー再来航の際、

密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに密航を再度企てる。

(松陰個人と師弟関係を結んだのは、この金子重之助が一番最初ということになる)

1851信濃松代藩士の佐久間象山は西洋の砲術や兵学を学び吉田松陰らに教えた。

その松陰の米密航計画(1854)に関わり、謹慎を命じられた。

そのときに作ったのが電気治療機。


「亭主の好きな赤烏帽子」

電磁誘導を利用し、象山は「スコック・マシネ」などと呼んだ。

象山はオランダの電気治療に関する書物や治療機の実物を目にして製作を思い立ったらしい。

肩こりや百日ぜきなど様々な病気に効くとみて、妻の治療にも使ったという。

(日経)


安政元年11月、松陰が野山獄に入った時獄中にいた唯一の女因。

当時37歳で在獄2年だった。

藩士高須某の未亡人で、素行上の問題で家族からの借牢願いにより下獄したらしい。

封建社会における女性圧迫の犠牲者とみてよい。

安政6年、松陰が江戸送りとなるとき、

が汗拭きをおくったことは松陰自身が書き残し、歌も詠んでいる。

「箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてふき清めてん」

というのである。

また俳句としては

「一声をいかで忘れんほととぎす」

という松陰の句に対し、久の

「手のとはぬ雲に樗うちの咲く日かな」

の応答がある。

こうしたことから在獄中、

松陰と久の間に恋愛関係があったのではないかとの説があるも真相は不明。


1855(安政2)年から約4年間、幕府から派遣された勝麟太郎

長崎奉行西役所に開設された海軍伝習所に通っていた。

オランダの海軍士官から、航海、造船、砲術などを学ぶ一方、

練習船「観光丸」で訓練。

全国から集まった伝習生は=約130人、それを束ねる役が勝であった。


1854安政南海地震大阪に大津波瓦版には

「大地震の節は津波起こらんことを心得、船に乗るべからず」

「後の人の心得に」とつづられ、教訓を後世に伝えようと苦心している。


「亭主の好きな赤烏帽子」

瓦版の絵図によると、木津川や安治川の河口に停泊していた千石船が津波で河川を逆流。

橋を次々に破壊しながら内陸の道頓堀まで運ばれ、

「(けが人や死者は)数知れず」と記されている。

「大阪は堀や川が多い水の都。地震をやり過ごそうと、船上に逃げた人が多かった。

そこへ大型船が押し寄せ、次々転覆した」

(宮本裕次主任学芸員11,4/10日経)


安政元年(1854)11月4日 M8.4

震源=遠州灘沖(愛知・静岡 の南)『安政東海大地震』

安政元年(1854)11月5日 M8.4 震源=潮岬沖 (和歌山・徳島の東南海地震)

1855年11月11日( 安政2年10月2日)の午後10時ごろ、

関東地方南部で発生したM6.9の大地震(安政地震)である。

南関東 直下地震の一つに含まれる。


発生が確実なのは1707年に起きた宝永地震だ。

地震の規模はM8.6とみられ、西日本で激しく揺れ、

静岡・伊豆から九州まで津波に襲われた。

1855年安政地震では、

東海、東南海地震の32時間後に南海地震が起きた。


■津波  

■地震 

■台風

徳川政権末期の安政時代(1854~1860年)だろう。

その予兆は、嘉永6年(1853年)のペリー浦賀来航に始まる。

黒船4隻に太平の眠りを覚まされた幕府は、

翌年(1854)、鎖国体制を解き、下田と函館の2港を開港した。

ところが、その年(1854)の11月初旬

安政東海地震、安政南海地震という巨大地震(M8.4)が相次いで発生、

開港間もない下田は、押し寄せた津波に壊滅的な被害を受け、

遠州灘から伊勢・志摩、紀州、大阪湾、四国、九州までを津波は襲った。

天災は、なおも続く。11カ月後の安政2年(1855年)10月

内陸直下型の安政江戸地震が江戸の町を襲い、

推計で1万人が死亡、人口約130万の大都市を震撼させた。

さらに翌(1856)安政3年8月には震災で疲弊した江戸の町を台風が直撃、

多くの人家が大破し、橋が壊れ、一説では約10万人が死亡したといわれる。

(宮川匡司・編集委員11,9/24日経)


安政2年(1855年)に江戸を襲った大地震を記録した「安政見聞(けんもん)誌」で、

浮世絵師・歌川国芳らの挿絵で当時の様子が分かる。

浅草寺の五重塔の絵を見ると、先端が曲がっている。


「亭主の好きな赤烏帽子」

今回の震災で先端が曲がった東京タワーとそっくりだ。

被災者に寄せられた支援の一覧には「髪月代(かみさかやき)」の文字。

髪を結ったりそったりすることで、髪結いが1万5000人へのサービスを申し出ている。

ちょうど先日、避難所となった東京武道館(同・足立)でも

理容業者らが臨時ヘアサロンを開いていた。

食料や住宅の支援も必要だが、

髪を整えて気持ちをリフレッシュすることが当時でも大切にされていたようだ。


戸田と書いてヘダと読む。

伊豆半島西岸にあるこの地は、日本が近代の造船技術を学んだ所として知られる。

時は幕末の1855年。地元の船大工らが初めて西洋人の指導のもと、洋式帆船を造ったからだ。

船の名は「ヘダ号」という。

造船技術を伝授したのは、プチャーチン提督率いる帝政ロシアの士官たち。

使節団は国交交渉のため、前の年から来日していた。

そこに襲ってきたのが安政東海地震

一行が乗ってきた「ディアナ号」は津波で大破し、まもなく沈んでしまう。

帰国のための代船を造ろうと、両国が手を携えた結晶がヘダ号だった。

プチャーチンはヘダ号で帰国前、日本と通好条約を結んだ。

国境はウルップ島と択捉島の間、つまり北方四島を日本領と認めたのだが・・・


テムズ川汚染───

(1855,7/7タイムズ紙にマイケル・ファラデー(1791~1867)は寄稿を)

自分が郊外から蒸気船に乗って帰ってきたときに見た

「褐色に濁った水面から立ち上るひどい悪臭」を指摘した。

産業革命の進展や人口集中でテムズ川の汚染は急速に進んでいた。

19世紀の半ばにはコレラも大流行した。

水洗トイレは排水路を通して直接汚物を川に流していた。

当時のパンチ紙(55,7/21号)にファラデーが汚染問題で関与した記事を漫画で

「ばっちいテムズじいさんは碩学の教授の診断を受けるべきだ」

という説明書きで紹介。

いったん濾過池に導いてから放流しようとする市の汚染処理問題に取り組んだ。


リスト(1811~86年)

ベルリオーズは、リストが演奏するベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」ソナタを聴いて

「1音も抜かさず、1音も加えなかった」と述べている。

過去に対する敬意は、リストにとって創造の源泉でもあった。

それは、今ある「クラシック音楽」というジャンルの始まりでもあったかもしれない。

(林田直樹・音楽評論家11,1,6日経)

色恋は超絶に墜つ鍵盤に暗き瞑想僧になるリスト

鍵盤の名手はその上とっても女性にもてた。

リストは晩年坊さんになった。


リストは文学や美術に造詣が深いばかりでなく、

サン=シモンの社会主義的な思想に共鳴し、

芸術家の社会的使命を誰よりも強く自覚するという一面も持っていた。

さらには宗教的な情熱家で、晩年は僧職者にも叙任されるほどだった。

単なる人気スターというよりは、スケールの大きな思想家と呼んだ方がふさわしいだろう。

実はリストの作品は、華麗で技巧的なものばかりではなく、

暗く瞑想(めいそう)的なものもとても多い。


北海道せたな町太田山神社、

険しい登り口である。

創立は嘉吉年間(1441~1443)とされる。

1454年、後の松前藩の祖とされる武田信広が本州からこの地に上陸し、

航海の安全を願ったという。

江戸期には美濃の僧侶、円空が本殿岩穴で多くの仏像を彫ったという。

はっきりと文献に出てくるのは幕末に蝦夷地を探検した松浦武四郎1856年の手記。

途中の山道の一部を「オニカミノボリ」と表現している。

「鬼が神のように登る」という意味だ。

(佐々木俊一11,6/27日経)


思えば、隅田川は、江戸時代から苦難の歴史があった。

安政2(1855)年政江戸地震では、

大川の東岸、深川地域の民家が相次いで倒壊するなど、流域は甚大な被害を受け、

翌安政3(1856)年8月台風では、船が流失、橋が壊れるなど大洪水に見舞われた。

安政3(1856)年から制作された「名所江戸百景」は、

古き良き江戸のイメージを後世に残さんと、広重は残された渾身の力をふるったに違いない。


「亭主の好きな赤烏帽子」

1856~歌川広重「おおはしあたけの夕立」

大橋とは1693年に架けられた新大橋を指し、当時は現在より南側にあった。

「あたけ」とは幕府の舟蔵があった対岸、深川の地名。

「あたけの夕立」に描かれた新大橋、その向こう、江戸湾に近い橋が永代橋。

この絵を見れば隅田川の両岸こそが当時の庶民文化の中心だった事が一目瞭然になる。

芝居小屋も吉原の遊里も、行楽地の向島も、川の流域に沿った名所なのである。


1857「名所江戸百景深川洲崎十万坪」


「亭主の好きな赤烏帽子」

歌川広重は、安政江戸地震後の1856年(安政3年)から、

古き良き江戸の名所を、新たな構図で描き尽くす

「名所江戸百景」の制作に打ち込む。

その2年後(1858)、畢生の大業を完成間近にして病に倒れ、62歳で他界する。

急速に変貌する江戸は、この名作群の中で今も情緒豊かな昔の面影をとどめ、

広重は不朽の名声を得た。


1857五雲亭貞秀「箱根山富士見平御遊覧諸所遠景図」

五雲亭貞秀の絵が出版されたのは1857年(安政4年)。


「亭主の好きな赤烏帽子」

世相は激変していた。

米国の東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦船を率いて浦賀に来航したのがその4年前(1853)

翌54年、日米和親条約が結ばれ、約200年続いた鎖国体制は終焉を迎えた。

その年(1854)の旧暦11月、安政東海地震、安政南海地震という巨大地震が相次いで発生、

伊豆から伊勢・志摩、紀州、土佐、そして大阪湾にまで津波が押し寄せ、

橋をなぎ倒し、家屋を押し流した。

その11カ月後(1855)には、内陸直下型の安政江戸地震が江戸の町を襲い、

推計で1万人が死亡、江戸城周辺の大名・旗本屋敷は次々と倒壊した。

古き良き江戸は音を立てて崩れていったのである。


「製鉄」大島高任(1826-1901)

高任は釜石の鉄鉱石(18世紀初めに発見された)を使って高炉建設の計画だったが、

財政難の藩は許可しなかった。

一計を案じた高任は地元の豪商、貫洞瀬左衛門の支援を得て藩に許可を上申した。

瀬左衛門は、たたら炉と違って

高炉は繰り返し使えるため経済性があると判断して支援を引き受けたという。

57,5月、釜石・大橋の地で築造を開始、

同年、12/1日、大橋高炉が初出銑に成功する。

銑鉄は水戸の反射炉に運ばれて大砲に鋳造された。

砂銑鉄と違って亀裂が入らないと、水戸藩は高く評価した。

■しかし、藩主斉昭の失脚などによって水戸の反射炉は休止に追い込まれる。


大島高任(1826―1901)は、盛岡藩大橋(釜石市)に洋式高炉を建設し、

安政4(1857)年12月1日にわが国で初めて

この鉄鉱石製錬による連続出銑操業を成功に収めました。

この他、橋野・佐比内・栗林・砂子渡にも高任の指導で10座の高炉が築かれました。

その後帰藩して、蘭学・英語・医学・物理・化学・兵術・砲術・物産を学ぶ日新堂を創設しました。


「聖人君子が天下に耳を傾ければ、世はるく平和にまる」

『明治』を元号候補に挙げた。

松平春嶽が中国の古典から推挙した。

慶永は藩校を再興し横井小楠を師に迎え

「文武不岐・政教一致」をスローガンの下に藩政改革を行った。

1855年に藩校明道館が再興され、

後に橋本左内が学監同様心得に就任(1857年,24歳)すると、

洋学所や算科局などの設置を立案し学校改革に着手した。

安政年間に学問所に語学や洋算、西洋兵学を取り入れている藩は少なく、

ペリー来航後の品川警備を任された福井藩が、

藩政改革と連動する形で藩校改革、兵制改革を急ピッチで進めたことがうかがえる。

■福井藩校の特色は「他国遊学」。

幕末維新期を通して莫大な費用を投じている。

遊学が「人材育成」と同時に、自らの「立身出世」の手段として機能するようになった。

遊学後の登用及び昇給に際する評価基準は「普通ノ学」の習得であった。

評価採用システムの確立により藩士の勉学熱も高まった。


安政の大獄で、

1859年、橋本左内26歳斬死


1858安政5年没。享年62。

死因はコレラだったと伝えられる。

友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの)

に辞世の歌が遺る。

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

「西方浄土の名所を見てまわりたい」と詠っている。


1858三代歌川豊国、化粧水「花の露」


「亭主の好きな赤烏帽子」

二代歌川国久「江戸名所百人美女 芝神明前」

島田髷(まげ)を結った女性が、左手で眉を吊り上げ、剃刀(かみそり)で顔を剃っている。

鏡台の脇には芝神明前の林喜左衛門の店で売り出していた化粧水「花の露」が見えている。

■花の露は、1682年井原西鶴の「好色一代男」に

「しぶりかはのむけたる女は心のまゝ昼寝して、手足もあれず。

鼈甲のさし櫛、花の露といふ物もしりて、……」

と書かれている。

この「江戸名所百人美女 芝神明前」が書かれた1858年まで店があったとすれば、

176年は続いた老舗であった。

(ポーラ文化研究所研究員 村田孝子11,10/3日経)


改めてこの浮世絵のコマ絵を見てみると、花の露屋の店先が描かれている。

この「江戸名所百人美女」のシリーズは、

歌川広重の書いた「名所江戸百景」に対抗して生まれたとみられている。

名所絵もいいが、百人の女性たちに会えるほうが嬉(うれ)しい。

見飽きないのである。


浦上天主堂───

浦上は哀し聖母の涙かな人恋ふることいまは忘れて(智笑)

1858年日仏通商条約締結。

外国人礼拝のための建設を認めた。

1865年、フランスから来たプチジャン神父が、現在の南山手町に大浦天主堂を建立。

ある日、見物を装った浦上の農民たちが、神父の耳元で

「うちらはみな・・・異人さまと同じ心にございます」

と呟き、隠れキリシタンであることが分かる。

なんと250年の空白の時を経て信者が発見されたのだ。

■浦上の農家の娘キクはキリシタンではないが、隠れキリシタンの清吉に恋をする。

流刑に遭った清吉に仕送りをするため丸山遊郭に身を落す。

キクはついに体を壊し、聖母マリア像に向って叫んだ。

「いいえ、あなたは少しも汚れていません。なぜなら・・・」

マリア像が涙を流していた。遠藤周作「女の一生」


1859ミレー「晩鐘」

貧しい身なりの農民のカップルが、夕暮れの鐘の音を聞いて、

一日の糧を与えてくれた神に感謝する絵である。


「亭主の好きな赤烏帽子」

ルーヴル百貨店(美術館とは無関係)の社長であるショシャールが

1890年にアメリカから80万フランで買い戻したとき、

それは当時のフランス絵画の高額記録となった

1909年にショシャールの死とともに

百貨店の隣のルーヴル美術館に遺贈されるまでの約20年間は、彼のもとにあった。

貧しい店員から一代で百貨店社長になった労働の原点だったのか・・・

(日本女子大学教授 馬渕明子11,7/14日経)


働くということ、勤勉の源、

ところで勤勉といへば我が国では

二宮尊徳さん(天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日 (1856年11月17日))

「報徳思想」を説く尊徳さんは、神様は私たちには無関心であるが、

一方で天地は無尽蔵であることを説いた。

ミレーも尊徳もまだまだ神に関わっているわけだが・・・


さて、ようやく近代へと入ってゆく。

いつでも自分の心は自由にしておかなければならない。

同じ種でも、少しでも自然環境に適した特徴を持った個体が生存競争を勝ち抜いて子孫を残していく。

自然選択が自然淘汰を促し、種の中にある種の進化をもたらす。

『種の起源』1859,11/24日、英国で出版された。


20人の人がダーウィンの本を読め。

仮に1000人の人がダーウィンの本を読んだとしたら

20年後にはきっと世の中が少し変わるだらう。

生物は個体変異し、それによって生存繁殖率に差が出る。

それが積み重なることで新たな種となる。(日経)

■(web知恵蔵より)キリスト教が社会全体に絶対的な影響を持ち、

生物は神が創造したと信じられていた時代のヨーロッパにあって、

「自然選択(自然淘汰)」による進化が多様な種を生んだとする自説の発表をちゅうちょした。

しかしその後、同様の理論を独自にまとめた

ウォレス(イギリスの博物学者)から相談を受けたことをきっかけに、

着想から20年以上を経た58年にウォレスと共同で論文を発表し、

翌年1859、本書を出版した。


出掛ける。

見る。

触る。

「ガラパゴス」


「亭主の好きな赤烏帽子」

イギリス海軍測量船ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航した。

1834年6月にマゼラン海峡を通過し、7月に南米西岸のバルパライソに寄港した。

ここでダーウィンは病に倒れ、1月ほど療養した。

ガラパゴス諸島のチャタム島(現サンクリストバル島)に到着したのは

1835年9月15日であり、10月20日まで滞在した。

当時のガラパゴス諸島は囚人流刑地だった。

ダーウィンは最初ゾウガメは海賊たちが食料代わりに連れてきたものだと考えていたが、

ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、

詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、

初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づいた。


この時、ダーウィンがガラパゴス諸島から持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは

175歳まで生き、2006,6/22に心臓発作のため他界している。


ゾウガメの甲羅の形が島ごとに異なることなどを発見し、進化論の着想を得た。

「種の起源」(1859出版)正式な書名は

"On the Origin of Species by Means of Natural Selection,

or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life"

(「自然淘汰による種の起原,

すなわち生存闘争において有利である種族が保存されることについて」)

である。

日本語版は1896年に立花銑三郎訳で

「生物始源 一名種源論」として出版されたのを最初に、

最終版である第6版(72年刊)または初版にもとづき、

今日まで多数出版されている。書名にあるOriginの日本語表記は、は、

「起原」(岩波文庫「種の起原」、

大杉栄訳「種の起原」および駒井卓による複数のダーウィン評伝、他)とするものと、

「起源」(今日刊行されている多くのダーウィン関連書)とするものがある。

(web知恵蔵より)


(遺伝子11,12,28日経)

シーラカンス───

水中でフェロモンを感じ取る遺伝子の一部が

哺乳類など陸上動物と共通していることが初めて分かった。

かつて陸上生活に備えた痕跡が遺伝子に残った可能性も。

ゲノムの長さは人を含めた哺乳類と同等で、

生命活動を支えるたんぱく質の遺伝子は2万個以上あった。

遺伝情報を記す塩基という物質の組み合わせは27億通りだった。

魚特有の魚類型遺伝子に加え、哺乳類や両生類などで知られる動物型遺伝子も。

海なのに、陸のものも・・・


(遺伝子11,12,28日経)

ホップ───

ホップの雌花の中にある大きさ約0.1ミリメートルの黄色の粒

「ルプリン」に苦み成分があることは知られていたが、どのように作られるのかは不明だった。

研究チームはルプリンを集めて遺伝子を大量に解析。

活発に働く6600種以上の遺伝子の中から候補を探し、

遺伝子「HlPT1」に絞り込んだ。

この遺伝子をガの幼虫の細胞に入れてたんぱく質を作ると、

苦み成分を作る反応を起こした。

遺伝子の働きが強ければ、ホップの中の苦み成分の比率が増えてビールの味に反映される。

矢崎教授は

「将来は苦みの非常に強いビールや苦くないビールの製造が可能かもしれない」と話す。

HlPT1はホップの中で

・炎症を抑える物質や

・抗がん作用の期待される物質などを作る働きもしており、

健康食品の開発などにも応用が期待できるという。(11,12/28日経)


1859年11月22日に発売された『種の起源』は予想外の人気を博した。

自然選択説とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。

厳しい自然環境が、

生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、

進化に方向性を与えるという説。

チャールズ・ディケンズ(1812~1870)───

19世紀半ばは西欧の文化に深い裂け目がうがたれた時代だ。

ディケンズは小説の登場人物にこう言わせた。

「競争、競争また競争――

新発明に次ぐ新発明――

変化に次ぐ変化――

世の中には、わしはもうついてゆけない」

蒸気機関と鉄道網が社会の鼓動の速度を増し、

ダーウィンの進化論やライエルの地質学が世界観、価値観を覆した。

思想とテクノロジーの変化の衝撃が社会を揺るがせた。


さういふディケンズは1867年に米国を再訪している。

ミレーや尊徳さんの時代は終わって、

世界はものすごい生産性の時代へと突入していった。