「亭主の好きな赤烏帽子」
槍の方角。

こんなにすごいものを見てはしばらく黙っているしかないではないか。

こんなに真剣なものを見ては

己のうちに問いかけるしかないではないか

しかも、なぜとは問いかけられぬ

2600メートルの高地で

ふりかえったら穂高連峰と槍ヶ岳が眼に飛び込んでくる

しばし、礫の上に無心に腰を下ろし

茫然として稜線の遥かなのを見る

激しく見上げる視線の頂稜と

激しく見降ろす谷深き視線とがいっしょになって

遠くに雲が湧き立った。


1720年のバッハの調べが

なぜ、突然時空を超えて私の頭の中に響くのだ

時があまりに甘美なので人は時空ときに自身を委ね

石のガレ場に思い切り身を横たへる

まだ午後の3時を回ったばかりだ


一瞥しただけで全世界が今、

あたかも一つの啓示や精神のやうに屹立して立ち現われてくる

さうであれば、すべては余分なことではないか


「亭主の好きな赤烏帽子」
穂高の方角。


倉石智證

7/16(土)17(日)、蝶ヶ岳登山。

徳沢から登って、1時間少し、

栂の樹の大木の根方に憩んでいると、

僕らの肩や、背中や、足元に、

蝶の群れが一斉に翔んでいる場所があった。

しばらく蝶を引き連れて登ってゆく。

お山には不思議が満ち満ちているのだった。