巻機山を降りて来たらあけびが蔓にぶら下がっているのに出遇った。

上の方では熊鈴がとほくで鳴っているなと思って、

山の雑木の秋の中を降りて来たらそこに娘さんが佇んでいた。

山がちょうど開けたところで、

山のなだらかな斜面の下のほうは人の背丈ほどの薄の穂が盛んに伸び上がっている。

邯鄲の鳴き声があたりに満ちて、るるる、るるると静けさをさそふ。

そんなところに蔓が木の枝の間に生い茂り、

そんな中にあけびの紫がかったのが二つほどもぶら下がっていた。

娘さんはしかし、一向にその目の前にあるあけびには関心がなささうで、

しょざい無げといった風情に手にしている登山のストックで

足元をかき回すか、突くやうなことをしている。

妻が手を伸ばしあけびの一つをもぎ取った。

挨拶をしたやうでもありさうでもなかったやうでもあるのだが、

娘さんの脇を通って径を進むと、薄と薄の叢の間に老人めいた人がいて、

陽にやけた顔に煙草を銜えていた。


さうか・・・すぐに思い出す、

娘さんは

「父親と来たのです」と口にしたのだった。

つぶやくやうなそんな云ひ種にすっかりなにを尋ねたのかさへも忘れていた。

そこに不意に、父親のやうな男性が煙草を手に、薄の叢の間に佇んでいたのだった。

邯鄲の鳴き声がるるる、るるると足元から湧き上がってくる。

老人を過ぎると径の両側はすっかりまた薄の穂に埋め尽くされた。


径にはチカラシバが足元に、

潅木からぶら下がるくもの巣には朝露がきらきら輝いていたりする。

ズボンに何かうごめいているなとよく見ると、蛭が匍匐しているではないか。

沢伝いの山はあぶないと、毎年一人くらいは死人が出ているよと、

駅下の魚屋さんの高橋さんはレジの前で云ってくれた。

気をつけなくてはいけない。

沢伝いこそはとても無理だと、妻と二人で迂回路を選んで進んだ。

細い細い径である。

尾根コースを行けば一番安全であるのは察しがつくが、

いや、滑滝まで行くのなら、沢伝いか、迂回コースしかないのだ。

谷川になだり落ちる山肌の起伏に沿って、

ブナの大木や、楢の木や名前も知らない樹々根の張り出しているのを越え、

落ち葉を踏んで、後ろにも先にも誰もいない径を、

えいや、えいやと妻と歩み進んだ。

樹幹の間も、時々にある大きなかち割られたやうな断面のある岩岩も冷え切ってゆく。


沢音がどっと近づいて来たなと思ったら、巻機の谷川に出た。

眼の前にそそり立っているのは天狗岩である。

巖峰鋭く、青空に突き立ち、

へばりつくやうに松や潅木がところと゜ころに青い茂みをつくっている。

谷川は天狗岩の巖峰を両側に別れ、

一筋は左に割めき山の頂の下から沁み出し滝筋を作り出し、

一筋は天狗と巻機の谷筋に渓谷を織り成している。

滑滝は右側の渓谷になる。

しかし、こはどうしたものか。

谷筋は荒れに荒れているのであった。

秋の出水がここまでも荒らしに荒らしたのだ。

この上流の谷間を崩し、大岩が転がり出た。

大木が流木となって岩のあちこちに山をなしている。

白白と陽に晒され、乾いた風景が眼に眩しい。

川中を巨岩が折り重なった山を越えて、岩伝いに行くと、ようやく懐かしの滑滝に出た。

水流はいつもよりも少し多いやうな感じだが、

いつものやうに右に左に蛇のように一枚岩の上をきらめき立ち流れ下っている。


さて、どんなものかと岩から下りて滝の登り口に取り付いてみると、

ぷっつりと鎖はアンカーのみを残してちぎれ、

滑り岩は起伏を滑らせてとても取りすがることさへもできない。

辛うじてアンカーの鉄の環に掴まり伸び上がって登ったもののさらにその先が続かない、

万事休すとなった。

右に左に紅葉が燃えそめはじめ、段々をなして上へと攻めあがって行く。

右に左に頂嶺を目指して駆け上がって行くものがある。


君は見たかい

巻機山の裾に藪があって

藪の中にあけびが紫色にぶら下がる

ゑうなきもののごとく呑んびりと

熟して鳥の訪れを待っている

その傍らに娘がいていかにも所在なげに佇み

なにごとか会話をかわしたやうな気もするが


ある晴れた秋の日に

君は見たかい

巻機山に天狗が駆け下るのを真っ赤な鼻面を下げて

機織姫伝説が囲炉裏端に語られる

織媛は紅葉山に色を錦秋に縫い上げ織りなし

きぃあら、きぃあらと

きょうはこちらかと思へば

明日は別の谷間にと色を鏤めに

谷筋に己が着物の裾模様を映し出してゆく

機織伝説は清水部落にひそやかに語り継がれ

それはいまでもまことしやかに


あけびが紫色に呑んびりと

娘が所在なげに

父と娘を背丈を超すほどの薄の叢のなかに残し

わたしも妻も滑滝を下りて薄の穂の径に歩み入れば

清水部落に伝説はまことしやかに語られ

ただ、これは自分の運命を超えるものだと

秋の出水がこれほどまでのものだと

滑滝に鎖はぶっつりと千切り飛ばされ

とほくに熊鈴がなるのを耳にし、いぶかしみ

山を下りて来た


右に左に山の斜面を頂嶺を目指し駆け上がってゆくものがある

巻機山の登山道の入口の栗の木の下に立って

振りかえり振りかえり

あの巻機の天辺の紅葉の色々を見れば

薄の叢の中の父と娘のことはすっかり忘れ

さうだ、人はさまざまに死んでいいのだと

つくづくとさう思った


倉石智證