欧州は1992年に「マーストリヒト」に行きつく。
長い道のりであった。
欧州統合の理念とは「主権の共有」である
=個々の国が自己主張をするのではなく、
お互いに国境を低くして共通の利益を追い求める。
■第1次大戦
・戦闘員の戦死者は900万人、
・非戦闘員の死者は1,000万人、
・負傷者は2,200万人と推定されている。
■第2次大戦・戦争は完全な総力戦となり、
(以下web)
主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入が行われた。
世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主
要参戦国の戦費は
アメリカの3410億ドルを筆頭に、
ドイツ2720億ドル、
ソ連1920億ドル、
イギリス1200億ドル、
イタリア940億ドル、
日本560億ドルなど、
総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
■死者軍人1700万人民間人3300万人(諸説あり)・・・
軍人だけでなく約3000万人(ユダヤ人600万人)の一般市民が命を落とした。
第2次大戦後、ケルン市長から西独首相になったアデナウワーは
「ドイツの首相はよきドイツ人であると同時によきヨーロッパ人でなければならない」
と語っている。
ザールやルール地方の石炭や鉄鋼などの戦争物質に対しての
産業統合を目的とした共同体の設立(「シューマン仏外相宣言)を
5カ国による署名(1951パリ条約(ECSC))。
欧州諸共同体(EC=European Communities )とは、
同一の機構で運営されてきたヨーロッパの3つの共同体である
欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、
欧州経済共同体、
欧州原子力共同体の総称。
3つの共同体は1967年から運営機関が同一のものなった。
世界理性とは目の前の対処ではなく、世界はどうあるべきかの姿を模索する。
「明日の欧州の姿はだれにもわからない。変化から生じる変化は予言できないからだ」
と欧州統合の父ジャン・モネは述べている。
人類も世界の諸相もその本質は「ゆく川の流れ」そのものである。
かつ消え、かつ現れて、しかも元の水にあらざる。
ECSCに始まり、EC(1967)を経て、
思いがけない冷戦の終結がマーストリヒトに行きつく(1992)。
ドイツは冷戦の終結により悲願のドイツ統一を果たした。
ただ、他の欧州にとって強大なドイツの復活には警戒心が高まった。
ドイツは自国のマルク(信用)を欧州に差し出す。
ミッテラン仏大統領の要求を入れて、
コール独首相は「ドイツの欧州」ではなく「欧州のドイツ」の道を選択する。
その証しが欧州単一通貨ユーロの創設だった。
マーストリヒト条約は欧州連合の創設を定めた条約。
1991年 12月9日、欧州諸共同体加盟国間での協議がまとまり、
1992年2月7日調印、
1993年 11月1日にドロール委員会の下で発効した。
協議は
・通貨統合(単一通貨ユーロ)と
・政治統合(共通外交、安全保障や司法)の分野 について。
■銀行間取引など非現金取引を対象 に、単一通貨ユーロは
1999年1月1日から導入された。
2002年1 月よりユーロ貨幣の流通開始.。
ユーロはそもそもの始原から
「戦争か平和か」とい国際政治通貨の世界理性の側面を持つ。
冷戦終結→独統一→(警戒)→通貨統合へ→
ドイツなどの冷戦の配当とギリシャなどの花見酒(ファイナンス)
→ソブリンリスクへ
■経常収支の不均衡(方や配当・方や調達)が位置エネルギーのアンバランスを生み
分不相応な「貸し込み」と「借り入れ」を引き起こし、
ゆく川の流れは奔流となり激流となった。
ただ1992年のマーストリヒトのこの時点でも、
特に行政に関わる人たちは
この世界潮流が、どういうダイナミックを生んでゆくかを想像だにしていない。
例によって内政ばかりに籠っていた。
1986年ころから遡ってみる。
打ち上げからわずか73秒後の惨事。
「チャレンジャー号」が観衆の目の前で爆発、
米国民が誇るシャトルの安全神話が打ち砕かれた。
それまで順調に飛行回数を重ね「宇宙の定期便」とすら呼ばれた。
85年には9回の打ち上げに成功した。
飛行士7人の犠牲は、米国内では「ケネディ暗殺以来の悲劇」となった。
レーガン米大統領は
「乗組員は我々を未来へ導こうとしていた。我々はそのあとを追い続けていく」
と宇宙開発の継続を強調したが。
1986チェリノブイリの悲惨な事故はソビエトの解体を導いた。
1986,4,1
女性の働く機会を広げ能力を生かすための男女雇用機会均等法が施行された。
これを機に幹部候補生に女性を採用する企業が増え、
社会参加や地位向上が進む契機になった=写真は当時の入社式。
国際的に性差別撤廃の機運が高まり、日本も対応を迫られていた。
国連は79年の総会で女子差別撤廃条約を採択。
日本も同条約を批准するため、国内法整備の一環で均等法をつくった。
さてこの同じ年に「第3号被保険者制度」───
専業主婦は現在、年金保険料を直接納付していないが、
サラリーマンの夫が年金保険料を負担していれば、定額の老齢基礎年金を受け取れる。
1986年度から始まったこの取り扱い(第3号被保険者制度)は、
女性の年金権が確立されたとして、当時高く評価された。
だがこの制度は、負担に応じて給付を受けるという社会保険原則に反するとして、
共働きの妻や独身女性からの批判が今日、強い。
ドイツやフランスにはこうした制度はない。
(年金シニアプラン総合研究機構研究主幹 高山憲之11,10/12日経)
■遺族年金は曾老齢厚生年金額の=75%
■社会保険原則を貫徹する単純な方法は完全個人単位化。
対して離婚時の年金分割を2004年に定めた。
1986スーザン・ストレンジ「カジノ資本主義」とは、
貨幣と金融の世界がグローバルに展開するなかで、
”偶然”に左右される経済社会が化け物のように膨らんで、
実体経済のコンティンジェントな不安定を次々に拡大させていった状況を
カジノに譬えたもの、
まるで全員がサイコロの目に誘導されるかのような情勢を揶揄したものだ。
その後は国際経済界の悲しい常套語になった。
1986年(昭61年)3月、村井勉会長に、
住友銀行から4人目の樋口廣太郎社長に就任。
プロゴルファーの尾崎将司、青木功のご両人が
青い海を背景に白いタキシードで缶ビールを手にしているCMが一時、人気を博した。
「コクキレビール」(社長の村井勉さんのもとで本社のスタッフが議論を尽くして開発した商品)。
飲みやすさが好評のコクキレはヒットし、浮上の手応えを感じる。
だがこれとほぼ並行して開発したビールの商品化を樋口さんが指示していたことを知る。
コードネームはFX。
食生活の変遷や消費者調査で
ビールの嗜好がすっきりしたものに変わっていることに対応したビールだった。
発売の是非について議論が続く。
初めてFXを飲んだとき、「うまい。これは売れる」と思った。
だがコクキレの勢いは2、3年続くと考えていたので、時期尚早と思っていた。
86年の全国シェアは10%台に回復。
どん底を打った。
「この勢いを次のロケットにつなげよう」。
樋口さんが商品化にゴーサインを出す。
自分が手掛けたビールを発売したかったのだと思う。
それが空前の大ヒットとなる「スーパードライ」だったのだ。
1987年2月23日、
岐阜県飛騨市(当時は神岡町)の研究施設「カミオカンデ」で、
東京大学の研究チームは超新星爆発で発生した素粒子「ニュートリノ」を世界で初めて観測した。
研究を主導した小柴昌俊氏は2002年にノーベル物理学賞を受賞した。
カミオカンデは神岡鉱山の地下1000メートルに設置された。
高純度水3000トン入りの観測器を使い、素粒子の観測・研究を始めた。
質量がゼロに近く何でもすり抜けるニュートリノも、
水を通る時に光を発生させることがある。
16万光年離れた大マゼラン星雲の超新星爆発で大量に発生し、
地球まで飛んできたニュートリノを観測。
爆発時の様子を探る手がかりとなった。
1987,3,17にスーパードライは発売された。
すぐに、「すっきりした味が何杯でも飲める」と評判になる。
イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊さんから発売直後にお電話をいただいたのを鮮明に覚えている。
「最高の素材を使え、金はいくらでも出す」。
銀行マンらしく資金調達にもたけ設備投資も大胆だった。
発売3年目の89年にはドライ戦争に勝って全国シェアが24%強に跳ね上がる。
瀬戸雄三、樋口さん(中)、村井さん(右)と11,5,21
国鉄民営化1983~1987
そうした高い政策理念は中曽根内閣に引き継がれた。
中曽根内閣は、
1983年に国鉄を分割・民営化する方針を打ち出し、
最も激しい攻防戦となった闘いは、国鉄分割・民営化10万人首切り反対闘争であった。
1985年11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして
首都圏ほかの国電を1日麻痺状態に置いたが、
中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、
逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった。
明治の気骨。
この後日本はバブル崩壊を経てガタガタになってゆく。
日本国有鉄道(国鉄)をJRとして6つの地域別の旅客鉄道会社と
1つの貨物鉄道会社などに分割し民営化するものである。
これらの会社は
1987年4月1日に発足した。
87年に竹下登首相が就任した時、
竹下派には小沢一郎、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六の各氏らが控えていた。
91年に宮沢喜一首相が政権を率いた時も、
宮沢派では河野洋平、加藤紘一両氏らが後継の座を競っていた。
1987日本水産・垣添直也48歳ころ
冷食のスナック化、レンジ調理や自然解凍への方向性。
時代の変わるタイミングだった。
辛子めんたいこ向けタラコの冷凍加工・販売を事業化したり、
スーパーとの直接取引を本格化するなど水産営業の一線で活躍。
87年、再び上司の岸本氏の登用で冷凍食品担当の部長に就くと、
またしても「こんなド素人を部長にして」との批判が待ち受けていた。
ある有力な冷食卸の方から面と向かって「おたく何考えてんねん」と言われ、
「ド素人が何をするか見ていなさいよ」と返しました。
過去数年のデータを集め、
生活シーンと調理方法の2つの軸で冷食の変遷を調べて今後の見通しを立てた。
すると冷食のスナック化、レンジ調理や自然解凍への方向性が見えました。
他社に先駆け、自然解凍で食べられる「大学いも」を商品化。
「ちゃんぽん」や「焼きおにぎり」というロングセラーを育てた分析予測は、
いつしか業界内で「垣添シート」と呼ばれるほど評判となった。
1987年9月から12月末までの間イエール大学で講義。
提供された教職員用の立派な寄宿舎。
30人の学生に対して4人の教授が、最初にどんな授業を行うか方針を発表する。
どの授業を受けるかは、学生が決める。
私の場合、日本から来たという物珍しさもあって多くの希望者が集まったが、
あまり集まらなかった教授が「4~5人分けてくれないか」と言う。
学生だけでなく教える方もすさまじい競争社会に身を置かなければならない。
その緊張感はただごとではなかった。
スタジオとよばれる製図室は昼夜の区別なく学生が使っている。
授業は夜遅くまで続いた。
教授も学生もみな、朝から晩まで建築のことを考えていた
。外国からの留学生も多く、国籍の違う若者たちが時にぶつかり合いながら語り合う。
まさしく国際交流そのものであり、新鮮な体験だった。
それぞれ生き方も建築に対する考え方もまるで違うが、
目標がひとつであれば、言葉の壁すらなくなった。
(安藤忠雄11,3,23「私の履歴書」)
1987秋、ブラックマンデー
プラザ合意後の米国の再三の圧力に嫌気がさした西独は
次第に米国主導の協調から距離を置くようになる。
米独の金融政策を巡る対立が表面化した87年秋には、
それが一因となって株価暴落(ブラックマンデー)が起った。
1987,11月竹下登内閣(1987年( 昭和62年)11/6日~1988年(昭和63年)12/27日)───
大平正芳内閣の「一般消費税」と中曽根康弘内閣の「売上税」。
構想が頓挫した2つの内閣でいずれも蔵相だったのが竹下登。
1987年に首相に就任した竹下氏は「10年がかりで3度目の正直」と消費税導入を掲げた。
自民党幹事長に第2派閥の長で盟友の安倍晋太郎氏を起用。
社会、公明、民社3党に人脈を持つ首相や官房副長官だった小沢一郎氏も野党対策に動いた。
■幹事長・安倍晋太郎
■官房長官・小渕恵三
■副官房長官・小沢一郎
■国対委員長・渡部恒三
■政調会長・渡辺美智雄
■衆院税制問題等調査特別委員会・金丸信
理事に竹下派は羽田(孜氏)、中曽根派の藤波孝生、河本派の海部俊樹
1987,12,8中距離核戦力全廃条約は
当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンと
ソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによって
条約は1988年5月27日にアメリカ合衆国上院により批准されて、
その年の6月1日に発効した。
1988,6(室伏稔・朱鎔基)
伊藤忠アメリカの訪中ミッションを組成し、
私が団長となって北京、上海、大連などを訪問した。
上海では当時、まだ上海市長だった朱鎔基氏(後に首相)と会談、
後に本社社長になってから上海を再訪した際に、
その時の話通りに浦東開発が進んでいたことに
中国政府の計画実行力の高さを痛感した。
上海で朱鎔基市長(当時)と会談する筆者(左)
後に江沢民の片腕になって中国の行政の近代化に辣腕をふるう。
1988,6,20
日本が牛肉とオレンジの輸入を自由化することで日米両政府が合意した。
それまでは米国からの輸入量に上限を設けていたが、
91年4月に撤廃。
安い米国産を店頭で見かける機会が増えた
(写真は91年、東京都内のスーパーが開いた自由化記念セール)。
米国側の狙いは、対日貿易赤字を農産物の輸出で穴埋めすること。
日本は国内農業を守るため反対し続けていたが、
米国が関税貿易一般協定(ガット)に提訴したため、やむなく受け入れた。
1988「米メジャー球団のテキサス・レンジャーズを買う気はないか」――。
仰天のオファーが飛び込んできたのは1988年末。
ちょうど父が2度目の大統領選に成功し、ホワイトハウスの主になろうとしている頃だった。
当時、私とローラは首都ワシントンDCに生活の拠点を構えていた。
父の選挙参謀の誘いに乗って、88年の大統領選で陣頭指揮を執っていたのである。
レンジャーズのダッグアウトで家族と。
1988アンパンマンの声を誰にするか。
1988年にテレビアニメ化されることが決まり、僕のもとに5本のテープが届いた。
「イメージに合うものを選んでください」と日本テレビ側は言う。
その中に鋭角的だけど、とてもハキハキとした声があった。
「彼女にしよう」。
声優は戸田恵子になった。
リクルート事件の勃発していた。
何しろ世の中はバブルだ。
与党も野党も“いけいけどんどん”の世の中の勢いも借りて。
公明党と民社党は大規模な所得減税を打ち出していた。
国会対策委員長の渡部恒三が動く。
――自民党内の反応はどうでしたか。
「党の幹部会で政調会長だった渡辺美智雄さんに
『国対委員長が1兆円減税を勝手に決める権限がどこにあるんだ』と暴れられた。
すると、後ろに座っていた国対筆頭副委員長の小泉純一郎が
『国対委員長は全権大使だ。
このくらいのことを任せられずに歴史的な大法案が通るはずがない』
と筋の通った意見を言ってくれた。
小泉にも減税の件は相談していなかったが、小泉は本気でおれをかばってくれた。
会合の後で『いやあ正論を言ってくれたなあ。
君は首相になる』と言ったんだけど本当になっちゃったな」
(渡部恒三11,10,20日経)
――リクルート事件発覚で野党の対応が厳しくなりました。
「今の政治だったらリクルートの問題でもう駄目だろう。
税制改革法案が通る寸前まで行っていても発覚した段階でなくなっていただろうな」
――衆院特別委は強行採決でした。
「絶対にそういうことをしないのが金丸さんだったのに、おれもつらかった。
衆院本会議でも民社党が審議拒否になりそうになったが、
常任顧問だった春日一幸さんが『審議に参加すべきだ』と頑張って、
出席することになったようだ。
想像だけど金丸さんとの友情だと思うんだ。昔の人は偉かったなあ」
(渡部恒三11,10,20日経)
関連法案を扱う88年の臨時国会は
・減税先行処理や
・リクルート問題の影響で混乱した。
自民党は関係者の
・証人喚問などを条件に公明、民社両党を取り込み、
衆院通過にこぎ着けた。
参院本会議の採決は社会党などの牛歩戦術で上程から25時間という「徹夜国会」の末、
1988,12月24日に成立した。
3カ月後の89年4月1日、税率3%で施行。
竹下首相は同日、大平元首相の墓前で「感無量です」と報告した。
1989,7,16、大賀典雄(私は)カラヤン邸の2階のベッドルームで
2人で話をしていると、医者が来ていると執事が言ってきたが、
カラヤンは「いまここに、中国の皇帝がきても入れないでくれ」と語ったのだった。
それが突然頭をカクンと垂れ、そのまま帰らぬ人となった。
心臓発作だった。
この年は年初からたくさんの方が亡くなった。
昭和天皇、美空ひばり、松下幸之助、手塚治・・・
みんな帰らぬ昭和の人たちとなった。
1989,7月の参院選で「土井ブーム」が起き、
参院で過半数を割った自民党宇野宗佑は
「明鏡止水」などとわけの分からない言葉を嘯いて辞任、
海部俊樹へ首相の座を譲った。
1989西岡武夫
「1989年に竹下(登)さんが退陣し、
後任の宇野(宗佑)さんもすぐにダメになると、
竹下さんは後任を誰にするか困ってしまった。
私は両方の内閣で文相を務めていたので、
竹下さんに『海部さんじゃダメですか』と言ったんですよ」
「海部さんを九段宿舎の私の部屋に呼んで話をしました。
当時はリクルート事件が問題になっていたので、
海部さんに『リクルート株、持ってるんじゃないの』と聞いたら
『持っている』と言うんです。
『それは正直に言えばいいんじゃないか』となって、
もう1回竹下さんのところに行った。
『私が責任持ちますから大丈夫です』と言うと、
竹下さんは『じゃあ、それでいこう』となったんです」
(参院議長 西岡武夫11,4/14日経)
■まったくなぁ。ひどい人たちばかりだ。
海部俊樹内閣(1989,8月-91,11月)は、
実際は最大派閥の竹下派の「かいらい」に過ぎなかった。
派閥の会長は金丸信、幹事長は小沢一郎。
「小沢・海部内閣」でもあった。
91,10月、海部は伝家の宝刀“解散”をちらつかせたが竹下派は海部を見限る。
金丸信は宮澤喜一支持を表明、事実上自民党総裁に決定。
90年代政治改革の根本理念とは何か。
自民党「政治改革大綱」(89年)は次のように述べている。
「これまでわれわれは、政治倫理は
第一義的には、個人の自覚によるべきであるとの信念から、
自らをきびしく律する姿勢の徹底をはかってきたが、
多額の政治資金の調達をしいられる政治のしくみ、
とくに選挙制度のまえには自己規制だけでは十分でないことを痛感した。
したがってわれわれは、諸問題のおおくが
現行中選挙区制度の弊害に起因しているとの観点から、
これを抜本的に見直すこととする」(谷口将紀11,6/15日経)
1989ロンドンで友人と並んでほほ笑むサリンジャー氏(右)=AP
小説「ライ麦畑でつかまえて」で世界的に知られ、
昨年1月に91歳で死去した米作家J・D・サリンジャー氏が友人に宛てた
未公開の書簡が新たに見つかり、
バス旅行に参加して他のツアー客と会話を楽しんだり、
劇場に行ったりする社交的な一面が明らかになった。
1953年ごろ、米東部の田舎町に転居。
作品を公表しなくなり、気難しい人とのイメージが定着していたものだが。
1989年に(三重野康日銀)総裁になった時に毀誉褒貶は捨てると決心した。
国内ではあまり褒められなかったが、
海外、特に中央銀行の仲間とはごく親密に。
ドイツ連邦銀行のペール総裁とは、金利政策の内輪話を。
議論が間延び気味になったある国際会議。
親しい某国の中銀総裁も、反対側で退屈そうに何かを描いている。
私はのらくろの絵をぱっと見せ、すぐ伏せた。
彼も幾何模様の作品をぱっと見せた。
「のらくろ」は一躍国際化した。
ついでにこの後───
91,7月、三重野日銀総裁。
公定歩合=6%の引き下➘げ開始した。
日銀の金融緩和のペースが遅いと自民党幹部が批判、政策決定に混乱をきたした。
→95年央にようやく=0.5%に。
マエストロ・グリーンスパンの2001年後からの立て続け13回のの引き下げを見よ。
1989文字通り、寝ずに。
民間は命をすり減らして頑張っている、つうのに・・・
周囲は心配
「俺はちゃんと寝てる。月曜と火曜が朝、金曜までが昼。土曜が夕方で日曜が夜だ」。
実際、日曜は布団に入りっぱなし。
子供たちは友達との登校時、フラフラで朝帰りのヒゲオヤジに
「おはよう」と声をかけられるのが恥ずかしかった。
部下も大変。
残業続きで離婚の危機という部下がいれば、奥さんに電話して
風呂で眠る上田準二氏。
■伊藤忠商事からファミリーマート代表に。
1989富士重工業の森郁夫社長(63)は
1988年末に米国インディアナ州に赴任する。
同社初の海外工場立ち上げが使命だった。
1989に「レガシィ」の生産を開始。
だが富士重51%、いすゞ自動車49%の共同出資だった工場運営は暗礁に乗り上げる。
当初はいすゞの「ロデオ」がヒットし、当社のレガシィは売れ行きが今ひとつでした。
それでも出資分の利益が求められる。
いすゞ自動車との共同出資会社では、様々な壁にぶつかった
(右から2人目が森郁夫)
1989~「総量規制」橋本龍太郎蔵相───
(89-90年)橋本龍太郎蔵相は「バブル退治」とて急激な金融引き締めを実行。
融資は不良債権となり、銀行を押しつぶした。
■菅直人の急激な原発の方向転換と同じ原理。
ものごとにはスロウに関わらなければならないクエスチョンもあるのだ。
1990,4月末(室伏稔)
連休に突入しようとしていたある日、米倉功社長から呼び出しの電話がかかってきた。
業務・海外グループ担当役員として、社長からの呼び出しは毎日のようにあり、
いつものように21階の社長室へ入ると、開口一番、
「おい、今度やってもらうから頼むぞ」。
私に次期社長を託したい、という話だった。
5,10臨時取締役会で決まる。
1990,8室伏稔・
タイムワーナーの幹部らと(筆者は左から2人目)
1990,10,3
東ドイツが西ドイツに編入され、統一ドイツが誕生した=
第2次世界大戦の戦勝国によって東西に分断されてから41年後、
再び1つの国に戻った。
ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(当時)が打ち出した
民主・改革路線が東欧にも広がり、
89年11月に東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊。
国民の悲願だった統合はわずか11カ月後に実現した。
















