1991年

冷戦は終了し、世界はグローバル化と新たなグレート・ゲームの時代に突入していった。

第2次大戦後、米国が市場経済圏の盟主となり、

その中で日本とドイツが経済強国として立ち上がった。

その後、冷戦の経済的負担に耐えられなくなったソ連が崩壊(1991年)する。

ソ連の崩壊とほとんど同時に、天安門事件で国際的な信用を失っていた中国が、

鄧小平の「南巡」1992(南部沿海地域の視察)以降、

本格的な市場経済化に向けて走り出した。

こうして世界は一気にグローバル化し、新たなグレート・ゲームの時代に入った。

その主役が、再び世界の強国として姿を現した中国であり、

それに続く新興国である。

しかし、まさに時を同じくして日本経済が、活力を大きく低下させた。


1991年、美智子妃皇后の御歌である。

めしひつつ住む人多きこの園に風運びこよ木の香花の香1991年に、

東京・東村山市のハンセン病患者療養施設を訪れた際の御歌である。

母の母なる母性の周りにふくよかな風が吹く。


1991年4月に輸入が自由化された牛肉とオレンジ───

自由化は農業を弱らせるのか。

1991年4月に輸入が自由化された牛肉とオレンジはいま――。

高級黒毛和牛の一つ、兵庫県の但馬牛。

(10,8/26日経)

輸入牛肉に対抗するには高品質の和牛しかないとみて、

全国の産地が改良用に但馬牛を買い付け、霜降りの和牛生産につなげた。

91年に22.1万戸あった肉牛生産農家は10年に7.4万戸に減った。

一方、1戸当たりの平均飼育頭数は12.7頭から38.9頭に。

単純計算で頭数は増え、規模の拡大で生産効率が高まった。


1988,6,20日本が牛肉とオレンジの輸入を自由化することで日米両政府が合意した。

それまでは米国からの輸入量に上限を設けていたが、

91年4月に撤廃。

安い米国産を店頭で見かける機会が増えた

(写真は91年、東京都内のスーパーが開いた自由化記念セール)

米国側の狙いは、対日貿易赤字を農産物の輸出で穴埋めすること。

日本は国内農業を守るため反対し続けていたが、

米国が関税貿易一般協定(ガット)に提訴したため、やむなく受け入れた。


(安野光雄11/31日経)

2月に執筆した「私の履歴書(25)」で、わたしは

「佐藤忠良さんが白寿(99歳)を控えて健在である」

と書き始め、1回分まるまる佐藤さんのことを書いた。

まさか1カ月余り後に、追悼の文を書くことになるとは・・・。


バイカル湖のほとりのイルクーツクで、佐藤さんと2人でスケッチをしたことがある。

旧ソ連崩壊直後のことで、ロシアのテレビ局が取材に来て、

「シベリア抑留時代はさぞつらかったことでしょう」と聞いた。

彼は軽く笑って

「彫刻家になるための労苦を思えば、あんなものは何でもありません」と答えた。

佐藤さんには抑留当時の風景を思って描いた作品があるが、

わたしはそれを見るたびに佐藤さんのことばを思いだす。

抑留を解かれて日本に帰る日、

彼はパリが地続きであることを痛切に思いだしたという。


ドイツ統合「復興連帯税」

(森信茂樹11,4/12日経)

筆者は、負担余力のある国民が連帯して税負担増を受け入れるという観点から、

所得税・法人税に臨時的な負担を求めることが最も適していると考える。

その観点からは東西ドイツ統合の際の「連帯税」が好例となる。

1990年の東西ドイツ統合は国民的悲願であった。

当時のコール首相は

「統合に必要な資金はドイツが自前で調達する」

との考えを繰り返し表明、

歳出削減と「連帯税」の91年7月からの創設により、

旧東ドイツ地区の経済復興資金を調達したのである。


具体的には、所得税・法人税の体系はそのままにしつつ、

所得税・法人税率に7.5%の付加税を課すという方法をとった。

つまり、20%の平均所得税率の納税者は、

20%×0・075=1・5%だけ負担が増加することになる。

事業を個人形態で行う者と法人形態で行う者との公平性の観点も重要で、

双方で同じ負担増を求めるには、この方法が適している。


■最大限の歳出削減と、負担余力のある納税者に対しての負担増と、

経済的困窮者への減税がセットで行われた。

注目すべきは、消費税には付加税が課せられなかったことである。

消費税は、旧東ドイツ国民にも負担増となるうえ、

低所得層により大きな負担となる逆進性への懸念があったためであろう。

他方で、旧東ドイツ国民には、

91年度改正で、所得税減税を税額控除で行うことが決定された

(独身者年600マルク、夫婦年1200マルク)。


個人が納める所得税額に一律の税率を掛けて課税する仕組み。

例えば所得税の納税額が年10万円の人は10%の定率増税ならば年1万円の負担増となる。

制度設計が簡単で、被災者の課税を免除するなどの手続きがしやすい利点がある。

同様の措置として、湾岸戦争(1991,1,17,午前3)時に1年限りで導入した

法人臨時特別税がある。

同税は法人税額から年300万円を引いた額について税率2.5%を課税した。

ドイツが東西統合の際に復興財源を調達するために導入した連帯付加税は所得税と法人税を増税。

このため東北大震災復興税として法人税にも「定率増税」を導入すべきだとの声が上がる。


旧ソ連末期にペレストロイカ(改革)を進め、

東西冷戦を終結に導いた立役者の一人、ゴルバチョフ元ソ連大統領が

3月2日に80歳の誕生日を迎えた。

ロシアのメドベージェフ大統領は

「非常に困難で劇的な時期に国を指導した」

と功績をたたえ最高位の国家勲章を授与した。

だが、ロシア国内ではソ連を崩壊させ、経済・社会の混乱を招いたとして厳しい視線もあるという。

そのゴルバチョフ氏の誕生日を盛大に祝う

慈善コンサート「ゴルビー80」がロンドンで30日に開かれる。

メージャー元英首相、ペレス・イスラエル大統領、

シュワルツェネッガー前カリフォルニア州知事、女優のカトリーヌ・ドヌーブ氏など

世界の著名人が来賓に名を連ねる。

旧西側では冷戦を終わらせたヒーローとしてゴルビー人気は健在だ。

(11,3/24日経)


今年はソ連崩壊20周年でもある。

1991年夏の守旧派の共産党幹部によるクーデター失敗後に求心力を失ったゴルバチョフ氏は、

同年12月25日に大統領を辞任、69年続いたソ連は消滅した。

「私はペレストロイカのある時期に自信過剰になった。

自ら過ちを認めることは難しい。

私は傲慢になりそのことで罰せられた」。

ゴルバチョフ氏は最近の英インディペンデント紙とのインタビューで

権力を追われた背景をこう自己分析した。


1991,8,19、ソ連国営のタス通信は

ゴルバチョフ・ソ連大統領が「健康上の理由」で辞任したと報じた。

同日付で大統領代行にはヤナーエフ副大統領が就任。

ヤナーエフはソ連国内の一部地域に非常事態宣言を発令するとともに、

この後の国家運営方針を定める「国家非常事態委員会」も創設した。

■ボリス・エリツィンは

「モスクワのホワイトハウス」と呼ばれる

ロシア共和国最高会議ビル前に陣取った戦車の上に仁王立ちして、

民主化の必要性を強調。

ロシア共和国の三色旗を振る10万人の市民に迎えられたエリツィンの姿は、

時代が大きな節目を迎えていることを全世界に印象付けた。

復権から3日後の24日、ゴルバチョフは共産党書記長からの辞任を表明。

これにより、ソ連共産党はロシア革命以来、

70年余に及ぶ支配の歴史を終えたのである。

(ウィリアム・J・ペリー10,12/15「私の履歴書」)


ソ連崩壊 ロシア革命で成立したソビエト社会主義共和国連邦は、

1991年12月25日に国家消滅した。

崩壊の流れを決定的にしたのは、同年8月19日の保守派によるクーデター事件。

ゴルバチョフ大統領をクリミアの別荘に軟禁したが、

エリツィン・ロシア共和国大統領が戦車の上から抗議するなど抵抗し

21日に失敗に終わった。

の後、各共和国が次々独立を宣言、ソ連から離脱した。

ゴルバチョフ氏はクーデター計画については

「当然(事前に)知っていた」と述べ

可能性を察知していたことを明らかにした(2011,8/18日経)。

保守派クーデターは91年8月20日に予定された

新たな連邦条約調印の阻止が狙いだったとされ、

大統領が可能性を認識していたかどうかが専門家の間で議論になっていた。


1991「中朝ロ」───

図們江地域開発 

図們江(ともんこう、北朝鮮名は豆満江)流域を開発する多国間経済協力構想。

国連開発計画(UNDP)が1991年に物流・製造基地計画を発表。

琿春―羅津・先鋒―ポシェット・ザルビノを結ぶ小三角地帯と、

延吉―清津―ナホトカの大三角地帯が主対象とされた。

中朝ロに韓国、モンゴルを加えた5カ国中心(日本はオブザーバー)に

具体案を検討したが利害調整等で停滞。

北朝鮮は2009年、脱退表明。


1991インドの経済改革───

■シン首相、財務相時代の1991年に経済自由化を提唱し、インド躍進の礎を築いた

中国では1978年12月の「改革・開放」をきっかけに高成長が始まった。

一方、インドでは91年の経済改革(当時のシン財務相)が高成長のきっかけとなった。

両国ともに、改革以前には規制によって

労働や資本などの生産要素が非効率的に使用されていたが、

改革によりこれを効率的に活用するようになったことが、経済成長につながった。

特に、外資規制の緩和、さらに外資優遇策が外資流入を促し経済成長に貢献した。


インドが「社会主義」を脱して自由化路線に踏み切ったのは1991年。

結果的に高成長の道を開いた政策転換だったが、

背景には外貨準備が底をつくという危機があった。

20年前に比べればインド経済は目を見張る変化を遂げており、

新たな構造改革が必要だという切迫感はない。

20年前は蔵相として自由化を主導したシン首相の指導力が、今こそ問われている。

(11,7/28日経)


1991「台中」───

台湾当局が1991年、中国への間接投資を解禁したことで本格化した中台の経済交流。

「当時は人件費が台湾の10分の1だった」

福建省アモイに進出した電子部品メーカー、傑宏(アモイ)電子の許政郎董事長は振り返る。

台湾の労働集約型工場が福建省や広東省に次々に移転し、

中国が「世界の工場」へと成長するきっかけとなった。

その光景が今、重慶や四川省成都など中国内陸部で広がる。

沿海部の労働コスト上昇で、より人件費の安い内陸部への移転が加速する。

台湾企業は沿海部では、中国政府が望む産業高度化の期待に応えようとする。

(11,10/9日経)

■間接投資というのは、基本的には金融商品への投資のこと。

例えば、外貨による 預金や、海外の株や債券の売買などが該当

■直接投資は、経営参加や技術提携などを目的に海外の企業に投資、M&Aなど。


1991「危機・アルゼンチン」───

2002年初めに1ドル=1ペソという事実上の固定相場制を放棄したアルゼンチンのケースだ。

変動制への移行に先行、01年末には、公的債務のデフォルトも宣言した。

1980年代まで続いたハイパーインフレを収めるため、

91年にドルとの固定制を採用したが、実力以上の通貨高に同国経済は行き詰まった。

変動相場制への移行説がくすぶるなか、政府は何カ月も踏ん切りがつかなかった。

長年の固定制のなかで政府や企業、個人とも借り入れはほとんどドル建てとなり

通貨が下がった際に返済に苦しむのは目に見えていたからだ。

移行に際して、個人については10万ドルまで旧レート(1ドル=1ペソ)でのペソへの転換を認めたが、

その負担を銀行がかぶらされた。

変動制に移行するとペソは一時、4分の1に急落。

数カ月後には取り付けが起こり、全銀行が営業停止に追い込まれた。

■ひとつは現在進行中のギリシャ危機。ユーロから離脱することによる莫大なコスト。

■ひとつは1930年の日本の購買力平価を背伸びしたままでの金本位制への復帰。

たちまち、金は国外へと流出してしまった。

いずれ円が暴落すると見た投機家は金を持ち出してドルに換える。


1991「ネット・ウエブ」───

科学者のティム・バーナーズ・リーがワールドワイドウェブ(WWW)の標準仕様を91年に発表。

その後、無数のウェブサイトが同仕様にのっとって作られる。

サイトを利用するには、閲覧ソフトが動けばいい。

一般家庭にもウェブが幅広く普及するにつれて、

閲覧ソフトを動かす端末のOSやCPUは何でも構わなくなる可能性が強まっていった。

さらに、21世紀には複数の接点で操作できる

タッチパネルの技術進化や

無線の高速化などが進行。

スマホやタブレットといった従来のパソコンとは全く違った端末で、

場所を選ばずにネットやアプリを活用することが可能になった。

(11,8/11日経)


1991、ラブさん。

「現在の抑圧的な限定から自分を解放し、自由を得るために、自らの過去を意識する」

ジョセフ・ラブ教授はアメリカ人で、カトリックの神父だった。

ファンの上級生は誰もが彼のことを先生とは呼ばず、

ラブさんづけで呼んでいたのでぼくも真似した。

彼は抽象画を描いたり写真を撮ったりするアーティストで、

ときどき銀座の画廊で個展を開いたので、見に出かけた。

ラブさんはいつからか体の自由がきかない病気になり、大学を早期退職した。

元気な頃は泳ぐのが大好きで、西伊豆の雲見の海がお気に入りだったという。

雲見は温泉が湧く美しい集落である。

1991年、その海を描いた『夜を泳ぐ』という絵本が出た。

ぼくの手元にはラブさんが震える手でサインしてくれた本がある。

もうずいぶん弱っていたのだ。

彼は翌年、62歳で亡くなった。

ラブさんには「よく対象を見なさい」

と云われたものだった。

(栩木伸明・アイルランド文学者11,8/15日経)


1991中国「韜光養晦」───

「韜光養晦、有所作為」は、

1989年の天安門事件で西側諸国の制裁を受け、

91年の旧ソ連崩壊で中国が孤立した際、

最高指導者の鄧小平氏が打ち出した外交方針だ。

摩擦を最小限にして経済発展を優先する戦略で、一定の成功を収めた。

ただ、雌伏の時を過ぎ、経済力と軍事力を急速に増すと、

自制を課す弊害を感じるようになった。

転機は2009年7月。

5年に1回、在外大使を集めた会議に胡主席ら首脳陣も出席し

「堅持韜光養晦、積極有所作為」という方針を決めた。

中国の役所文学では「堅持」より「積極」の方に重点を置く。

能力について多くは語らないが

行動に伴う摩擦はいとわないという強硬策を容認する軌道修正だった。

(11,1/12日経)


1992年

生物多様性条約 

1992年にブラジルで開かれた国連環境開発会議で採択された条約。

世界190カ国以上が締約している。

生態系を

・保全しながら、

植物や微生物といった「遺伝資源」を持続可能な方法で

・利用し、

・公平に分けることを目的にしている。

締約国会議は近年は2年に1回開いており、10月の名古屋会議が10回目。

医薬品開発に使う遺伝資源の利用法などを定める

「名古屋議定書」の採択を目指している。


1992生物多様性条約

[ Convention on Biological Diversity ]

が地球サミットを機に採択され、

94年11月に生物多様性条約第1回締約国会議をバハマで開いた。

生態系保全のための技術移転の進め方や資金調達問題などについて議論する。

日本はこの条約に基づいて生物多様性国家戦略を95年10月に策定、

2002年春には新生物多様性国家戦略を作った。

10,10月には名古屋市で第10回締約国会議(COP10)が開かれる。

■保全

■持続性

■分配


持続可能性について「生成りの文化」

安藤忠雄───

大阪万博に辣腕をふるった堺屋太一さんが総合プロデューサーとなり、

1992年にスペイン・セビリアで開かれる万博に日本が参加することになった。

複数の中から私の提案が採用となり、パビリオンの設計者に選ばれた。

日本政府の代表はソニー会長の盛田昭夫さん。

いつも新しいことを追い求めていた盛田さんは、

売り出されたばかりの携帯電話を持っていて、

スペインから日本に電話してみろと私を促す。

生まれて初めて携帯電話というものを使ってみた。

堺屋さんは「生成りの文化」をテーマにしたいと提案。

私は日本の文化を発信する基地として、

地上30メートル、木造ワンルームのパビリオンを設計した。

その中に日本建築史のなかで最も独創性に富んだ

織田信長の安土城天守閣の原寸模型を展示する計画だった。


1992鄧小平「先富論」───

1978 年、中国鄧小平主席の改革解放政策が始った。

1992年の「南巡講和」のもと

先ずは臨海部から外資を呼び込むための経済特区が作られていった。

鄧小平が1970年代末に「先富論」を旗印として、

平等よりも効率を優先させる改革開放政策を推し進めたためだ。

共産社会主義のイデオロギーをとりあえず捨ててみた。

■共産社会主義ではあり得べくもない「平等」を捨て「効率」(格差)を優先。


天安門後の92年春に鄧小平は「南巡講和」で

「改革解放は大胆に試みよ」と大号令をかけた。

同年秋の第14回共産党大会で

「社会主義市場経済」を正式に決定、市場経済化が進んだ。


1992中国「杉杉集団」───

1992年。寧波の国有服飾工場を、

工場長だった鄭永剛会長(52)が鄭学明総裁ら同僚と買い取る形で設立した杉杉集団。

「工場内の庭の杉のように真っすぐ高く伸びる願いを社名に込めた」(永剛会長)。

その願いどおり、杉杉は服飾を軸にした一大企業群を形成。

2010年の集団売上高は126億元(約1500億円)に達した。

礎を築いたのはスーツだ。

人民服から西服(スーツ)へ」。

外資導入を積極化し、中国経済が成長軌道に乗った1990年代前半に起きたファッション革命。

その波をとらえた。

一時は共産党指導部の首脳級のほとんどが杉杉スーツを着ていたとされるほどだ。

90年代半ばからは外資ブランドをライセンス展開し、

「レノマ」など20以上のブランドを抱える。

人件費や原材料費の高騰で労働集約型に厳しい環境でも、

杉杉の上場子会社の1~6月期の服飾事業の営業利益は前年同期比で22%増。

付加価値の高い外資ブランド品の展開が功を奏した。


杉杉の強みは事業投資(リチウムイオン電池材料、太陽電池……。

10年ほど前から乗り出した事業の多角化)だけでなく、

「専門家を招き、人材を育て、専業化する」(学明総裁)ことにある。

永剛会長は「実業を軸に多角化する中国式の商社モデルを作る」と意気込む。

そんな創業世代も50歳代。

次代にバトンをつなぐ時期が近づく。

学明総裁は「人で管理するのではなく、制度で管理する企業になる必要がある」と見る。

服飾品の受託生産から始まった伊藤忠との関係を資本面にまで発展させたのも、

経営の近代化を進めるため。

事実、杉杉は伊藤忠に幹部を送り込み、企業管理の手法を学びつつある。

■企業統治改革へと

「人で管理するのではなく、制度で管理する企業になる必要がある」


1992「台中92年コンセンサス」───

台湾の国民党政権と中国共産党政権が1992年、

初めて交流窓口機関を通じた対話を実現する条件として一致したことを指すが、

合意文書はない。

主権問題を玉虫色に解釈して棚上げし、実務的な協議を実現するのが狙い。

馬英九政権はその内容を

「中国大陸と台湾は不可分の領土であるとする『1つの中国』を互いに認めるが、

その内容はそれぞれが定義する」としており、

台湾側は「1つの中国」を「中華民国」、

中国側は「中華人民共和国」としている。

野党民進党は「92年コンセンサス」は存在しないという立場。


1992「中韓国交正常化」───

1992年8月24日、中国と韓国が国交を樹立した。

朝鮮戦争で北朝鮮を支援した中国と韓国は長く対立していた。

中韓の外交関係の正常化は、

両国の経済交流を急速に進める大きなきっかけとなった。

中国は改革・開放路線を推し進め、韓国からの投資拡大に期待した。

韓国企業は製造拠点、広大な市場として中国に大きな魅力を感じており、

政治の雪解けを求めた。

これを機に両国間で貿易協定や投資保証協定などが結ばれた。

米国、日本といったいわゆる西側との経済交流が中心だった韓国は中国に傾いた。

■いまでは韓国にとって中国は

輸出額、輸入額でそれぞれ2割を占める最大の貿易相手国になった。

両国間では主に中国が半導体などの電子部品を輸入、電気製品を組み立てて輸出している。

■経済連携を進めるため、中韓は自由貿易協定(FTA)の締結を計画する。

産官学の共同研究をすでに終え、なるべく早い時期の政府間交渉の開始を目指している。

(10,8/23日経)


1992「韓国海運ハブ化へ」───

日本の港の国際的な地位低下は著しい。

コンテナ取扱量では1980年に神戸港が世界4位で釜山港の2倍以上扱ったが、

08年は

・釜山港が5位で

・日本勢は東京港の24位が最高。

東京、横浜、大阪、神戸の4港を合わせても釜山港に届かないほど差が付いている。

■要因の一つは90年代初めに韓国海運各社が開いた釜山と日本の地方港を結ぶ航路だ。

釜山から家電製品などを運び、

コンテナが空になる帰りに格安料金で物資を釜山に運ぶルートを作った。

阪神大震災で神戸港がまひしたことも釜山経由を加速した。

現在、釜山航路を持つ港は50を超える。

■釜山は日本の港に比べて貨物の積み下ろしなどの使い勝手が良い上、

港湾利用料も4割安いとされる。

釜山での積み替えが定着するにつれ、

基幹航路と呼ばれるアジアと北米・欧州を結ぶ定期コンテナ船が

日本の港に立ち寄る回数は減少した。


1992スウェーデン、危機から───

90年代初頭、住宅バブル崩壊後のスウェーデンで

非ケインズ効果が実現したことは確かだが、

通貨安や金利引き下げなど好条件が整っていた。

(増税しても生活安定期待から景気が上向くという非ケインズ効果)


1992英国、ポンド危機───

ソロス氏の異名は「イングランド銀行を打ち負かした男」。

1992年には英ポンド危機を先回りした空売りで巨額の利益を上げた。

相場が実勢から離れてもうける機会と見れば、政府を敵に回そうが遠慮なく相場を張る。

原因はマルクに対して実力以上の空威張りした所為である。


当局の為替介入による自国通貨の相場維持は成功するとは限らない。

欧州ではユーロ導入前、各国通貨の変動幅を一定に抑える

事実上の固定相場制、為替相場メカニズム(ERM)を採用していた。

ジョージ・ソロス氏率いるファンドが英ポンドを売り浴びせた1992年秋、

英当局はポンド買いの市場介入で対抗したものの、

ポンド相場の維持に失敗。

ポンドはERMから離脱した。

今回はスイスフランの自国通貨売り介入であるため、金額に制限はない。

ただ、スイス国立銀が無制限の損失に耐えられるわけではなく、

投機筋との攻防を乗り越えられるかは不透明な面がある。

(11,9/7日経)

European Exchange Rate Mechanism


1992クリントン───

1992年の米大統領選挙でクリントン候補が

「経済こそがすべてだ」をスローガンに掲げたのは有名な話だ。

世界の盟主として米大統領の演説は、

まず国際的な課題を取り上げるのが通例だが、ク

リントンは翌年の就任演説も米国経済の活性化から始めた。

■巨大な財政赤字と失業に見舞われていたクリントン政権がまず取り組んだ最重要テーマは、

財政赤字削減に向けての具体的プログラムを策定することだった。

■クリントン政権は、財政赤字を放置すると、

金融市場の混乱を通じて(信用収縮)金融危機を招来し、

国民の雇用を守れなくなるという論理で議会を説得し、

増税及び歳出削減を実現させた。(一直「大機小機」10,6/5日経)

■93年、クリントン大統領は国民皆保険などを掲げて就任したが、

巨額の財政赤字が生んだ高金利に国民はいらだった。

政権維持のために財政負担を伴う公約を次々と先送りし、

96年には「大きな政府の時代は終わった」と名文句を残した。


■【貯蓄】-【投資】=【経常収支】

貯蓄と投資のバランスの問題は、

プラザ合意の時にも日本で取りざたされた。

米国人は体質的に“お買いもの上手”なのである。

その上【投資】の部門では政府は大口の資金需要者になる。

経常収支はお金の出し入れで、足りないとなればどこかからファイナンスしてもらうしかない。

幸い米国は基軸なので、自分で輪転機を回し続ければいいのだが、

そうこうしているうちにドルはどんどん安くなっていって、

世界に迷惑をかけることになったのだ。


It’s the economy,stupid(問題は経済なんですよ、分かってませんね)

1992年の米大統領選で、民主党のクリントン候補は

父ブッシュ大統領をこんな言葉で攻撃した。

一般には有利とされる現職に対して、若い挑戦者が経済失政の責任を追及した。

クリントン候補の鮮やかな勝利もあり、

この言葉は欧米の政局が動きそうな場面で、メディアにくり返し登場するようになった。

■(国債)政府が疑われる時、市場はいっせいにリスク回避になびく。

(編集委員 小平龍四郎11,8/23日経)

国債とは=政府そのものである。

国債とは=経常収支でもある。

経常収支とは=産業構造である「稼ぐ力」である。

経常収支の規模が→日本では国債におきかえられている。

It’s the economyであり、

成長こそが危機からの脱出を可能にしてくれるのである。

一方、「分配」とは政府の資金需要であり(大きな政府)、

リスクを伴わない資本性のないマネーが、ただ一方向に費消されていってしまうことを意味する。


1992年7月20日、

大蔵省(現財務省)に「証券取引等監視委員会」が発足した。

同省証券局から証券取引などに関する監視や調査の権限を引き継いだ。

現在は金融庁に属する。

市場の公正さを損なう行為について強制調査や、

刑事訴追を求める検察庁への告発も可能だ。

警察と連携して調べることもある。

当時はバブル経済の崩壊直後で、

大手証券会社による損失補てんをはじめ市場に関連する不祥事が相次いでいた。

同委の職員は発足当初の3倍を超える約700人で、

IT(情報技術)や法律に詳しい人材も増えた。

だが不正は後を絶たず、最近もインサイダー取引を巡り、

同委が経済産業省職員を取り調べた。

(11,7/18日経)


「損失補てん」

証券や債券の売買で損をした得意先に 対し,証券会社が事後に穴埋めをすること。

現金で穴埋めしたり,債券を安く売ったのち

高く買い戻して穴埋めするなどさまざまな方法で補填される。

■損失補填とは、生じた損失について穴埋めをすることをいう。

証券市場の価格形成機能を歪め証券取引の公正 と

証券市場に対する信頼を損なう反社会性の強い行為


1992、日債銀ドル資金不足───

リーマン・ショックやギリシャ危機と同様、警告は市場からだった。

「日本債券信用銀行が資金繰りでパンクする」

不良債権問題が経済をむしばみ始めた1992年8月、

日銀出身の資金仲介(短資)会社の社長の声は電話口で上ずっていた。

大手米銀バンカース・トラストが当日分のドル資金を貸すことさえ拒み、

日債銀は進退窮まっていた。

■92年4月に大蔵省が推計した主要21行の延滞債権は7兆~8兆円。

同年10月でも12兆円強で、

「株式含み益で十分に埋めきれる」というのが公式見解だった。

だが同年1月の日銀支店長会議では

「延滞債権は

金融機関本体14兆円、

ノンバンク15兆円、

=合計29兆円に達する」と報告されていた。

未収利息は90年度の金融機関の業務純益の6割強。

長信銀は業務純益の20倍、信託銀は13倍と深刻――。

「取扱注意」の印が付いた会議記録はこう記す。

■大蔵省は税金投入なしで問題を処理しようと抑えめの数字を示した。

これに対し、日銀は早い段階から問題は深刻とみて、処理を促そうとした。


日銀の集計は宮沢喜一首相の耳にも届いた。

92年8月に日経平均株価が1万4000円台に急落する局面で、

宮沢首相は東京証券取引所を一時閉鎖し、不良債権の抜本処理に乗り出そうと考えた。

宮沢首相は自民党の軽井沢セミナーで

「金融機関に対する公的援助」に言及するが、

経済団体トップ(平岩外四)から猛反発を受けた。

銀行はリストラが足りず、高給で、株式含み益もあるとの批判は根強かった。

公的資金投入の難しさを承知している

寺村信行銀行局長ら大蔵省の事務方は銀行の自助努力を強調。

株式売却の抑制などでしのごうとした。


だんだん「日本の敗戦」と同じ構図になってくる。


――日銀はどうみたのか。

「住宅金融専門会社(住専)が大きな穴をつくったことが分かり、

公的資金を早く入れる必要があるという判断になった。

宮沢喜一首相にもそうした話をしてあった。

当時は農林系金融機関の再編論議もあり、

これに絡めてカネを出すことにすれば通りやすいと説いた。

宮沢さんもそれならやろうということになり

(公的資金の活用も辞さないという1992年夏の)軽井沢での話になった。

しまったと思ったのは財界首脳らが一斉に反発した時だ。

きちんと説明しておけばよかったと」

■「その後日銀で対策をまとめ幹部に大蔵省に持っていってもらったが、先方はのめないと。

前提として見込んだ金融機関の損失が大きすぎる、

公的資金はとても無理だと。

非常に歯がゆい思いをした」

(三重野康10,9/12日経)


――不良債権問題をつくったのは80年代の資産バブル。

どう対応すべきだったのか。

「もう少し早く引き締めをやればよかった。

・消費者物価は横ばいだったが、

・通貨供給量も

・絵画も

・大工さんの手間賃も上がっていた。

そこで『乾いたまきの上に乗っている状態だ』という話をしたが、反応は鈍かった。

政府がまだ円高対応の景気対策をやっていた時期でもあった。

87年秋のブラックマンデー(株価大暴落)で世の中が暗くなりかけたことも遅れた原因だ」

「その後、大蔵省も利上げに同意したが、あくまでインフレ予防との立場。

本気でやりたい日銀と違いがあった。

タイミングの点でも上げ幅という点でも遅れてしまった」

(三重野康10,9/12日経)


みんなが責任逃れを、

太平洋戦争と同じ構図になっている。


85~90年のバブル期に銀行貸し出しは140兆円増えた。

上場企業は株式絡みの資金調達に傾斜。

銀行は建設、不動産、ノンバンクへの融資に活路を求め、

3業種向け融資は62兆円も増加した。

打ち出の小づちは不動産の高騰だった。

ノンバンクのうち、住宅融資のために設立された住宅金融専門会社(住専)は

銀行に住宅ローンを侵食され、不動産融資にのめり込んだ。

第一住宅金融の場合、92年3月期の総資産の4割強が不動産・建設向け。

「ほとんどが延滞または利息の追い貸しが必要な債権」だった。

母体行の日本長期信用銀行の鈴木恒男元頭取は回顧録

「巨大銀行の消滅」でこう述懐する。

■住専問題の一挙解決は無理とみた大蔵省は

不動産市況の回復を待つ先送りを選んだ。

だがバブル崩壊でこの手法は通用しなくなった。

銀行が不稼働資産を抱え続けることが不動産市場の重圧になり、

時を追って事態は悪化した。

(10,8/15日経)


みんなが先行者利益を求めて世界に向かってよーいドン、と飛び出しているのに、

日本は次第に内向きのことに防戦一方になってゆく。

ここに小沢一郎や、亀井静香や、あのお歴々の政治家たちを重ねてみると面白い。

ものすごい政治の責任を問われているのだ。


停滞の原因

技術「キャッチアップ済みに」、

為替「変動為替に」、

高齢化「人口オーナスに」)、

借金(財政)の原因(バブル不景気に対しての公共投資の積み増し、

90年代後半からは高齢化など社会保障費の増大)、

失われた20年のきっかけは、頭打ちになっていた非生産部門への投入。

■名目が行き悩んで生産性が止まったのは

資産部門の効率的配分や、置き換えの不十分さが祟っている。

要するにバランスシートの「左」の入れ替えや効率化の問題も。

不良資産の切り離しもせずに、ケイジアンをしてみても、

穴のあいたバケツに水を注ぎ込んでいるようなもの。


90年代の景気後退期に

すべての企業とその正規雇用を守るために、種々の政策をとった。

90年代初頭の株価と地価の下落で銀行の不良債権が急増した時、

政府は処理を先延ばしにした。

銀行は、追い貸しなどにより不良債権を少なくみせる努力を続け、

債務者に必要なリストラを迫らなかった。

その結果、正規雇用は守られたが、

本来なら市場から退出すべきなのに生き残ってしまう「ゾンビ企業」が多く作り出された。

ゾンビ企業の存在は、成熟した経済における

イノベーション(革新)と生産性上昇に不可欠な創造的破壊の機能を停止させ、

成長率を押し下げる要因となった。

問題は非製造業で特に顕著だった。

企業が国際競争にさらされないため、比較的簡単に問題企業を守れたからである。

結局2000年代に入るまで、ゾンビ企業問題は続いた。

政府が不良債権処理に本腰をいれたのは、

ようやく小泉純一郎政権になってからであった。

(星岳雄11,1/26日経)


90年代初頭、日本の財政状態は先進国中で最も健全だった。

それが現在では先進国中最悪の状態に陥っている。

悪いことに、政府の支出の多くは非生産的な公共資本に投下された。

土居丈朗慶応義塾大学教授らの研究に基づく我々の計算によると、

93年から02年の10年間に行われた公共投資のうち実に90%近くが、

90年代初頭にはすでに生産性が頭打ちになっていた部門に投入されたことになる。

結局、多額の財政出動は、長期的な成長に結びつくものではなかった。

もしこのままの財政運営が続くなら、

日本はいずれ福祉を切り捨てる(年金や医療保険の縮小)か、

高インフレに陥る(国債の時価を下げる)か、

あるいは国債の支払いを停止する(債務不履行)かの選択を迫られることになる。

(星岳雄11,1/26日経)


図を見ると、日本の趨勢成長率は2000年の前半に下げ止まったようである。

それまではイタリア並みに落ち続けていた成長率が反転し始めたかのように見える。

この時期は小泉政権の初期と大体一致する。

小泉政権は過去20年間の他の政権に比べて、改革への意欲と実行力において卓越していた。

(星岳雄 カリフォルニア大学教授 アニル・カシャップ シカゴ大学教授11,1/26日経)


「財テク」

1992伊藤忠室伏稔(当時社長)───

1990年6月に私が社長に就任してから日経平均株価は一方的に下がり続けていた。

92年ごろから鮮明になったバブル崩壊は日本経済を急激に失速させ始めた。

当然のことながら、この大きなうねりの中で、

伊藤忠の経営も直接、間接に大きな影響を受けることになった。

バブル期には金融の自由化も進み、

自らの高い信用力を利用して低い金利で借りた資金を

・「特金(特定金銭信託)」や

・「ファントラ(ファンドトラスト)」と呼ばれる投資に回す企業が増えていた。

いわゆる“財テク”である。

伊藤忠もこの種の金融商品を活用していたが、

それが完全に行きづまってしまった。


さらに伊藤忠は、海外、国内で積極的に不動産投資を続けていた。

最初は海外不動産の下落が目立っていたが、

追いかけるように国内不動産も下落を始め、

積極的に展開を推進してきた土地、不動産の投資も変調をきたし始めていた。

特金・ファントラや不動産がさらに下落し、損失が膨らむことは十分に予想できた。

本来なら一気に損失処理をしたいところだったが、財源が不足していた。

今なら税効果会計を使うことができるが、当時はその制度もなく、

利益のなかで毎期、毎期、少しずつ処理していくしかなかった。

本当に眠れない夜が続くことがあった(室伏稔11,9/23「私の履歴書」)

■室伏さんは名誉のために「私の履歴書」には記さなかったけれど、

不動産投資の張本人はあの“名参謀”瀬島隆三、だといわれている。


少し先に進むが、

みんながネグレクトしている間に日本は飛んでもないことになっていたのだ。


住専の抜本処理。

94年6月に就任した西村吉正大蔵省銀行局長は腹をくくった。

95年夏の住専への立ち入り検査では6兆4000億円の破綻債権と

1兆2000億円の破綻懸念債権があぶり出された。

世論は息をのみ、住専処理支持に傾いた。

だが95年9月発覚した大和銀行の巨額損失事件で、舞台は再び暗転した。

金融行政に国内外の批判が沸騰し、大蔵省は勢いを失った。

その間に問題は急速に政治化した。

参院の佐賀県補欠選挙で自民党は農林系の支持で辛勝したが、

住専への最大の資金の出し手である農林系金融機関に

住専処理の応分の負担を求められなくなった。

母体行や一般行の負担に限度があれば、「足らず米」が生じる。

大蔵省の大臣官房や主計局は6850億円の公的資金投入を

農林水産省や農林族との間で政治決着させた。

95年末に篠沢恭助大蔵次官が辞意を表明し、

96年初めには村山富市首相も辞めた。

■銀行ではなくノンバンクである住専に対する

経緯の分かりにくい公的資金投入に、世論は激しく反発した。

政治への不信感が高まり、

97年11月の山一証券破綻まで公的資金を口にできなくなった。

(編集委員 滝田洋一10,8/15日経)


植田和男(元日銀審議委員1999~「ゼロ金利政策」や「量的緩和政策」に関わる)

89年に出身の東大に助教授として戻り、93年に教授に就いた。

金融政策への関心が強まってきた。

バブル崩壊後の金融政策を巡って、様々な議論が交わされていた時期でした。

92年には、いわゆる「岩田・翁論争」を裁定する論文を書きました。

この論争は、岩田規久男・上智大学教授(現学習院大学教授)が、

通貨供給量の伸び率低下が日銀の金融政策に起因するものだと主張したのに対して、

日銀金融研究所の翁邦雄さん(現京都大学教授)が反論したものです。

私は日銀による通貨供給量のコントロールは中長期的には可能でも、

短期的には難しいと結論付けました。

(植田和男・東大教授11,10,19日経)


当事者感覚の欠如。

バブル崩壊が始まっているのに呑気なものだ。

供給量ではなく「不良債権」の問題であったのに・・・

板子一枚下の感覚が決定的に欠如している。


倉石智證