ベトナム戦争末期、73年1月19日の雨の夜。

ニクソン米大統領(当時)就任に際して

オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団がワシントンに招かれ、

ケネディセンターで行った記念演奏会の同時刻に、

バーンスタインはワシントン大聖堂でハイドンの「戦時のミサ」を指揮した。

バーンスタインがニューヨーク・フィルなどと録音した110曲を収録したCD60枚組・・・

会場外のスピーカーに耳を傾けた人々も含め、

1万2千人の聴衆に反戦メッセージを放ったバーンスタインの姿。

彼の晩年の録音は死の匂いというべき遅いテンポやデフォルメが目立つ・・・


本当は忘れないで欲しい。

なぜかというと米国が泥沼へと突き進むベトナム戦争で、

結局はドルのおびただしい流出と、

ドルに不信に対するイギリスなどの金交換への催促に、

米国は輪転機を回すだけでは対処できなくなっていた。

もはやドルを支えきれない・・・

1971年、ニクソンショックが起こる。

基軸通貨ドルと金との交換が一方的に停止された。


忘れないで欲しいのは“ナイン・イレブン”の後、

米国はアフガンをはじめ、

イラク戦争へと突き進んでいった。

08,9/15日にリーマン・ショックが起こり、世界を震撼させた。

そののちの世界の苦悩は71年のニクソンショックにだぶる。

要約すれば、世界の正義を振りかざし、薄々は感じているのに、

まるでむなしい夢見るドンキホーテのようにひとつの方程式に突っ込んでいく、

一人の英雄まがいの幻のような姿だったのだ。

世界はここの国家の国益も含めて、それぞれの思惑の裡に乱雑に時間をひっかきまわされ、

あたら、2001年以降の時間を空費した。

一方、アメリカから離れて距離を保っていた中国などの国家は、

世界の経済や政治的隙間を一気に埋めた。


アメリカの1973年ころからのbehavior───

1973,9/11。

同じ“ナイン・イレブン”でも、チリにおけるこれもまた歴史的「9.11」事件である。

ピノチェトによるクーデター。

冷戦の最中の1970年、

サルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)博士を指導者とする

社会主義政党の統一戦線である人民連合(Unidad Popular)は

自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。

しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部は反発し、

ホワイトハウス(CIA)に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。

そして、遂には1973年に

アウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet)将軍らの軍部がクーデターを起こした。


世界で初めて民主的な手続きで生まれた社会主義政権、

チリのアジェンデ政権は軍事クーデターで倒れた。

軍のクーデターで非業の死を遂げたチリ大統領サルバドル・アジェンデ。

大統領府を反乱軍に包囲された中での最後のラジオ演説。

空爆を受けた大統領官邸でアジェンデ大統領が

「歴史が彼ら(クーデターの首謀者たち)を裁くだろう」

と演説し自殺した。

クーデターの背後には米中央情報局(CIA)がいた。

9・11という日付に歴史の皮肉を読み取る向きは多い。

言語学者のチョムスキー氏のように「最初の9・11」の方が

「第2の9・11」より悪い影響を世界に与えたと主張する声も、米国内には存在する。

クーデターで政権を奪取したピノチェト将軍はその後、文字通りの恐怖政治を進めた。

将軍は2006年に死去したが、チリでは今も将軍の支持派と反対派の感情的な対立が消えていない。

チリのクーデターは、中南米諸国で米国への警戒感や反発が根強い一因でもある。

■このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、

労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。

軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、

1989年の国民投票により、冷戦体制とほぼ同時に崩壊した。


1973年10/6にイスラエルとアラブ諸国間との緊張が高まり、第四次中東戦争が勃発した。

第3次中東戦争の敗北に懲りたエジプトは、シリアと組んで先制攻撃を仕掛ける。

地上にはソビエト製のミサイル網を敷き、イスラエルの制空権を抑えた。

いっときはイスラエルをヨルダン川西岸の方に追い詰めたが、

米国の武器の支援により優位に立ったイスラエルは、

再び、エジプト軍をスエズ運河の西側まで追い詰める。

停戦になったが、東と西側による代理戦争には変わりはなかった。

ただ、エジプトの力を侮れないと見た米国やイスラエルは、

結局1979年、エジプト・イスラエル平和条約を米国のキャンプディビッドで結ぶことに落ち着く。


世界への迷惑は続く。

この開戦によりOAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、

原油の生産削減とイスラエルを支持するアメリカ等の非友好国への禁輸を決定。

これが日本にも影響し、OAPECからの原油輸入量は急減、

原油価格は10月から翌1974年3月までの間に4倍にもなり、

これに加えて、折からの狂乱物価と呼ばれるインフレもあって、

物資不足に対する不安から消費者が洗剤、紙製品等の買い占めに走るパニックに、

みも蓋もない国民性をさらけ出してしまった。


欧州も一気に不況になり、

米国自身もカーター大統領の任期いっぱい以降まで、

インフレで不況(スタッグフレーション)に悩まされるようになったのである。


二つの戦争はアメリカが世界に対して「大義」を振りかざす点においては同根であり、

「ニクソン・ショック」「リーマン・ショック」というそれぞれの時代における、

まったく歴史上新しいタイプのパンデミックを引き起こした点においても

非常に似ていると言わざるを得ない。


中南米諸国のおさらい(2010,12,19日経より)───

いまでこそブラジルをはじめ経済がやや安定を保っている中南米諸国だが、

過去においてはスペインをはじめ欧米諸国にいたぶられっぱなしの歴史がある。

そして、中南米の戦後の経済的、政治的混迷は、

必ず少なからず米国の影が、とくにCIAの執拗な跳梁抜きにしては語れないはずだ。

多くの人たちがジャングルで無意味に死に、死はどこへともなく蒸発した。

■メキシコでは石油生産減に歯止めをかけようと、

政府が民間資金や外資を活用した石油公社改革に意欲を示すが、野党の反対で進まない。

アメリカに隣接するメキシコは通貨、経済、政治において常にアメリカの影響を受け続け、

1970年代以降も数度にわたる通貨ショックに見舞われることに。


■アルゼンチン

アルゼンチン・フェルナンデス大統領らが年金基金の国有化など

統制的な経済政策を志向してきたアルゼンチン。

01年の債務不履行以降はおおむね高い経済成長率を達成してきたが、

インフレ率は高止まり。

年率10%程度という政府発表を信じる向きは少なく、

民間研究機関などは実態が20~30%とみている。


■チリ

今年就任したピニェラ大統領が先進国入りを目標に掲げるチリ、高成長が目立つペルーは

開放的な経済政策を続けている。

外資を活用した資源開発や通信、小売業などへの投資が好調の要因だ。


■ブラジル

ブラジルは貧困対策を進める一方、

基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字を義務付ける法律の施行などで財政規律を維持。

インフレ目標の採用もあって物価抑制に成功し、内需主導の経済成長の基礎を築いた。


「亭主の好きな赤烏帽子」

■ベネズエラ

ベネズエラでは99年、貧困層の支持を受けたチャベス政権が登場。

モノ不足につながる価格統制や企業国有化に動いたためインフレが高進し、

10年は2年連続のマイナス成長が見込まれている。

石油収入を貧困対策などに充てた結果、国営石油会社の投資が抑制され、

頼みの綱の石油生産も減少傾向にある。


■ペルーのガルシア大統領は

1985~90年の第1次政権で対外債務支払いを輸出額の10%に制限する政策を強行。

国際金融界から孤立してハイパー(超)インフレを招いた。

2006年に政権に返り咲いた後は、逆に貿易や投資の自由化といった政策を取っている。


■コロンビア

コロンビアでは80年代ごろから

・麻薬組織や

・コロンビア革命軍(FARC)など左派ゲリラ、それに対抗する

・右派民兵の争いが続き、90年代には半ば内戦状態に。

だが02年以後、政府の左派ゲリラ掃討作戦が奏功。

右派民兵の解体も続き、落ちつきを取り戻した。

04年完成のメトロカブレは地域の治安回復の象徴だ。

「亭主の好きな赤烏帽子」

社会の安定

・雇用を生み、

・消費を活発にした。

治安の回復は遅れていた資源開発やインフラ投資を呼び覚ました。

数年前まで海外投資家に見向きもされなかったコロンビアは今、

ポストBRICsの新興国群「CIVETS」に挙げられる。

コロンビアに限らず、豊富な資源を抱え人口も多い中南米諸国は、

もともと経済成長のための条件を備えていた。

インフレや資源価格の乱高下、

内戦テロ軍事クーデターなど阻害要因が取り除かれてきたことで、

本来の実力を発揮し始めている。


かって、国際連盟でウィルソン米国大統領が民族の自決の方に世界の潮流を図った事があったが、

それまでは世界は帝国主義が当たり前の時代で、

それを引っ張っていったのが欧米であった。

・1900年までにアフリカのほとんどが欧州勢力により植民地分割されてしまっていた。

・西部開拓から始まって、ハワイを、そして次にフィリピンまで侵伸したのは米国であった。

 1900年直前のことである(パパ・マッカーサー将軍)。

・1914年、第1次大戦がはじまり、アラビアのロレンスがラクダに乗って長刀を振りかざす。

 ベドウィンはオスマントルコを追い詰め、長い歴史を誇ったオスマントルコも1919年に解体する。

 イギリスはこの時、パレスチナからインドにいたるほとんどに勢力(委任統治領)をのばしていたのである。

 チャーチルがこの当時の植民地相。

 中東の不安の弧、ベルトラインに、そしてあのやうな直線的な国境のラインが引かれることになった。

・1900年前後して、カナンの地、イスラエルにユダヤ人たちが陸続と入植してくるようになった。

・列強英仏による驚くべき二枚舌、三枚舌外交───

 1917年英仏間でサイクス・ピコ協定が締結(英仏による中東分割秘密協定)

 1917年11月 - バルフォア宣言( パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設を認める)

 これらの二枚舌外交はアラブ人に衝撃と不安を与え、

 今日までのパレスティナ問題の 端緒とも言われている。

・圧政を敷いていたトルコから独立を勝ち取るために戦ったのだが、

 苦難の末にやっと ダマスカスに入城したアラブ人を待っていたのは、英仏の裏切りだった。

・オスマントルコ帝国の領土は分割され、

 1919年、新生トルコ共和国の初代大統領ケマル・アタチュルクにスターリンが近づいてゆく。

文明論者は、未開、、野蛮に対して、それを開くのはあたかも自分たちの崇高な役割と云わんばかりに、

侵略、戦争を肯定していった。


ところで、南米諸国の多くは米国のCIAなどの古典的なやり方から脱して、

民族の行方は自分たちで血を流して決めることによって、

長い混沌の中から光明を見出すに至ったのだ。

アフガンのことは、アフガンに任せよ、である。

中南米の歴史がそう語っているのではないか。

アラブ諸国の人たちは一見善良そうな欧米のキリスト教者たちを信じない。

一方は契約主義者たちで利息をとり、アラブ主義者たちは建前では利息を認めてはいない。

欧米の資本主義的文明はパンとサーカスに行きつく。

強欲でとどまるところを知らないそういう文明の側面を、

イスラムの人たちは本能のどこかであこがれ、

一方でまた徹底的に嫌悪している。


東西冷戦のさなか、アメリカは文字通り世界を全方位でシェリフしていた。

経済、特に「金」から離れた変動相場制の中で、

通貨がいよいよ「商品」として扱われるようになり、

(10,1/24MMF(マネー・マーケット・ファンド)について)

1971年、それまで銀行の預金しか利用してこなかった客を証券会社に呼び寄せるべく、

アメリカ合衆国のブルース・ベント、ハリー・ブラウンの2人が設立した

「リザーブ・ファンド」がその創始である。

従来、公社債などの債券は購入単位が大きく、

小口の個人投資家には手が出せない商品であったが、

このような投資信託が生まれたことでそれらへの間接投資が可能になった。

1973年のオイルショックでインフレーションが起こり、

銀行預金の実質的価値が目減りしたことや、

CMA(Cash Management Account、証券総合口座)の設定により、

MMFで運用した資金をそのまま株式などの購入に当てられるようになったこと、

小切手の振出しができ当座預金の機能を有するようになったことも、

1970年代に起こったMMFへの大量資金流入の要因となった。


すでに、リーマンショックに至る強欲という、種の種がまかれていたのである。


1973年に原子力船「むつ」の事故がおこり、

1974年、「原子力3法」が田中政権で制定された。

都市に電気を頂戴、代りに麻薬のような補助金をたんと上げるからね・・・

悪魔の囁きであった。

中東戦争から始まったことである。

石炭から石油へ、「三池闘争」は1961年のことであったが。


「1979年、アフガニスタン」

1933年以降ザーヒル・シャーによる

王政(基本的に部族国家・部族会議による推戴)が長いこと続いた。

1956年よりソ連による援助や介入が始まる。

1964年、アフガニスタンの憲法が改正され、

立憲民主制に移行。

この憲法で女性の教育の権利や就労の権利、そして参政権が認められた。

翌年の1965年、アフガニスタン最初の普通選挙が行われた。

一方、共産党に対抗して、イスラム勢力も活動を開始し、反共宣伝を活発に行うようになった。

一従兄弟のダウドが国王の留守の間にクーデターを起こし

▶アフガニスタン共和国を成立させた(1973年)。

しかし、クーデターでダウドも家族ごと殺され、

▶アフガニスタン民主共和国の成立が宣言される(タラキが大統領に就任)。

しかし、1979年には副首相であったハーフィズッラー・アミーンが

再度クーデターを起こし(タラキは暗殺され)、

新たな大統領に就任した。


当時アフガニスタン大統領であったアミーンは独裁的な政治を行って、

独自の外交政策を展開したことが挙げられる。

米国の情報機関と関わり、共産主義では否定されるはずの宗教聖職者との関係を強化した。

これはソ連政府にはアフガニスタンの西側への転向の兆候と見られることとなった。

■ソ連のアフガニスタン侵攻1978-89年)は東西冷戦下の大事変だったが、

米国は直接の軍事対応を避けた。

「聖戦の戦士」としてアラブ諸国などのイスラム過激派がリクルートされ、

米国(CIA)やサウジ支援を受けてソ連軍と戦い始めた。

この中から後のアルカイダの母体も生まれた。

■泥沼状態が続いたアフガンへの軍事介入もソ連を蝕んだ。

ソ連崩壊の確かな原因になる。

85年以降の原油の急落とドルの急落、

ダブルパンチに襲われたのは中東産油国だけではなかった。

資源輸出収入の減少でソ連経済の疲弊も進んだ。

→ゴルバチョフの登場

(1985年、ペレストロイカ「改革、立て直し」グラスノチス「情報公開性」)

も冷戦終結への背景となる。


戦争は絶えず世界史に新しい局面を運んでくる。

1979年末のソビエト連邦(当時)軍のアフガニスタン侵攻をきっかけに

金の小売価格は1年前に比べ3倍以上の1グラム6400円台へ高騰。

その過程で金の投資ブームが起きた。

ブームは価格の急落で幕を閉じるが、

81年秋に3000円を割ると、割安とみた個人が再び店頭に殺到する。

翌年(82)秋メキシコの金融危機をきっかけに価格が4000円台まで急反発すると、

今度は利益を確定するために店頭に顧客が押し寄せた。

業界ではこの間の大商いが今でも語り草になっている。


1979年、

世界の変動相場制への移行に対して域内での為替の安定を望む欧州は、

域内通貨の目標相場圏を定め、

それを逸脱しないように各国が市場介入をする欧州通貨制度(EMS)を発足させた。

英国は90年にEMSに参加したが、2年後の92年には

ジョージ・ソロス氏らヘッジファンドのポンド売り攻勢でEMS脱退を余儀なくされた。

英国では通貨統合への懐疑論が勢いを増し、ユーロへの参加も見送った。

一方、その後の独仏などはEMSにとどまり

99年には通貨統合を実現、域内の通貨変動はなくなった。

すべて東西冷戦から、

すべてベトナム戦争から、

すべて戦後ブレトンウッズ体制が崩壊したニクソンショックからの構図である。

無用な戦争はするな、ということ。


「鉄の女」が生まれた。

サッチャー内閣は90年まで続き、

所得減税や規制緩和、労働組合の力を弱める法改正、

電話や航空など国営企業の民営化を進めた。

首相就任前から旧ソ連(現ロシア)に対しては強硬姿勢で、

76年にソ連の赤軍機関紙が「鉄の女」と非難し、これがサッチャー首相の異名となった。

80年代前半に就任した

・米レーガン大統領、

・中曽根康弘首相も市場機能重視の政策を取った。

「新自由主義」と呼ばれる考え方は経済活性化に寄与したとの評価がある一方で、

所得格差の拡大を招いたなどの批判もある。

■民営化、市場主義、一見小さな政府は世界の潮流にはなるが───


世界はドミノである。

ソ連によるアフガン侵攻

アフガン侵攻→イラン革命(シーア派)を起こし、

イラクに(フセイン)政権が誕生し、

イラク・イラン戦争が始まった。

イランの革命輸出を恐れるサウジ(スンニ派)

クウェートも「防波堤」となるイラクに資金援助を続けた。

(脇祐三・論説副委員長09,7/12日経)


イラン革命へと───

王政(親米・パーレビ国王)打倒は

すぐにシーア派の聖職者が統治するイスラム革命に性格を変えた。

カリスマ・ホメイニ師登場と、米大使館占拠が今日に至る米国との対立を決定的にした。


イラクでは1979年にフセインが大統領に就任し、

翌1980年、イランとの戦争を始めた。

米国はイラクに肩入れし、

イランの革命輸出を恐れる

サウジ(スンニ派)もクウェートも「防波堤」となるイラクに資金援助を続けた。

イラン・イラク戦争88年に終り、

だが軍事強国となったイラクが地域の新たな脅威となった。

イラクは90年にクウェートを侵略し、

翌年の湾岸戦争で米国主導の多国籍軍がクウェートからイラク軍を排除した。

だが、当時のブッシュ政権はフセイン政権打倒を避けた


アラブ諸国は世俗的な王政・独裁制が多い為、

イランのイスラム革命が輸出されることを恐れてイラクを支援した。

特にクウェートはペルシア湾の対岸にイランを臨むことから、

積極的にイラクを支援し、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。

ソ連はかねてから親ソ政権であったイラクを通じて中東で同盟国を多く作る必要から、

また国内へのイスラム革命の飛び火を恐れて、イラクを支持した

(ソ連は同時期にアフガニスタンへの侵攻を行っている)。

■完全に孤立したように見えたイランであったが、

アラブ全てを敵に回しているイスラエルが援助を始める。

米国製の武器部品をイスラエルが代わりに調達するなどしてイランを支えた。

加えて、イスラーム重視政策を採ったシリアリビアイランに味方した。


イラン革命を引き金に第二次石油危機が起き、

OPEC(石油輸出国機構)は原油の公式販売価格を1バレル=30㌦超に引き上げた。

だが、世界的不況を招いてOPECは公式価格を維持できなくなり、

→原油は市場商品に変わった。

85年のプラザ合意後の

・ドルの急落➘と並行して

・原油も急落➘した。

■石油市場では80年代後半から原油価格が下➘がり過ぎて

(90年代はずっと20㌦ちょい近辺)開発投資が鈍り、

供給余力が減った反動と、先物市場の金融市場化が進んだ影響で、

21世紀に入って相場変動が過大になった。


冷戦後米国はクリントン政権を通じて「冷戦の果実」を一人謳歌した。

日本はバブルに打ちのめされ内向きに、

ドイツは東西ドイツ統合のコストに悩まされ、

中国はまだ天安門事件の世界からの制裁の中に、

ロシアも旧ソビエトの古い効率の悪いシステムのままであった。

一人謳歌する米国に対して、

ほぼ90年代を通じて1バレル=20ドル近辺に据え置かれたアラブは、

その内国に次第に反米キリスト教という原理主義者を内含していった。

わたしがこう考えるのはうがちすぎだらうか。


サウジアラビアでは、

スンニ派の原理主義者が聖地のメッカの大モスクを占拠し、王政を揺さぶった。

80年代のサウジでは体制維持のために宗教の教条主義が強まり、

結果として多くの過激派も生んだ(ウサマ・ビーン、ラディン)。


すべての事柄がシンクロし始め、

大きな取り返しのつかない長周期振動へと世界を導いていったのだ。


倉石智證

・・・続き。