人間は卑屈に膝を地面について

肘で刻み、汚い指で地面を引っ掻いてきた

人間が漆の木に傷をつけると

涙のやうな樹液が零れた

長いながい時の間だ

山のてっぺんにも

山の麓にも

さうやってひっそりとお社が建てられた


僕の友人は深い山の中の径を歩くと

メイプルの匂ひに頭がくらくらするといふ

ちっぽけだが忘れられない奇跡である

この世を生きるとは大変なことだ

径々をゆき、道端の草をむしればそこに

透明な空間に見えない汗や、つぶやきや、植物の樹液などが流れる

そしてそれらは決して見えることさへ無いのだが

私のあとを未練がましく追いかけてくる

カメバヒキオコシの米粒ほどのむらさきの花穂

いっそ人の思ひに色が深まる


「亭主の好きな赤烏帽子」

「心目がけてやってくる」───

ドングリの心目がけてやってくる

もとより山の奥の奥深くのことだが

苗場の奥の裏山をゆくと

赤湯といふ秘湯があって

婆やがひとり棲んでいた

湯に入ると

親指から中指の幅ほどのミミズの死骸が浮いていたりして

これはこれで呑びりしたものだ

たまらずに皮膚に汗が浮いてくると

目の前の清流に素っ裸で飛びこむ

金玉が縮みあがって

これはこれでいいものだ

山毛欅の洞うろにはびっしりとブナハリタケがはりついていたりして

橡の実がつづらの径にふりそそぐ

橡の実が、心目がけてやってくる

心底───ここまでやって来ると

賢さんの「注文の多い料理店」

山や沢がぐらりと動いて

少しばかり、気味が悪い


「亭主の好きな赤烏帽子」

そんな下の、下の暮らしがいやなものだから

山の奥深くへ入って

「注文の多い料理店」

いつでも心打ちとけて

奥へ奥へと誘ってゆく

なにくわぬ顔で

いつでも心打ちとけて

でも、もうそこまでだ

古い外套を着て

帽子をま深く被ってしんねんむっつりの

石ころだけれど石ころでない

石っこ賢さんはかーん、かーんと石を打ち鳴らしつける

ふと我にかへるとけんけんぱッ

お山と人里の境に出て

カメバヒキオコシのむらさきの花穂が

どっと径に群れてなだれているところがあって

膝で割るやうにして進むと朝の露がまだ残っていて

膝がたちまち濡れる

それでもどうにかこうにかして、けんけんぱッ

境界の清流を渡ると麓のお社に出て

両手を真剣に合わせておじぎをした


ミズヒキソウに風がたち───

それもこれも

ちっぽけだが忘れがたい奇跡である


智笑