降る雪や明治は遠くなりにけり

1931年、雪降るなかを中村草田男は母校の小学校の校庭にたたずんで、

降る雪の中にいかにも明治が遠くなったことに一入感慨を深くしたのであった。

満州事変が起こるこの年───

戦後「堕落論」で一世を風靡した坂口安吾(1906~55)は越後は松之山の長閑な山合いにゐた。

坂口安吾「黒谷村」(1931発表)──

谷風に送られて縹渺と喘ぐことを、凡太はむしろ好んでいた。

叔母と姉が松之山の旧家「村山家」に続けて嫁したことで、

安吾は20代のころによく松之山にやって来た。

近くには宿が1軒だけの兎口(うさぎくち)温泉、さらに下に降りれば松之山温泉

「夏が来て、あのうらうらと浮く綿のような雲を見ると、

山岳へ浸らずにはいられない」


小茂田青樹が「虫魚画巻」を制作したのは1931年(昭和6年)で、

この年画家は40歳。

翌年に喉頭結核をわずらって病床の人となり、

次の年には亡くなっているから晩年の作である。

「若くして死んだ小茂田青樹君のことを思ふと、

君の夭折(ようせつ)を痛むと同時に自分のことが考へさせられる」

と、御舟は青樹の没後に開催された遺作展について書いた。

約1年後、今度は自分が「夭折」するとは御舟はもちろん考えていない。

青樹の享年41に対し、御舟は40だった。

二人は同じ画塾で仲の良いライバル同士だった。


「亭主の好きな赤烏帽子」
1931小茂田青樹「虫魚画巻」 


アラブの地域でも1930年代、

中東で欧州の支配者に対して民族主義的な反乱が相次ぎ

“アラブの覚醒”として欧州に衝撃を与えた。

今回の中東をめぐる“アラブの春”は

非宗教的な専制政治とイスラム教徒の支配のいずれかを受け入れてきた中東が、

自由、法の支配、豊かさを求める点で

欧米や日本の市民のように現実的願望の芽生えによるもののやうであるが。


人類は進化したのか。


マネーの流動性が滞り、金本位制という自動調節機能が崩れ、

貿易不均衡や、経常収支不均衡が放置されたままになった。

世界は次第に不寛容に、苛立ちを高めていった。

1931年5月、株価暴落に伴う信用収縮の中で、

オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルトの破綻を契機に、

ドイツとオーストリアで金融危機が起きた。

基軸通貨国の英国には信用収縮の波及を食い止めるだけの力はもはやなかった。

一方、世界中の金が集中しつつあった米国は、

基軸通貨国の役割を肩代わりするどころか、自らも金本位制を離脱してしまう。


ルーズベルトは、大統領選時の演説で

「1929年当時の物価水準への回帰(今でいう物価水準目標)」を明言。

大統領就任後は、自らの政策理念に同意する財務官僚を重用(今でいう政治任用)し、

為替市場への介入によるデフレ解消を目指した。

ただ、米国も通貨安誘導だけでデフレを解消することはできず、

米連邦準備理事会(FRB)による国債買い切りオペの増額という量的緩和を導入して

デフレからの脱却を果たした。

さらにいえば、ルーズベルトは法改正によって

大統領命令で政府紙幣を発行する権利を獲得し、

それが量的緩和政策に否定的であった当時のFRBに対するけん制となり、

FRBは量的緩和を導入したという経緯がある。

(安達誠司 ドイツ証券シニアエコノミスト10,9/29日経 )


昭和恐慌の勃発である。

1931,9月、イギリスが金本位を離脱。

井上準之助がそれでも金本位にこだわったのは為替相場の安定だけでなく、

割高な為替レート(円高)による財界整理が目的だったようだ。

大戦期の政友会の放漫財政による市場メカニズムの弛緩、

それこそが日本経済の停滞の真因であると井上は考えていた。

実際、復帰の当初、「財界整理」とそのための「緊縮財政」を訴える浜口・井上に対し、

一般大衆は熱狂的支持で応えたのだった。


上海(銀本位制下)では───

事態を一変させたのは、31年9月の英国の金本位制離脱。多

くの国が自国通貨の切り下げと積極的な景気拡大策を展開し、

国際的な銀相場は上昇に転じた。

中国経済は強烈なデフレ圧力に直面し

「深刻な不況に陥っていった」。

34年には上海金融恐慌と呼ばれる事態に発展した。

「大恐慌下の中国」城山智子著


そして、浜口内閣が第2次若槻礼次郎内閣に代わった後も、

井上は蔵相を重任していたが、

31年9月に満州事変の発端となった柳条湖事件と

英国の金本位制停止が起こる。

これを機に、金の対外流出が一層増加するとともに、

国内経済の閉塞状況も悲惨の度を強めた。

こうした内憂外患的事態に直面して、

有効な対策を打ち出せなくなった若槻内閣は総辞職し、

政友会・犬養毅内閣が発足する。

この内閣でも蔵相に就任した高橋是清は、就任と同時に金輸出の再禁止を実施(1931,12月)する。

(慶応義塾大学教授 池尾和人11,6/24日経)


高橋是清は政界屈指の経済政策通であった。

昭和恐慌という未曽有の経済危機に際し、

当初は、金輸出再禁止によって、為替レートを大幅な円安水準へ誘導し、

円安によるデフレ脱却をはかり、いったんは成功したかにみえたが、

その後、景気と株価は二番底に陥った。

そこで次に採用したのが日銀による国債引き受けである。

金融業者との懇談会の場で発表し、

新聞紙上で報じられると、株価はその直後に二番底を脱出、

デフレも解消へ向かった

(実際に財政支出が拡大されたのはインフレ率が既に反転した後であった)

(安達誠司 ドイツ証券シニアエコノミスト10,9/29日経 )


第1次世界大戦以前の金本位制は貿易黒字国から貿易赤字国への資本移動を促し、

世界の各地に局地的に発生したショックを効率的に吸収する機能を果たしていた。

しかし、大戦後に再建された金本位制の調整機能は大きく落ちていた。

大戦前は金本位制を維持し自由放任主義的な金融政策を採ることが望ましく、

大戦後は無理に金本位制を維持せず、

ケインズ的な一国マクロ政策で景気循環のショックを緩和する方が望ましかった、といえる。

高橋はそれぞれの時期に正しく判断していた。

(東京大学准教授 中林真幸11,6/28日経)


世界には経済から端を発するストレスのマグマが充満していた。

日本も例外ではなく、満州事変が勃発した。

9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、

関東軍(満洲駐留の大 日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破したとされる。


東京帝国大学「政治史」の初代教授は吉野作造だった。

吉野は最初ヨーロッパについて講義し、後に日本を対象とした。

1924年、東大を辞職するが、その後も非常勤講師として、政治史の講義を続けた。

しかし、東大辞職以後は生活の貧困と病気に悩まされ続ける。

政治史の講義も病気のため30年、31年と休んでいる。

■ところが、31年に満州事変が起きると、中央公論社からの久しぶりの依頼を受けて、

吉野は病気を押して事変を論じた。

この論文「民族と階級と戦争」では、

満州事変が侵略以外のなにものでもないことを徹底的に明らかにし、

かつ、それまで軍部に批判的だったメディアや無産政党が

事変を賛美していることを厳しく批判している。

病気を押して32,11月に講義を開始したが、

咳き込んで窓際に座ってはまた再開するという風で、

33,3月、55歳で没した。

吉野の抗議はかなり強い東北訛りであったらしい。

(北岡伸一・東京大学教授09,9/24日経)


13世紀半ば、今のドイツの神聖ローマ帝国では2人の皇帝候補がいたが、

ともに即位できず、空位が20年近く続いた。

国内は麻のごとく乱れ、諸侯や聖職者は好き勝手に領土の拡張や権力獲得に動く。

元祖、大空位時代である。

■戦前の日本では第2次若槻礼次郎内閣の下、関東軍が主導し満州事変を起こした。

若槻は前任の浜口雄幸ほど指導力がなく軍部の暴走を抑えきれなかった。

これも大空位に似ている。

■独裁者の専横は論外だが

リーダーの力が弱すぎるとさまざまな勢力が自己主張を強めて、国は道を誤る。

歴史の教訓である。


(webより)

1931,11月、関東軍大佐の土肥原賢二(どいはら けんじ 1883~1947)が訪れます。

土肥原は陸軍大学卒業後、対中国特務機関の坂西機関に入り、

補佐官、奉天督軍顧問、連隊長、奉天特務機関長を歴任。

中国語にも堪能で、『陸軍きっての中国通』 と呼ばれていました。

土肥原は、溥儀ふぎを満州に呼び寄せる責任者だったのです。

清王朝再興を願う溥儀にとって、一番の関心事は自分が皇帝になれるか、ということでした。

「私が知りたいのはその国家が共和制か、

それとも帝制か、帝国であるかどうかということです」

「帝国ならば、行きましょう」

満州国建国という点において、溥儀と関東軍の利害は完全に一致しており、

溥儀は満州へ行くことを承諾するのです。


天津では民衆の暴動が起こり、その混乱に乗じて溥儀は天津を脱出し

(溥儀は車のトランクに隠れてイギリス租界に行き、そこから関東軍が用意した船に乗り込んだ)

満州へ向かいます。

この時溥儀は知りませんでしたが、

満州行きの船には万一中国軍に発見されて捕らえられた時に備えて、

船には自爆用の爆薬がしかけてあったのです。

11月13日、遼東湾から営口に上陸した溥儀は、

当然満州人民の大歓迎を受けるものと思っていましたが、あてが外れ、

彼を出迎えたのは上角利一ともう一人、眼光の鋭い小柄な男でした。

間もなく溥儀は、彼は日本では有名な元憲兵大尉の甘粕正彦

(「満州の夜を支配した」といわれ関東軍以上に恐れられた)

であることを知ります。

溥儀が満州入りしたとき監視役として登場した甘粕は、

溥儀から見て、最も警戒すべき日本人だった。


「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子が溥儀の妻 婉容を天津から脱出させる。


人間は何によって罰せられるのか。

1929年、ケインズは───

マクロ経済学の元祖のケインズ自身が今から約80年前に、

彼の孫たちの時代、つまり21世紀になれば、大方の経済問題は解決し、

人々は美や知といった高尚なものを追求するようになるであろうと予言していた。

1929年にちょうど大不況が始まったときのケインズの講演───

彼の全集に、我々の孫の時代の経済的可能性、

『Economic Possibilities for Our Grandchildren』という論文、

その中で、今は不況だけれども、とにかく技術の進歩が続いている。

そして将来も加速的に続くでしょう。

生産性がうんと上がって、70年先、2000年頃になると、

我々はみんな週に5時間しか働いていないだろうという、見事に外れた予言ではあった。

ケインズは、人生の究極目標が心の安定であり、

それは美や知、愛などの追求によって達成されると考えた。

(法政大学教授 渡部亮10,10/20日経)


「Our Grandchildren」が生まれてきた。

紡績工場───

1931,9,22(室伏稔・元伊藤忠商事会長)静岡県駿東郡小山町で生まれた。

富士山を間近に見る落ち着いた山あいの町である。

町には富士紡績(現・富士紡ホールディングス)の大きな工場があり、企業城下町といった趣だった。

父の昌はその富士紡に勤めるエンジニアである。

(11,9/2「私の履歴書」)


1931河竹登志夫は小学校に上がる。

大向小学校は渋谷の今の東急本店と文化村のあるところにあった。

小学校に上がった年に満州事変が起こる。

国語は「ハトハトマメマス」──。

この学校のよさは、あらゆる種類の家の子がいたことだ。

華族さまの令嬢から近くの花街円山町の待合の娘、

外交官や会社員、豆腐屋、畳屋、佃煮屋や百軒店のうなぎ屋の息子・・・。

それがみな何の差別もなく勉強し、遊び、いたずらをする。

■忠犬ハチ公が健在で頭をなでたこともある。

坪内逍遥とハチ公は同じ昭和10(1935)年に世を去るが、

その死亡記事が大新聞の一面にどっちもほぼ半紙大で載ったので、

同じくらい偉かったんだなと妙に感心した。


遊びは「代々木の原」だった。

いまはNHKと代々木公園だがそのころは陸軍の練兵場で、

区役所のある一帯は衛戍えいじゅ監獄(刑務所)だった。

その練兵場で、バッタやトンボを採り、兵隊ごっこをした。

男の子のおみやげには羽のついた軍帽と肩章とサーベルのセットが流行り、

将来を聞かれれば「大将」とこたえる時代。

だが世間はまだのんびりムードで、軍の演習中も平気で遊び、薬莢を拾ってきたりした。

観兵式で愛馬白雪に乗った昭和天皇も見ている。

相撲中継のラジオ、遠足は高尾山、修学旅行は伊勢参りだった。

(河竹登志夫10,5/7「私の履歴書」)


日本には本当の貧しさがあちこちに転がっていた。

(安野光雅・画家11,2/5「私の履歴書」)

2年生になって(1931?)、新しく決まった隣の席はつえ子だった。

父子家庭で、たまに弁当を持ってこない日があり、

そんなときは運動場で1人で遊んでいたが、

わたしは隣だったのに何もしてやることができず、

おどけてつえ子を笑わせるのが精いっぱいだった。 

つえ子は明るい子でよく笑った。

これ以上失うものはない、笑うしかないという悟りでも持っていたのだろうか。

色が変わるほど洗った洋服、お下げ髪、2つの前歯が目立っていた。


聞いたところでは、そのころ近郷に笹谷銅山という鉱山があって、

つえ子の父は発破の事故で失明した。

彼女の父は琵琶法師となり、色あせた墨染めの衣を着て、

近隣の加持祈祷(きとう)を仕事にしていた。

我が家で井戸替えをしたときも、水の神に祈ってくれた。

祈祷が終わると、供えた生米を空へなげて手のひらに受け「何粒ありますか」と聞き、

その米の数で何ほどかのことを占うのだったが、

我が家では信用していなかった。

わたしは家に来たつえ子と遊んで祈祷が終わるのを待った。

彼女は父と自分を杖(つえ)でつなぎ、

目の代わりになるのが仕事だった。


1932~

3年生から男女が別のクラスになった。

「肉弾三勇士」の美談が日本中に広まったのは、このころのことだった。

わたしたちも競ってその勇士の絵を描いた。

文鎮から筆箱、下敷きなど、肉弾三勇士の絵や図で埋まっていた。

誰かが昭和の軍神と称え、日本人の誰もがその勇士の歌を歌った。

調べてみたら、三勇士といわれた3人の1等兵が戦死したのは、上海事変(1932年)のことだった。

そういえば松岡洋右全権大使が国際連盟からの脱退を総会の席上で宣言し、

惜別の言葉を残して会場を去っていく場面の報道写真を覚えているが、あれが33年の出来事。

まるで役者が花道を去る姿を見るように、日本中が拍手を送った。

思うに、あのとき日本は世界から孤立し、

第2次世界大戦への道を歩み始めたのだ。

しかし今は肉弾三勇士の話を口にする人はいない。


井上準之助の場合はロジスティック(兵たん)周りの事柄が軽視された。

想定外に対してはいつも単線思考ではなく「複線型」で想定する必要があった。

金本位制は=IMF基準に似ている(「制度的」)な面持ちがある。 

だがそれは次第に準之助や是清などの属人性に委ねられていった。

「属人的」の限界がもろにやってくる。

棒をのみ込んだようなことしか繰り返し云わない軍人が立ちはだかってくるのだ。


たとえ国際的な金本位制が既に衰退期に入っていたとしても、

財政規律を確保し、軍事費の膨張に歯止めをかける制度的装置は、

当時において金本位制しか想定できなかった。

その金本位制への復帰の試みが昭和恐慌を引き起こすことにつながった結果、

再びそうした制度的枠組みを導入する機会は決定的に失われてしまった。

実際、1932年以降は、

軍事費を抑制し、財政収支の維持を図るような「制度的」な装置を全くもたない状態になる。

財政規律は、「属人的」な努力によってしか確保され得ないものとなった。

そして、その任に当たっていた高橋是清が、軍部の反発を受け、

36年に二・二六事件で若手将校に暗殺されると、

軍事費の膨張はとどまるところのないものとなってしまった。

(慶応義塾大学教授 池尾和人11,6/27日経)


泥沼の戦争へ。

制度的なフェイスを持たなくなったこと、

先送りすること、

議会制民主主義が機能しなくなったこと、

一度財政規律を緩めてしまうと、

その出口に至るためには大変な困難と危険が伴うことを歴史は示している。


倉石智證