人間はその本質において死を回避、生を得ようとするものだ。

自然は初めから答えを出している。

解答は目の前にある、とも云へる。


1945年6月といえば、終戦の2カ月前である。

焼け野原の東京に、ベートーベンの「第9」が響いたという。

日本交響楽団が日比谷公会堂で開いた演奏会だ。

テノールの木下保は

「日本はまだ大丈夫だ」

と戦地に手紙を送っている。

戦時中は音楽会も芝居も町内のお祭りも、すべてが消えた――。

後世の私たちはそう思いがちなのだが、じつは多くの催しが健在だった。

杉村春子がのちの代表作となる「女の一生」を初めて演じたのは、

なんと東京大空襲の翌月だ。

東京・浅草では、終戦直前の夏も焦土の上に恒例のほおずき市が立ったという。

(11,3/31日経)


終戦の1945年でさえ、

9月末にさっそくラグビーの京大・三高戦があった。

11月には大相撲秋場所が幕を開け、同じ月にはプロ野球も復活している。


河竹登志夫が云ふ。

まず終戦の年の12月、有楽座の「桜の園」、

続いて「人形の家」「検察官」「真夏の夜の夢」・・・映画、芝居に耽溺する。

東京ストリップショーの先駆とされる「額縁ショー」、

新宿帝都座5階、幕が開くと巨大な額縁いっぱいに“泰西の名画”が。

だが人物は生きた裸体美女、音楽が流れ凝視するうちに、舞台は溶暗し、幕となる。

私が見たのは「ビーナスの誕生」と「レダと白鳥」の終戦の束の間のオアシスだったが、

昭和22(1947)年、1月、まもなく美女が抜け出して動き出すに及んで上演は禁止。

戦後のはかない徒花だった。


ぺペン草も生えないほどに痛めつけられて、

「亭主の好きな赤烏帽子」

1945安野光雅

世はまさに混沌の時代だった。

ジープが走りまわっていた。

徳山はいちめん焼け野原だった。

駅前の空き地には闇市ができ、戦災孤児なども集まって、

瓦礫の上を風のように行き来していた。

絶望に似た不思議な混沌から、何かが芽生えてくる期待だけがあった。

焦土と化した徳山市(現周南市)(郷土出版社刊「周南・下松・光の歴史」より)


今度の東北の被災はやはり子供たちに負いきれないほどの大きな傷跡を心に残した。

「亭主の好きな赤烏帽子」
1945生田正治

国民学校小学5年生に編入。

初日に身に着けて行ったランドセルと運動靴は、

その翌日からは村の子と同じ背中にくくりつけた大きな風呂敷包みとワラジに

「子供は大自然の一部だった」

愛媛県で松明で毛ガニ採り

そして終戦の翌年、新憲法が公布される年には、
「亭主の好きな赤烏帽子」

1946影山光洋「小麦の収穫祝、家族の肖像」の子供たちは祝いの席を心から喜んでいる。

家族があって、穏やかに日本が復興の兆しを見せ始めている。


2月に「新円切り替え」のあった1946年を新宿にフォーカスすると、

新宿駅東口を出ると、

路上にはアセチレン灯を立てたリンゴ箱の上で怪しいデン助賭博、占い、詰将棋、詰五目。

五目で勝って新生という煙草を取ったが、将棋は失敗続きで300円損した。

ふと見ると小暗い角にはケバケバしい化粧の「夜の天使」たちが佇む。

焼け跡の広場にはバラックの闇市尾津組マーケット。

草野心平夫人が営む「火の車」、早大の追放学生のアジト「自由学校」・・・。

2丁目の赤線地帯も、焼け跡の安っぽい店ではあるがまだ営業していた。

1㍍以上でて袖を引くと罰せられるので、

店の灯を背にして「お鞄の方」とか「お眼鏡さん」とか呼ぶ。

(河竹登志夫・演劇研究家10,5/14「私の履歴書」)

そんなにも人々は全的な生を欲していた。


終戦の1、2年、空腹と焦燥をカストリ雑誌で紛らわし、

無為や抑圧への反動で映画や舞台への傾斜が激しくなった。

焼け残った神田日活、日比谷映画、新宿文化、武蔵野館・・・。

武蔵野館は中が焼失して立ち見、早朝、学割で通った。

戦前の邦画「愛染かつら」、

洋画では「黄金狂時代」「巴里の屋根の下」「モロッコ」「望郷」「舞踏会の手帖」など、

往年の名画に魅了された。

夜の屋台、闇市への出没。

バクダン、カストリなどの安焼酎を飲み歩く。

メチルアルコールで命を落す作家もあった。

メチルは「目散」、チャーチルを茶散、ヒトラーを火虎と書く危険な時代、

米の代わりの“おから”の鮨も立ち食いした。

新宿西口の路上の“シチュー”も忘れられない。

妙にピンク色のどろどろしたものが、石油缶に煮えたぎっている。

丼で食べるうち、新聞紙や万年筆のキャップが出てきた。

進駐軍の残飯だった。

河竹登志夫さんのアナーキーな青春である。


経営の神様松下幸之助は、

1946年11月、倫理教育を目的としたPHP研究所を設立し、

翌年、月刊雑誌「PHP」を創刊した。

through「繁栄(prosperity)」「平和(peace)」「幸福(happiness)」はPHPのキーワード。

また「素直」という言葉がよく出てくる。

松下は丁稚小僧から身を起こし、同じ道を歩んだ石田梅岩を尊敬していたからである。

梅岩は丹波の農家出身で、京都の商家に奉公しながら

日常的な言葉で町人に倫理・道徳を説き、「心学」を提唱したが、

“Honesty is the best policy”のことであり、

A・スミスの道徳的自我、にも似ている。

松下さんに云わせたら多分「身の丈」という考えも入っているんでしょうけれども・・・

しかし、順序は間違ってはいない。

分配が先にあるのではなく、少なくとも成長(繁栄)が前に来ているのである。


経済団体連合会(経団連)と日本経営者団体連盟(日経連)。

経団連は1946年に経済界の意見を集約する団体として発足。

日経連は48年に労働問題に対応する経営者団体として誕生した。

日本経済も復興への足がかりを得ていく。


「望まぬ現実には目をおおい、

望む方向には事実をまげようとする為政者のきょうだな態度は、

はかり知れぬほど国民にわざわいした」

都留重人(経済学者)は戦争へと導いた戦前、戦中の為政者たちをそう総括した。

1947年に出した第1回の経済白書(敗戦後の復興計画策定を担った経済安定本部)では

経済学者の都留重人らが執筆したこの白書は厳しい言葉で過去への反省を述べたそのうえで

「政府も企業も家計も赤字」

と事態をかみ砕くように解説し、

国民に「一時的な耐乏」も含め復興の過程に加わるよう呼びかけた。

五百籏頭さんの復興会議が政府に提案書を提出した。

これほど現在の日本の置かれた立場と似ている状況はあるまいと思う。

しかし時の政府は「ない、ない、ない」と明確に述べ、

その上で、痛みを分かち合う、増税の覚悟のほども明確に訴えている。


(以下web)

「傾斜生産」は前年の1946年末にはすでにも提唱され、

47年から本格的に実施された戦後復興のための経済政策である。

提唱者は第一次吉田内閣(自由党)が設置した石炭委員会で、

会長の有沢広巳(経済学者)大来佐武郎(官僚)の構想をヒントを得て立案したといわれる。

限られた資金と資材を基礎素材の生産に集中的に傾斜させ、

これを原動力として経済全体の復興をめざすというのが傾斜生産の発想だった。

具体的には、輸入重油を鉄鋼生産に投入し、

増産された鋼材を炭鉱に投入し、

さらに増産された石炭を鉄鋼業に投入するという操作を繰り返し、

石炭・鉄鋼の生産回復を図ろうというもので、

のちに食糧や肥料も増産の対象とされた。


その政策手段としては、価格差補給金と復興金融金庫が創設された。

価格差補給金は戦時中の制度を復活したもので、

政府が補助金を交付して石炭を原価より安く鉄鋼業に引き渡し、

同様に鋼材も原価より安く炭鉱に引き渡された。

復興金融金庫は四七年一月に設立され、

石炭・鉄鋼・電力・海運を中心として重点産業に傾斜金融をおこなった。

こうした傾斜生産方式は片山内閣(社会党)・芦田内閣(民主党)にも継承され、

経済復興を軌道に乗せる役割を果たした。

片山首相がふんどし姿で炭鉱の坑道に入っていく写真姿などが目に焼き付いている。

みんな裸になるほどに本気で真剣だったのだ。

党派関係なく、やらなければならないことはそれなりにきっちりやっていく。


復興金融金庫は巨大な政府国家ファンドである。

第2次大戦後の経済復興のために1947 年設立された政府の長期金融機関。

全額政府出資で石炭・鉄鋼・電力など基幹産業に重点 的に融資し

傾斜生産方式による復興に多大な寄与をした。


戦後の日本では傾斜生産方式(1945年(昭和20)の敗戦後の日本経済の破局的状態に対し、

翌46年12月24日の閣議決定により)により石炭が鉄鋼業に重点的に配分され、

その後の高度成長期への足掛かりとなった。

欧州では独仏中心に石炭と鉄鋼の共同管理が始まり、

(1951年のパリ条約(欧州石炭鉄鋼共同体設立条約 、ECSC )

欧州統合の発展の起点となった。

この2つは偶然の一致ではない。

戦後、物資の制約が強い時期にこそ、

限られた資源を最大限に活用する政策や制度が実現したと言える。

■現在もまた、限られた資源や財源を復興という共通の目的のため

公平かつ迅速に配分することが求められている。


中国やシンガポールや中東産油国の政府国家ファンドは有効に機能している。

官民の一体化を維持しながら、

しかし、政府中央における「資源の中央集権的資源配分」のことである。

中国は改革開放のち、共産党一党独裁の元に強力にこれを推し進めて来た。

サルコジさんでもメドベージェフでもみな似たようなものである。

“the end of the Free Market”なのである。

市場のみが効率の最たるものではなくなって来ているのだ。

民主主義の議会は何しろ手間暇がかかり、紊乱麻のごときの体なのだから。

しかし、日本にもこのやり方をやってくださった方が居た。

コンピューター・ブルドーザーこと田中角栄首相である。

所得倍増の池田勇人さんもすごいが、

社会主義を津々浦々に装いながら列島を改造、

固定資本の価値をあまねく高めたのはこのお方であることは間違いない。

そして、田中角栄は中国に井戸を掘った。

そして、さらに、1974年「電源3法」まで作ってくれた。

電力会社の政府への依存度が高まり、癒着、原子力村が強力に形作られていく。


倉石智證