1985年のプラザ合意を経て、日本は円高調整のなかで、
景気対策のために低金利政策のアクセルを踏み込んだ。
レーガン政権が双子の赤字を積み上げていくさなか、
ボルカーさんはインフレ退治に渾身の力を注ぎこみ、
一方、ソ連は米国とのチキンレース(軍備など)にいささか疲れ果てた。
それに社会主義のこの国は何よりも効率が悪く、
ゴルバチョフさんは“グラスノチス”“ペレストロイカ”と国家の方向の転換を明確にした。
サッチャーさんは“ウィンブルドン効果”を掲げ、労組を相手に
「ゆりかごから墓場まで」の手厚い国家の財政政策を放棄、
効率のよい小さな政府を目指した。
名誉のために云っておかなければならないが、日本でも中曽根内閣が国鉄民営化を成し遂げた。
明治の気骨“めざしの土光”さんが采配を振ってくれたおかげでもある。
でも、明治の「父性」はそこまでだった。
ベトナムでさへ“ドイモイ政策”が発効され、
鄧小平の“白い猫でも黒い猫でも鼠を捕ってくれるのが猫だ”と、
外国からの直接投資を強力に進め、国家を解放した。
世界中にすでに自由の種がまかれ、その兆しは春の大地の胎動のやうに世界を揺るがし始める。
人々はそんなにも自由にあこがれていたのだ。
インフレはいつの時代でもその国の成長と共にセンジティブで悩ましい問題である。
1987年、中国───
1987年9月、中国共産党機関紙の人民日報は1面に
「価格管理を法治の軌道に乗せよ」と題する論文を掲載した。
計画経済の下で価格を統制してきた中国は、
80年代後半から値段の決定に市場原理を取り入れ始めた。
しかし、価格つり上げ行為の横行で生活必需品を中心に物価は急騰。
当局が様々な対策を打ち出したにもかかわらず、
88年の消費者物価指数(CPI)上昇率は19%に達し、翌年の天安門事件の伏線になった。
1988年、ポーランド「自由選挙」───
1988年8月から始まった政府の経済政策への抗議と、
独立自主管理労働組合「連帯」(以下「連帯」)合法化を求めて行われた
大規模ストライキに端を発した政治的混乱を打開するため開かれた
政権側と反体制派による「円卓会議」で合意された内容に沿って、行われた選挙である。
部分的な自由選挙であったが、選挙の結果、
「連帯」系が自由選挙枠で圧勝し、東欧では戦後初めてとなる非共産党政権が発足した。
「冷戦は根本にイデオロギー対立があり、
それが地政学的対立、経済的対立、軍事的対立を引き起こした」
「終結には段階があった。ソ連のゴルバチョフ書記長が
1988年に国連で大幅な兵力削減を表明した。
その通りになれば冷戦は終わると思った。
ソ連の軍事支配なしに東欧諸国が社会主義体制を維持できないのははっきりしていた。
ゴルバチョフ氏はむしろお荷物の東欧を切り離そうとしていた。
だから壁が崩れても驚かなかった。
冷戦が本当に終わったのはソ連がドイツ統一を容認した時だ。
ドイツ統一がなければ欧州連合(EU)も実現しなかった」
「冷戦は根本にイデオロギー対立があり、
それが地政学的対立、経済的対立、軍事的対立を引き起こした」。
(ジョン・マトロック・元駐ソ大使09,11/18日経)
■若き指導者ゴルバチョフが登場した時、ソ連の経済システムはすでに瓦解寸前。
米ソの核軍拡競争やアフガニスタンへの軍事侵攻がこれに追い打ちをかけていた。
もはや東欧を軍治、政治、経済的に支える余裕はソ連にはない。
ゴルバチョフ政権は東欧への軍事力使用を否定し、
東欧諸国の自助努力による変革を暗に迫った。
この外交政策の転換が東欧共産主義体制の転覆につながる。
「6カ国ドミノ」へ。
東西冷戦終結が差し迫った1989年、
米国の政治学者フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」という有名な論文を発表した。
その趣旨は、国家間のイデオロギー対立が終われば、
その後の世界ではあくせく働くだけが重要課題となるという予言であった。
■実際、90年代以降、グローバル市場で企業や個人が競争し合う時代が到来し、
あくせくと働いた米英企業や経営者が成功した。
経済学も、国家レベルで集計概念を論じるマクロ経済学が後退し、
個人や企業の行動を究明するミクロ経済学が主流になった。
・犯罪と貧困、
・親の学歴と子供の成績、
・商品の売り手が持つ情報優位性などが分析の題材となった。
2000年代前半のベストセラー「ヤバい経済学」(スティーブン・レヴィットなど著)がその典型である。
(法政大学教授 渡部亮10,10/20日経)
バブルへユーフォリアする日本にまだグローバルという概念を理解する政治家も、
それをフォローするシンクタンクもなかった。
ひとつの波動は別な連鎖を生み出していく。
自由へのドミノはもはや押しとどめがたい世界の現象として世界を揺るがしていく。
1989,6/4日、天安門事件が起こった。
軍体が出動し、学生を含め多くの死傷者が出た。
国際社会は中国は民主化運動を武力弾圧したとして非難し、制裁を加えた。
「クレンツは裏切り者」――。
1989,11月、西独への人の流れに抗しきれず
「壁」の解放を決めた東独のエゴン・クレンツ国家評議会議長に
中国指導部は怒りを隠さなかったという。
クレンツ氏は壁崩壊の1ヵ月半前、北京で開かれた国慶節記念式典に列席。
江沢民総書記らに「民主化運動に強い態度で臨む」と約束していた。
1988年にドロール欧州共同体(EC)委員長のもとで
欧州通貨統合を検討するグループが創設された。
その報告書がまとまったのが89年夏、ちょうど壁崩壊直前だった。
両独の通貨統合と欧州の通貨統合の2つの出来事は、最初は結びついてはいなかったが、
だんだん並走するようになった」
■「ドイツ国内には・・・コール首相は、
「両独統合のために、ドイツマルクを(欧州通貨統合に)差し出したと非難する声があります」
「それは事実ではない。コール首相は、
東西ドイツ統合と欧州統合は『コインの裏表のようなもの』と例えたことがある。
一方を一方のために犠牲にするといった性質のものではなかった」
(ハンス・ティートマイヤーもとドイツ連銀総裁09,11/18日経)
1989年に総裁(三重野康)になった時に毀誉褒貶は捨てると決心した。
国内ではあまり褒められなかったが、海外、特に中央銀行の仲間とはごく親密になった。
ドイツ連邦銀行のペール総裁とは、金利政策の内輪話を。
議論が間延び気味になったある国際会議。
私は思わず、メモに漫画の「のらくろ」をいたずら描き。
親しい某国の中銀総裁も、反対側で退屈そうに何かを描いている。
私はのらくろの絵をぱっと見せ、すぐ伏せた。
彼も幾何模様の作品をぱっと見せた。
「のらくろ」は一躍国際化した。
(11,3/6日経)
1989年、米国でブラックマンデー(1987)後、貯蓄金融機関(S&L)ショック───
(2008年)米連邦預金保険公社(FDIC)によると
10/23日までに米地域金融機関の破綻件数が17年ぶりに=100件を突破した。
ベアー総裁はネットを通じ
「FDICに問い合わせが増えているが対象預金は安全だ」と異例の声明を公表。
貯蓄金融機関(S&L)危機に陥った1989年に破綻件数が=500を越した事例に言及し、
冷静な対応を呼びかけた。
(アンジェイ・ワイダ09,11/7日経)
ポーランドでは89年6月、部分的自由選挙が実現した。
民主化を推進する「連帯」陣営は有名人を候補に擁立する必要があり、
連帯のワレサ議長から出馬を要請された。
長年、映画で「勇気を出せ」とか「動き出せ」というメッセージを発してきた以上、
受け入れざるを得ないと考えた。
■わたしは当時、人々は全員が自由を待ち望んでいるだろうと考えたが、
そうではないことに気が付いた。
旧体制では考えたり、決断したり、熱心に働いたりする必要がない。
人々の意識にこうした居心地のいい共産主義的なものが残っていた。
ポーランドでは当時、民主化を後押しした教会は
今でも「弱者を守る」という発想で怠惰な人々を守ろうとしている。
■共産主義では若者たちに熱心に働いてもらえる仕事を提供できなかった。
■生涯に10回以上も引っ越す米国人と違って、ポーランド人は一つの住宅に住み続ける。
共産体制では住宅は政府から供与されていたから引越しはしようにもできなかった。
住宅は時として変化を阻む鎖となる。
1989年になると、東ヨーロッパ諸国が相次いで民主化された(東欧革命)。
同年5月、ハンガリー政府が
オーストリアとの国境を開放すると
ハンガリー経由での亡命に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪問した。
■8月19日、ピクニック事件が発生。
欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの支援とハンガリー政府の黙認により、
東ドイツ国民がオーストリアへの越境に成功した。
このニュースは瞬く間に広まり、西ドイツ・オーストリアと国境を接する
ハンガリーとチェコ・スロバキアには東ドイツ国民が殺到した。
人間の鎖(にんげんのくさり)は、
1989年8月23日、
当時ソビエト連邦支配下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の
独立運動の一環として行われたデモンストレーション。.
およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600キロ以上の人間の鎖を形成した。
■このデモンストレーションは、
バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年を期して行われ、
三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。
(ビタウタス・ランズベルギス・リトアニア元最高会議議長09,11/27日経)
「リトアニアは旧ソ連諸国の中で最初に独立を宣言しました。
独立回復宣言は市民の支持を受けた平和的、民主的行動だった」。
「ベルリンの壁」崩壊を黙認したソ連はリトアニアの民主化運動に対し
武力による脅迫や経済封鎖をする。
「ソ連の指導者だったゴルバチョフ氏は帝國としてソ連を残そうとし、
民主化など自らの理想を枉げてしまった。
改革派がモスクワで進めた民主化運動がバルトに変化をもたらす要素となった」。
ビタウタス氏は1988年、発足した独立運動組織「サユジス」を率い、
1989,8月に抗議デモ「人間の鎖」600㌔を組織した。
■経済危機の下、中・東欧では共産主義時代への郷愁が漂っているとの声もありますが、
という質問に、
「政府に頼り切り、責任を押し付けるというソ連時代の慣習が残っているのも事実。
20年という歳月はこれを克服するのに十分ではない」
1989,2月
・ハンガリーの複数政党制導入、
・ポーランドの円卓会議(共産党と労組連帯の政権対話)開始を契機に、
東欧全体に民主化のうねりが拡大。
6月ポーランド、
10月ハンガリーの体制崩壊の勢いを背に
11月にはベルリンの壁が崩壊し、
年末までにチェコスロバキアとルーマニアでも共産党政権が倒れた。
2年後、ソビエト連邦解体の導火線となった、東欧革命である。
89年当時、ベルリンの壁を挟む東西ドイツには倍近い賃金格差があり、
東側諸国には西側との間で開くばかりの経済格差への不満が渦巻いていた。
1989年11月のベルリンの壁の崩壊で頂点に達した東欧の革命。
東欧革命は、何よりもまず、ソ連の支配により支えられてきた体制の終焉、
ソ連のゴルバチョフ大統領が、
東欧の指導者に「我が道」を行けと自己変革を促す姿勢をとったことが決定的だった。
東欧では革命前から反体制運動が存在し、社会に根をはっていた。
彼らはソ連支配からの脱却と脱共産化による自由の獲得という大義を掲げ、
潜在的には広範な支持を獲得していた。
・ポーランドの連帯や
・チェコスロバキアの憲章77といった集団は、
体制が動揺し始めた局面で浮上し、旧体制に代わる権力の受け皿としての役割を果たした。
「東ドイツ、国境を開く」の報道がニュース画面に躍っている。
やがて数万人の東西ベルリン市民が壁周辺に集まり、
ゲートでは「開けろ」コールが地鳴りのように響き渡る。
高さ3㍍の壁がハンマーで砕かれるシーン。
61年の分断(8/13日零時突然)から28年たったこの年、
くすぶり続けていた国民の不満が頂点に達した。
反政府デモが各地で発生し参加者が次第に増えていく。
ついに東ドイツ政府の閣僚は総辞職。
押し寄せる群衆に、なすすべもなく国境のゲートが開放され(11/9日)、
東ドイツ国民は待ち望んでいた自由を自らの力で手に入れたのである。
■翌90年には、東ドイツ人民会議が西ドイツへの編入を議決し
「統一ドイツ」として再出発を果たした。
(トーマス・マン)
「我々はドイツの欧州ではなく、欧州のドイツを求める」
戦時中ナチスを批判して亡命生活を送った作家トーマス・マンは、
祖国の進むべき道として欧州をドイツ化するのではなく、
ドイツが欧州にとけこんでいくことを説いた。
チャウシェスク宮殿。
世界の行政建造物でペンタゴン(米国防省)に次ぐ大きさという。
中・東欧の共産主義政権が次々とドミノのように倒れた89年暮、
最も激しい形で体制が覆ったのがルーマニアだった。
学校の教室で行われたチャウシェスク夫妻の銃殺刑(12/25日)の映像は
世界に流され衝撃を与えた。
「あの頃は政府の宣伝に完全に染まっていて、
技術者になって農家や労働者を助けるのが夢だった」。
しかし、チャウシェスク時代の記憶はすべて空腹とつながっている。
「鳥の足の先やくちばしがごちそうだったけれど、いまの人は決して口にしないでしょう」・・・。
この年、あの華麗な指揮で聴衆を魅了した帝王ことカラヤンも亡くなる。
1989,7/16、大賀典雄(私は)カラヤン邸の2階のベッドルームで彼の最期に立ち会うことになってしまった。
2人で話をしていると、医者が来ていると執事が言ってきたが、
カラヤンは「いまここに、中国の皇帝がきても入れないでくれ」
と語ったのだった。
それが突然頭をカクンと垂れ、そのまま帰らぬ人となった。
心臓発作だった。
そのときも料理を用意してくれており、
エリエッテ夫人は我々に食事をしていってくれと言ったが、
もちろんのどを通るわけもなく、
あのときほどあの食卓が広く、寂しく感じたことはなかった
(ソニー相談役10,11/17日経)
時代の境目というのは、潮流が変わる瞬間ということも、
神がすべてを準備したかの如く本当にあることのようである。
1979年、“Japan as Number One”とエズラ・ヴォーゲルさんの著書がベストセラーになり、
日本は次第に慢心し、どこか尊大になっていったのではないか。
それからプラザ合意をはさんで10年後
1989年、バブルははじけた。
日経平均株価が3万8915円の史上最高値を付けたのは
1989年の大納会、12月29日のことである。
前の月にベルリンの壁が崩壊。
その月の3日には米ソ首脳が冷戦終結を宣言する(「マルタ会談」)歴史的な節目、
世界激動のなかでの日本経済と日本株のピークだった。
■失われた20年余で日本株は4分の1まで値を下げた。
・米ダウ工業株30種平均は約4倍、
・英FTSEは2.3倍、
・インドのSENSEXは10.5倍に上昇。
中国も比較可能な96年以降の14年間に
・上海総合株価指数が2.8倍に上がっている。
日本の株式市場がいかに世界から取り残されたか。
■株安・株安による年金運用利回り悪化は
・働く人の将来不安を増幅し、
・企業経営にも長くつきまとう重荷となる。
資産劣化で銀行融資が停滞すれば、
経済の血行が悪くなり、ひいては産業や社会の生気を奪う。
株安が家計や企業の消費、投資意欲を減退させる逆資産効果も見逃せない。
世界のグローバルスタンダードが始まっていたのに、
日本ではまだ株式の持ち合いが健全であり、
年功序列・終身雇用の賃金も労働市場も硬直性を維持したまま、
また金融行政は大蔵省を中心とする護送船団方式のままであった。
だが、ユーフォリアはさめて、バブルははじけた。
日本はバランスシート調整の負の泥沼の中に入っていく。
少し整理しておくと───
ソ連ではブレジネフ、
1978年、鄧小平
1979年、サッチャー
1981年、レーガン(「レーガノミクス」)
1981年、土光敏夫
1981年、ジャック・ウェルチGE会長
1981年、ワレサ議長
1981年、ミッテラン大統領
1981年、マハティール「ルック・イースト」
1982年、中曽根康弘
1985年、ゴルバチョフ
さかのぼって一度、小沢一郎の登場を説明しておこう。
もちろん小沢一郎は田中角栄の直系の子飼いである。
角栄はロッキードの後病を得て、しかしながらまだ政界内のキングメーカーの存在として、
隠然たる実力を維持していた。
だが、その親分の乾分や番頭さんがクーデターを起こした。
1985,2月、竹下登が「創政会」旗揚げ───
最大派閥(キングメーカー)の田中角栄の激怒。
激しい切り崩しに当初83人いた入会申し込み者の内出席したのは約半分にとどまった。
だが後に首相になる羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三らが会場に姿を見せたことで大勢は決した。
竹下の背中を押したのは金丸信、小沢一郎、梶山清六ら。
1987年、竹下は竹下派の「経世会」を旗揚げ、
約4カ月後には念願の首相に就任。
田中に変わる(キングメーカー)の地位を確保。
だが、栄華を誇った「経世会」も、
金丸が東京佐川急便事件に絡む違法献金などの責任を取って議員辞職、
これを機に小沢、羽田ら離脱で分裂し、
小渕派、橋本派へと移行した。
85年のプラザ合意の時の大蔵大臣だった時も
円高カードにも鷹揚でどちらかと云うと尊大な態度だったが、
目の上のたんこぶ田中角栄なきあと、
1987年、首相になった竹下登は11/27日、
“ふるさと創生”と銘打って1億円事業、日本列島中にばらまき行政をおこなった。
大田淵こと田淵節也は野村証券の会長で(64歳)、
この年野村証券は利益日本一に、───
こちらも得意絶頂の時だった。
88,6月、リクルート事件が表面化してくる。
自由と、グローバルスタンダードがもうすぐそこにまでやってきている。
有頂天になった日本は、政府も庶民も浮かれに浮かれて、
内向きのままだった。
二つの事件をきっかけとしてまたしても政局の断面へと埋没していくことになるのである。
89,5月、自民が「政治改革大綱」を党議決定。
90,4月、第8次選挙制度審議会が「小選挙区比例代表並立制」を答申
91,6月、自民が政治改革法案を党議決定(8月に国会提出)
9月、臨時国会で同法案が廃案に
10月、海部内閣総辞職、(宮沢内閣発足11月。キングメーカーは金丸さん)
92,5月、細川護煕「日本新党」結成
10月、小沢一郎ら「改革フォーラム21」を結成(竹下派分裂)
93,4月、自民、社会、公明がそれぞれ政治改革法案を国会に提出
6月、宮沢首相が法案成立を断念
宮沢内閣不信任案可決(黒幕は小沢一郎ら)。
武村正義らが自民を離党「新党さきがけ」結成
小沢一郎らが自民を離党し「新政党」を結成
バブルがはじけて庶民は塗炭の苦しみを味わっているときに───
冷戦が終結して世界はてとふ
倉石智證
1996,3,18~
「台湾海峡危機」
空母インディペンデンスとニミッツ派遣
中国はこのときの屈辱を教訓にさらにますます
「韜光養晦」に磨きをかけていくことに。
1996,4,17
日米同盟再確認のためのすべての舞台設定が終わった
1996年4月17日、国賓として来日したクリントン米大統領は
東京・元赤坂の迎賓館で約1時間40分間にわたって橋本龍太郎首相と会談し、
冷戦終結後の日米安保体制の重要性を再確認した
「日米安保共同宣言」に署名した。
クリントン大統領(左)と橋本首相(1996年、東京・元赤坂の迎賓館)
■この年の暮、1996,12,9遅浩田中国国防相、クリントン大統領への表敬訪問している。
1996
韓国
――97年12月には小沢氏が党首選で鹿野道彦氏に勝利した後、
突然新進党を解党しました。
「いろんなことがあったと思うが、分解プロセスはタッチしていない。
壊れるべくして壊れるだろうとは思った。
とにかく常に壊れる方にベクトルが働く。
ちょっとしたいさかいで壊れる方、壊れる方にいくわけです」
「新進党が壊れていく中で、僕は野党をどうすればまとめていけるかということに神経を集中していた。
(96年結党の)民主党と組んで野党を結集しようと決めてからは懸命にみんなを説得した。
鹿野さんも民主党への合流に誘いました」
――98年に野党が結集して新・民主党が結党されましたが、
2003年には小沢氏が率いる自由党も合流しました。
(熊谷弘)
1997,12,9
介護保険法が成立
1997
税財政改革
「97年4月に消費税率を5%に引き上げて特別減税をやめ、
医療費も含めて9兆円の負担増といわれた。
財政構造改革法(凍結に)も景気を悪くしたといわれるが、
景気悪化は山一証券や北海道拓殖銀行の破綻から。
90年に始まったバブルの始末が終わっていなかった」(与謝野馨)10,9,12
■1997税財政改革・梶山官房長官から『財政再建をやろう』と言われ、
首相と蔵相の経験者を列挙し、全派閥を網羅した財政構造改革会議を開いた。
公共事業費を7%削減「財政構造改革法」し
増税なしで財政再建をやる試みだった(与謝野馨)10,9,12
1998,4
金融ビッグバン
4月の『外為法』の
外国為替及び外国貿易法(新改正外為法)の改正により、
それまで銀行や機関投資家、大企業が『独占』していた
金融・資本市場の活性化を図る目的で外国為替管理制度を抜本的に見直し、
内外資本取引をほぼ完全自由化とし、
誰でも自由に為替の取引を行うことが可能となった。
■ねじれ国会
1998,10
金融国会
民主党「政局にせず」───
1998金融危機のさなかに開かれた
1998年秋の臨時国会。
同年7月の参院選で自民党が敗北し、野党が参院で多数を占めていた。
小渕恵三首相は政府提出の金融再生法案をあきらめ、
民主党案を丸のみして乗り切る。
民主党の菅直人代表は「金融危機を政局にしない」と強調した。
■で、政局にしようと思った小沢は離ていく。
1998,12
日本版ビッグ・バン
(金融大改革)実施)
しかし、内向く競争に終始、利害調整やポスト争いに終始。
1998
■1999,5,25安保北朝鮮ペリー米国防長官北朝鮮入り
1999,2
金融緩和へ
ゼロ金利政策導入
2000,8解除
速水優日銀総裁
1999,3,27
ゴーン社長
小雨混じりのなか、東京・大手町の旧経団連会館は数百人のメディアでごった返した。
「日産とルノー、力強い成長のために」
(2兆5000億円の連結有利子負債を抱えた日産自動車と仏ルノーの資本提携を発表する記者会見場に)
ルノーから日産再建のために送られたカルロス・ゴーン社長
(当時は最高執行責任者=COO)は
5工場閉鎖、
1999,11
ねじれ国会
与党過半数割れの状況下、参院自民は衆院側としばしば対立した
1999
銀行
銀行貸出と預金(「仕入れ」)ワニの口に、
国内銀行の預金と貸出金がともに490兆円前後で均衡。
11,2,13
小泉首相は経済財政諮問会議を活用し、官邸主導の政策決定を推し進めた。
時代の変化を印象づけたが、06年秋に総裁任期の満了に合わせて退陣すると、
自民党政権の迷走が再び顕著になる。
英国ではサッチャー首相が11年半、












