小沢一郎が唯一政権内で政策らしいことをやったと云へば───
1994年2月3日、午前1時前。
細川首相は緊急記者会見で「国民福祉税」構想を発表した。
税率3%の消費税を衣替えし、福祉財源として97年に7%の新税を導入。
3年先行して所得税などで6兆円の減税を実施する。
差し引き9兆円の増税だった。
案を練り上げたのは斎藤次郎大蔵次官と熊野英昭通産次官のコンビ。
7%の数字は小沢一郎新生党代表幹事との協議を経て固まった。
米国や経済界から景気刺激策を迫られるなか、
増減税一体による財源確保を求める大蔵省の主張を取り入れる内容だった。
「早すぎると思ったが、細川、小沢で走っていた」。
当時蔵相の藤井裕久氏はこう振り返る。
「利己的な引き上げだ」。
首相に呼び出され、裏口から官邸に入って7%案を知った加藤寛政府税制調査会長も批判的だった。
■7%の根拠を聞かれた細川首相は
「まだ腰だめの数字」と準備不足を露呈。
官僚主導で多額の負担増を唐突に決めた過程に世論の不信も募った。
5日後に細川首相は記者会見で新税の撤回を表明。
6兆円減税だけが実施された。
さていよいよこの後、また魑魅魍魎が跋扈する政局へと入っていく。
「これはもうどうしようもないな、こうなったら夜闇に乗じて敵の首を取るしかないな」
と神楽坂で亀井静香と森善朗は密談、
野中広務を誘い早速細川護煕首相のスキャンダル合戦に。
熊本の細川邸まで視察に大島理森や谷垣禎一まで出かける有様(VTR)。
「55年体制」の破壊を目指した10ヶ月の小澤の政権。
「長く続いた権力というものは国民の隅々までしみ込んでいる」(小澤)。
自民党の勢力を割る作戦に出た。
小澤は渡辺美智雄(50人の派閥)に離党すれば総理大臣に推すと囁いた。
結局、ミッチーは人数を集めることが出来ずそのまま自民党に残ることに。
自民党政治とは横路さんが国会を訪れ北海道に利益誘導を願うと、
その場でミッチーは総務省に電話、それで復活予算はOKになるという映像が。
行政改革は小選挙区制という形で進んだが、その後の目玉がなくなってしまった。
「消費税廃止、国民福祉税=7%構想」へ。
1994年4月、細川内閣退陣の際、
新生党の小沢一郎より自民党からの離党を条件に首相就任を打診される。
結局細川護煕首相は94,4月に辞任することになる。
「いま思うと気の毒だと思う。
そんなに政権にとって重要なことでもなく瑣末なことで攻めまくった。
先の構想は、といわれればそんなことは思ってもいませんでした」(野中広務09,11/1NHK)。
――1994年4月26日。
社会党が連立政権を離脱したのは羽田孜首相指名の翌日のことでした。
「小沢(一郎)君が主導した新生、日本新、民社など5党派による
衆院の新統一会派『改新』の結成がきっかけでした。
まさに寝耳に水だった。
すぐ社会党本部で委員長の村山富市さんと話し合った。
村山さんは『僕に相談もなく、許せない。この際、連立を離脱したらどうか』と。
私は『もちろん賛成だ』と答えた」
(元社会党書記長 山口鶴男11,3/3日経)
「小沢君は政治とカネの問題を放っておいて、
(衆院への小選挙区比例代表並立制導入を柱とする)公職選挙法の改正に傾注していた。
しかも予算案の年内編成をやらなくてもいいと。
社会党はコメ市場の部分開放も問題だと主張していたし、
党首会談では村山さんが与党第1党で一番発言権があり、邪魔だということもあったんでしょう」
(山口鶴雄)
――連立離脱後に組んだ自民党とは55年体制下で長く敵対していました。
「人間なんておかしなもので、予算委員会の理事会で同じ昼飯を食って議論していると、
意見が違ってもこの人はいい人だなと思えてくる。
予算委理事の自民党の野中広務氏ともやり合っていたが、
そのうちにうまが合うようになって、随分話をするようになった」
「自民党の亀井静香君と社会党国会対策委員長の野坂浩賢君が一番のパイプだった。
鳥取県警本部警務部長と鳥取県議だった縁で仲が良く、亀井君から(自社連立の)話があった」
(山口鶴雄)
小澤VS亀井静香。
亀井は社会党の左派に目を付けた。
小澤理論には「普通の国理論」がある。
国連の下での自衛隊の派遣である。
ちょうど94,3月に北朝鮮のテポドンが発射される。
野中広務は社会党に働きかける。
その他にも細川政権での「コメの自由化・ナショナルミニマム」に対しての社会党の反対があった。
森善朗が左に座り、隣に村山富一さんが座る写真がある。
ただし森善朗は左にそっぽを向いてなにか不満そうな仏頂面をしている。
――山口氏に自民党から連立の話があったのは。
「羽田内閣への不信任決議案を出すころに、
野中氏と後藤田(正晴)さんがハト派政権をつくろうとなったようです。
そういうこともあって亀井君が一生懸命動き、野坂君が手伝ったんでしょう。
後藤田さんとは私が1年生の時からの付き合いだった。
自衛隊は海を越えてはならん、とよく言っていた。
予算委員会が休憩すると、後藤田さんと今の議論はどう思うか、と話した。
自民党から私には野中氏から(自民党との連立政権の)話があり、
後藤田さんも同じ意見だと聞いて、私も決意を固めました」
(山口鶴雄)
――村山氏を説得するのに苦労したようですが。
「国対委員会の部屋に皆が集まって、首相指名選挙に立候補してほしいとお願いした。
村山さんは『僕より山口さんのほうが先輩だ』などと言っていたが、
私は『委員長たるものは政権を目指すのが任務だ』と説得した。
村山さんが『自民党は協力してくれるだろうか』と言うから、
かつて同じ議院運営委員会の理事をやって仲が良かった
自民党幹事長の森喜朗氏と秘密裏に参院の自民党幹事長室で会い、話をしました」
(山口鶴雄)
「村山内閣は自民党内閣ではできなかったことをやらなきゃいけない。
・被爆者援護法の制定、村山さんの念願だった
・地方分権推進法、
その翌年が終戦50周年だったので
・アジアの皆さんに多大な迷惑をかけたことをきちんと謝罪する。
この3点について自民党は協力できるのか、と話すと、
森氏は『協力する』と応じた」
――村山氏もようやくハラを固めたと。
「それでも渋る村山さんに『俺は子どもの使いじゃない。
自民党が協力すると言えば考えると言ったんだから決断すべきだ』と迫った。
一方では、森氏が村山さんに『自民党は村山さんを推薦するつもりだ』と伝えたようです。
(村山氏が決断したのは)衆院本会議開会のベルが鳴る1時間前だったと思います」
(山口鶴雄)
94年、羽田孜首相が退任する。
「反小澤」というものが自民党内にも社会党内にも公然とあり、
小澤もそれぞれの党内に分裂を促す工作をするが、
6/27日、さきがけの武村正義は村山富一と握手をする(笑顔の二人の写真)。
6/28日、森善朗自民党幹事長は内密に久保亘社会党書記長と会う。
「村山富一を首相とするから」と森は独断で囁きかけた。
「途端に顔つきが変わりましたね」と森善朗。
幹事長である自分が書記長であるあなたに話したのだから
これはオフィシャルのことと思って頂いて結構。
久保はしばらくの間は秘密事項にして欲しいというところを、
森はすぐに小里に情報を流すように言う。
たちまちマスコミの知るところとなった。
小澤は海部を担ぎ出し首班を工作するがここに到って決選投票で敗れ去った。
廊下に出ると亀井ちゃんが眼を腫らして泣きじゃくっている。
抱きついて来るのだが髭面が痛かった(森善朗09,11/1NHK)。
倉石智證
以下未完成───
1996,3,18~
「台湾海峡危機」
空母インディペンデンスとニミッツ派遣
中国はこのときの屈辱を教訓にさらにますます
「韜光養晦」に磨きをかけていくことに。
1996,4,17
日米同盟再確認のためのすべての舞台設定が終わった
1996年4月17日、国賓として来日したクリントン米大統領は
東京・元赤坂の迎賓館で約1時間40分間にわたって橋本龍太郎首相と会談し、
冷戦終結後の日米安保体制の重要性を再確認した
「日米安保共同宣言」に署名した。
クリントン大統領(左)と橋本首相(1996年、東京・元赤坂の迎賓館)
■この年の暮、1996,12,9遅浩田中国国防相、クリントン大統領への表敬訪問している。
1996
韓国
――97年12月には小沢氏が党首選で鹿野道彦氏に勝利した後、
突然新進党を解党しました。
「いろんなことがあったと思うが、分解プロセスはタッチしていない。
壊れるべくして壊れるだろうとは思った。
とにかく常に壊れる方にベクトルが働く。
ちょっとしたいさかいで壊れる方、壊れる方にいくわけです」
「新進党が壊れていく中で、僕は野党をどうすればまとめていけるかということに神経を集中していた。
(96年結党の)民主党と組んで野党を結集しようと決めてからは懸命にみんなを説得した。
鹿野さんも民主党への合流に誘いました」
――98年に野党が結集して新・民主党が結党されましたが、
2003年には小沢氏が率いる自由党も合流しました。
(熊谷弘)
1997,12,9
介護保険法が成立
1997
税財政改革
「97年4月に消費税率を5%に引き上げて特別減税をやめ、
医療費も含めて9兆円の負担増といわれた。
財政構造改革法(凍結に)も景気を悪くしたといわれるが、
景気悪化は山一証券や北海道拓殖銀行の破綻から。
90年に始まったバブルの始末が終わっていなかった」(与謝野馨)10,9,12
■1997税財政改革・梶山官房長官から『財政再建をやろう』と言われ、
首相と蔵相の経験者を列挙し、全派閥を網羅した財政構造改革会議を開いた。
公共事業費を7%削減「財政構造改革法」し
増税なしで財政再建をやる試みだった(与謝野馨)10,9,12
1998,4
金融ビッグバン
4月の『外為法』の
外国為替及び外国貿易法(新改正外為法)の改正により、
それまで銀行や機関投資家、大企業が『独占』していた
金融・資本市場の活性化を図る目的で外国為替管理制度を抜本的に見直し、
内外資本取引をほぼ完全自由化とし、
誰でも自由に為替の取引を行うことが可能となった。
■ねじれ国会
1998,10
金融国会
民主党「政局にせず」───
1998金融危機のさなかに開かれた
1998年秋の臨時国会。
同年7月の参院選で自民党が敗北し、野党が参院で多数を占めていた。
小渕恵三首相は政府提出の金融再生法案をあきらめ、
民主党案を丸のみして乗り切る。
民主党の菅直人代表は「金融危機を政局にしない」と強調した。
■で、政局にしようと思った小沢は離ていく。
1998,12
日本版ビッグ・バン
(金融大改革)実施)
しかし、内向く競争に終始、利害調整やポスト争いに終始。
1998
■1999,5,25安保北朝鮮ペリー米国防長官北朝鮮入り
1999,2
金融緩和へ
ゼロ金利政策導入
2000,8解除
速水優日銀総裁
1999,3,27
ゴーン社長
小雨混じりのなか、東京・大手町の旧経団連会館は数百人のメディアでごった返した。
「日産とルノー、力強い成長のために」
(2兆5000億円の連結有利子負債を抱えた日産自動車と仏ルノーの資本提携を発表する記者会見場に)
ルノーから日産再建のために送られたカルロス・ゴーン社長
(当時は最高執行責任者=COO)は
5工場閉鎖、
1999,11
ねじれ国会
与党過半数割れの状況下、参院自民は衆院側としばしば対立した
1999
銀行
銀行貸出と預金(「仕入れ」)ワニの口に、
国内銀行の預金と貸出金がともに490兆円前後で均衡。
11,2,13
小泉首相は経済財政諮問会議を活用し、官邸主導の政策決定を推し進めた。
時代の変化を印象づけたが、06年秋に総裁任期の満了に合わせて退陣すると、
自民党政権の迷走が再び顕著になる。
英国ではサッチャー首相が11年半、













