1947年、レッドパージ・ハリウッドが始まったこの年(チャップリンもこの中に含まれる)、
国連で「レーク・サクセスの決議」がなされた。
①イスラエルの建国
②パレスチナの建国
③エルサレムの国連共同管理───。
ナチス迫害など世界的にユダヤ人に対する同情が集まっていた。
あけて1948年、ワイズマン博士のパレスチナでの演説があり、
シオニズムの来歴と、ユダヤ人によるイスラエルの建国が説かれた。
第1次中東戦争が勃発する。
この戦争のさなかパレスチナ100万の難民が発生し、キャンプはハマス誕生の元となった。
今まで2000年間はユダヤ人が世界の難民であったが、
彼らは先住民を追い出した。
1956年のナセル・エジプト大統領のスエズ運河国有化宣言、
その年10月の英、仏、イスラエル軍侵攻によってスエズ動乱が始まった。
スエズ運河封鎖で海上運賃は高騰し海運界は沸いていた。
当時、行天豊雄(25歳)はアメリカのプリンストン大学に留学、
大学当局が英国大使を招いて、講演会を開いた。
大使は国際法や歴史的経緯から、出兵の正当性について大演説をした。
ゼミの仲間のホセ(フィリピン大学の経済学部長になる)が立ちあがり、発言を求めた。
「閣下、もっともらしいたわごとはおやめになるべきです」。
巷ではプレスリーの「ラブミー・テンダー」が街の映画館で上映され、
「ハートブレーク・ホテル」が大ヒット。
かたや、自由を求めて立ちあがったハンガリー動乱はソ連軍によって鎮圧された。
1967年の第3次中東戦争はナセル・エジプトの大敗北に終わった。
黒い眼帯のダヤンイスラエル国防相・将軍は、
アラブ連合国(エジプト、シリア、ヨルダン)を破り、
・エジプトからガザを、
・シリアからゴラン高原を、
・ヨルダンからヨルダン川西岸地域を奪って占領地にした。
イスラエルは。嘆きの壁と、聖地を奪回し、エルサレムのイスラエル支配がはじまるが、
だがダヤンはエルサレムのイスラム、キリスト、ユダヤの共存を認めた。
一方、アラブ諸国はイスラエルに大敗し、
自信を失うなかでPLOを組織したアラファトが登場してくる。
「エルサレムは精神と人間に特別な影響を与える」(アラファト)。
ワインズバーガーによるアメリカの武器供給の研究が始まった。
ベギンは大イスラエル主義を唱えた。
第4次中東戦争は、
1973年10月にイスラエルとエジプト、シリアなどの中東アラブ諸国との間で行われた。
第3次中東戦争(六日戦争)の時、先手を打って圧勝したイスラエルに対し、
今回はアラブ側が先制攻撃をしかけた。
アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用したこともあって、
一時イスラエルはスエズ運河やゴラン高原にて苦戦を強いられたものの、
その後イスラエルが巻き返して逆にアラブ側が苦戦することとなり、
米ソ両国の提案で停戦となった。
最新鋭の米国やソ連製の戦車やミサイルなど第2次世界大戦以降、
両陣営がほぼ同等の兵器をもって対峙したのである。
パレスチナの地名はペリシテの民族に由来する。
旧約聖書にイスラエルの民の宿敵として描かれたのがペリシテ人である。
怪力サムソンを欺いてその弱点を聞き出した美女デリラはペリシテ人、
羊飼いの少年ダビデが投石器で倒した巨人もペリシテ人である。
エジプト侵入を企てた「海の民」で、
紀元前12世紀ころ地中海に住み着き5つの都市国家を建てた。
その一つにガザがある。
イスラエルとの戦いに敗れ支配地も併合された民族の名は、いつしか歴史から消えた。
その後は歴史が示すとおり、
ローマ帝国、アラブ、十字軍、オスマン・トルコなどの支配者の手を転々とした。
「エルサレムは不可分」とイスラエル人は云う。
「1㍉たりとも譲れない」とパレスチナ人は。
そんなイスラエルやパレスチナと深いかかわりをもったエジプトの大統領サダトは、
1981年に暗殺される。
そのとき負傷したムバラクが後継の大統領になって、
イスラエルは翌年82,4月にエジプトにシナイ半島を返還した。
■1967年、イスラエル軍が侵攻(第3次中東戦争)し占領。
1979年にイスラエル国と エジプトとの間で、平和条約が調印され、
イスラエルはシナイ半島の返還を約した。
1982 年に、最後のイスラエル軍が、シナイ半島から撤収を終了した。
エジプトやスフィンクスも驚きぬ三つの問いをムバラクに聞く
考古学博物館にも兇徒が入り込んだらしい。
陳列ケースが割られたり・・・銃を持った兵士が館内を警備に。
夜間外出禁止令も最早効かない。
民衆の不満は怒りに変わった。
いずれにしても背後に米国と旧ソ連の陰がチラつかないことはない。
時代を第3次中東戦争ころへ戻すと、
米国は泥沼化するベトナム戦争へと突き進み、
日本も第2次安保闘争、安田講堂や新宿騒乱へと向かっていた。
外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder;PTSD)は、
突然の衝撃的出来事 を経験することによって生じる、特徴的な精神障害
■全身脱毛、膣もこれっくらい、子宮もない。
デートをすれば次は何って期待するじゃない。
赤ちゃんができないって告白するのはつらいし、
それがないって伝えることはもっと恥ずかしいことに思えた。
■胸郭から膣まで裂けて生まれた女のこの名前はジーナと云った。
顔だけ見ると一見普通の女の子っぽく見えるが、
生まれたばっかりの赤ちゃんの時、
ナースにタオルを取られた姿を見たわたしはそこで失神した。
病院に来る親戚は口々にこの子にはあれがない、あれもないと云ふ。
それでもわたしにとってジーナは抱きしめたくなるほどにかわいらしくて、
ジーナはそのままに大きく育った。
しかし、思春期を迎える中学生のころから変になっていった。
化粧するジーナはカウンセラーに飛び込む。
ドクターが云うには、
お母さん、ジーナはあなたに大きな怒りを抱いています、と
・・・I have no idea。
アメリカはVietnamという重大な国家的責任問題において過去を置き去りにした。
まだ若かった帰還兵や彼らと結婚し子供を産んだ当時当然まだ若かった女性たち、
帰還兵たち自身も多くの原因不明の疾病や皮膚病、精神障害からも免れなかったが、
それ以上に彼ら自身とその家族や子供たちにもたらした
永遠の悲劇の方がその問題性においては重大で深刻だった。
だが、国家としてアメリカは彼らとVietnamや世界に対して口をつぐむ態度を取った。
戦争に従事した一国民として、兵士としての義務者は
国家の外交や戦争行為に対しての訴追権限は制約される。
一人一人の戦争従事者に対してでもそうだが、
彼らの傷病やあるいは彼らが戦死することで遺族がそれらを訴えるようなことにでもなれば、
敵対する国に対しての世界においての優位性を保証することにもなり得るし、
最終的戦争責任者である大統領の戦争責任の訴追が免れないことになるからである。
弱みは見せられない。
世界での国家としての存続が危うくなる。
国民国家の国家の主権として、
国家は外交権ばかりではなく国家は戦争を遂行する権利を有している、
ということになっている。
自然状態において自分たちの存亡をかけて戦う権利のことである。
1648年のウェストファリア条約で
国家における他の国への内政不干渉とともに国家の権利として認められた。
分捕り経済や悲惨で不毛な宗教戦争のはてに
国家はお互いにその所有権を認めあうようになった。
国家における所有権とは領土権とか、国内に存する人口権のことであろうか。
国家はそれぞれの国家に存在する土地と人口によって得られる国民の所得の総和の最大化を、
それぞれの国家に帰有する微妙な政体の選択によって図ろうとする。
人口によって得られる社会厚生の最大化を
市場における競争原理に置いたのが自由主義資本経済で、
市場よりも生産を公共にし、分配の公平性の原理に重点を置いたのが社会主義経済であった。
価格は政府によって一元管理される。
暮らし向きのことは配給という形をとる。
どちらの政体がより多くの国民の便益と社会厚生福利を実際的に実現できるか。
国家の政体のありようの実験という意味では
東のスプートニクの方が冷戦のさなか一歩先んじ、
優位であるかのようなインパクトを双頭の片方であるアメリカをはじめ自由主義陣営に与えたのだった。
マルサスの頃から国家と人口とは競争関係にある。
まだまだ人口序列がGNPに直結するころ、
国家同士は自分たちの政体こそが地球の上では有意であると主張し合い、
領土とそこに含まれる人口とにこだわったのである。
そして、Vietnamtがその政体同士がぶつかり合った現場となった。
イデオロギーの違いが地政学的感情へと発展し、
経済的対立、軍事的対立となった。
国家のそれぞれの所有権をお互いに認め合えば、
そして、権利を設定し合えばそこに市場が生まれるはずだった。
ところが戦争は次第に自己目的化しエスカレートしてくる。
1968,1/30日、北によるテト(旧正月)大攻勢が始まった。
一時は南のアメリカ大使館さえも危険にさらされるほどになったが、
そこから米国の南側の激しい反撃が
人間性を逸脱するような規模で始まったのだった。
枯葉剤がジャングルや村落を容赦なく無差別に覆っていく。
パニックになれば国家の理性は失われる。
ベトナム戦争中に米軍と南ベトナム軍によって撒かれた枯葉剤は
軍の委託により ダイヤモンドシャムロック、ダウ、ハーキュリーズ、モンサント社などにより製造され、
オレンジ剤(Agent Orange)、ホワイト剤、ブルー剤など数種類があった。
わたしは妊娠中にアスピリンすら使用していないのよ、
それなのにどうしてこんな赤ちゃんが生まれたの。
助産婦さんがわたしに赤ちゃんを抱いて見せた。
わたしはその場で気絶した。
枯葉剤には究極の毒薬ダイオキシンが含まれているだろうことはもはや常識だ。
ベトナムのツーズ病院には奇形の子供たちがいっぱい育っている。
二分脊椎症は一人で二つの顔を持つ、巨頭症、眼がない子供、指先が欠けている子供、
そんな子供たちはざらで、生きていればこそ、
亡くなって狭い瓶の中に窮屈そうに閉じ込められた無数のホルマリン漬けの赤ちゃんたちがいた。
政府の失敗と、市場の失敗が絡み合ってとぐろを巻いて、
Vietnamの森の奥深く青い蛇のようになって侵入していった。
現在になってようやく米国の帰還兵やその配偶者や家族らが、
37にも及ぶ化学薬品会社を相手に訴訟を立ち上げることができるようになったという。
「この素晴らしき世界」「WHAT A WONDERFUL WORLD」は1967年、
ベトナム戦争のさなかサッチモことLouis Armstrongが66歳の時に歌った曲で、
のちに「グッド・モーニング・ベトナム」という映画(1987)に使われ、
88年に大ヒットした。
当時、この歌を聴いて兵士達は戦争に行った。
どんな思いで戦場に向かったのか。
・・この歌は慈愛と達観に満ちている。
憎しみや闘争は何ももたらさない。
思いやりの気持ちと愛情を互いに持てば、
この世界はいつでも素晴らしい世界になりうるのだということを
木々の緑 赤いバラ
君と僕のために美しく輝いている
僕は独り想う
何て素晴らしい世界だろうと
空の青さと雲の白さ
明るく幸せな日々 神聖な夜
僕は独り想う
何て素晴らしい世界だろうと
七色の虹が大空に映える
行きかう人々もにこやかで
「コンニチワ」と友だちが手を握り 挨拶を交わし
心の底から
「愛している」とささやく
赤ちゃんの泣き声が聞こえる
あの子たちは大きくなって
僕の知らないことを沢山学ぶのだろう
僕は独り想う/何て素晴らしい世界だろうと
場所が変われば全く違う原理で生きるしかない。
1834年、海を渡ったドラクロアはモロッコからアルジェリアへ、
そこで名作「アルジェの女たち」を描いた。
白く強い太陽光線がふりそそぐアルジェの地、
時に補色を無意識に発見したドラクロワのスピリッツや作風は
それからしばらくして外光派にインスパイアして、
ルノアールはマラケシュに渡ることになった。
市場の喧騒、街区の色使い、模様やデザインの比べようもない違いは
さらに遅れて海を渡ったクレーなどにも影響を与え続けた。
とみにアラビックの中にある模様の連続性は永遠を物語する。
インスパイアーするもの。
裸婦を描き続けたルノワールは西洋の文明を意識しながらも
「裸婦とはあらゆる文明をまとわないことだ」
と説明したという。
分かっているのは苦悩、喜び、悲哀、汗、恋、歓喜、祈り、などなどだ。
眩しい光、青い反射をかえす海、果てしなく続くそれでいて容赦い清潔な砂漠、
白い街区、迷路、メルカドの喧騒、
人々の暮らしのつぶやき日々の食事などなどは一向には分からない。
「黄色いキリスト」を描いたゴーギャンもキリスト教文明を逃れてタヒチへと渡った。
ピルグリムは海を渡ってアメリカ大陸に繁栄する経済大国を築き、
堅牢で緻密な巨大軍事文明をも立ち上げた。
1968年の新宿に帰る。
大儀もなくお金のためだけに命を売らざるを得なかった境遇の
傭兵としての外人部隊の兵士との切な過ぎる恋。
「いまさらかえらぬ身の上を」
踊り子の自らの宿命への諦め、
倦怠感から来るやるせなく投げやりな心情
「明日はチェニスかモロッコか外人部隊の」
と青江美奈がれいの胸からしのび出るやうな切なさで唄った。
涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け
唄ってあげましょ わたしでよけりゃ
セイヌのたそがれ 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の 踊り子の
今更(いまさら)かえらぬ 身の上を
貴方も女も 買われた命
恋してみたとて 一夜の火花
明日はチュニスか モロッコか
泣いて手をふる うしろ影
外人部隊の 白い服
1968年に「伊勢佐木町ブルース」、「長崎ブルース」、
翌1969年には「池袋の夜」が大ヒット。
森進一と並んで「ため息路線」と呼ばれとくに有名だ。
1973年青江美奈がブルースに歌いなおした。
「伊勢佐木町どこへゆくのかアルジェリア
白いスーツに地中海青い海には女の子
涙砂漠に帰るころ今は何とて日が暮れる
外人部隊一夜とて赤、青い灯も濡れてゆく
人の子だもの涙して歩が定まらずおでん喰ふ」
多くの自由と退廃と涙と精液があった。
巨大中国・中華基準が正しいとは限らないように
米国のピリグリムファーザーズが全面的に正しいとは限らない。
理性の越権が戦争を引き起こし、
理性の限界によって世界は欺瞞と不快に満ち満ちている。
理性的合理性にのっとったはずの知的指導者ですら
みな夢見るカントになって知を漂流し始めた。
アメリカが第2次世界大戦後も仕掛けた戦争はいっぱいある。
大戦以後「政体」がスムーズに定着したのは日本と韓国くらいで、
あとはことごとく失敗しているとみていいだろう。
それどころかそれらの国では左傾化を警戒する米国の関与なとによって、
左派ゲリラ、右派民兵組織との戦いとか
内戦やテロや軍事クーデターが常態化した。
そして、それらの国々は、現在ようやく米国のくびきから離れて、
ようやく世界の経済とリンクし始めるに至ったのである。
意のままにふるまって、わがままのし放題だったアメリカが、
ムバラクを利用するだけ利用して、
挙句いま彼に引導を渡そうとしている。
2011,2,2
今日あなた方に話しかけるホスニ・ムバラクは長年の働きに対して誇りを持っている。
このいとしき国家は私およびすべてのエジプト人の国である。
私は国のため戦い、国土・主権・国益を守ってきた。
私はこの国土で死ぬ。
そして歴史が私を裁いてくれるだろう。
ことの是非善悪は分からずとも、
国政を担う我が国の為政者、首相もこのくらいの覚悟が必要であるべきではないか。
きょうは、立春。
倉石智證