メドちゃんがやはり国後島に降り立った。
喫水に“だるまさん転んだ”やって来る
眼を開けるたびにその何かが急激に大きくなって目の前にやって来る。
尖閣では中国が監視船2隻を常駐させ、日本の施政権を脅かす。
メドベージェフは近々に北方4島を訪問することを表明していた。
9/2日をもって対日戦勝利、大戦終息を改めて中国とともに明確にし、
北方領土問題はなかったかのように世界にアピールした。
27日に中国と発表した第2次世界大戦終結65周年に関する共同声明は
「歴史をねつ造する試み」
などと言及し、日本を念頭に非難する内容とした。
二つの国の国旗は赤く翩翻と空に翻り、
かっての中ソ冷戦時代からの逆のコースをたどり始めた。
鳩ちゃんは結局キャビアを食べには北の国に行って来たらしい。
社交と外交は違うと、あらためて世界のモノ笑いになった。
今年11月に横浜市で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議、
この際に日ロ首脳会談も開かれる見通しだ。
メドちゃんは北へ行きたい4島の帰属昔は間宮林蔵
間宮林蔵ばかりではない(間宮海峡)、
かの「桜の園」のロシア作家チェーホフさえロシア大陸から樺太に出で、
ああ、やはりここは日本のものだ、と実感したということだった。
(※チェーホフの樺太旅行記が日露戦争のわずか9年前に出版されていること)
1875,5/7日、特命全権大使榎本武揚とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、
アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、
樺太での日本の権益を放棄する代わりに、
得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、
および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。
榎本は陸路大陸を横断して日本に帰ってくる。
北方領土は、1993年の東京宣言をはじめとする公式文書で、
両国政府が交渉で解決を目指すと確認している。
ロシアの実効支配は
「第2次世界大戦の結果、帰属が我々に移った」
とする動きがある。
ロシアは日本が降伏文書に署名した9/2日を
「第2次大戦終結記念日」に制定した。
しかも今週、中国を訪問していたメドベージェフ大統領は胡錦濤国家主席と、
領土保全の原則的立場を保持するとの共同声明を出した。
■視察という「国内問題」が日本側の反発で外交問題になったとの受け止め方は多い。
■今後は東アジアサミットに参加し、
2012年に極東のウラジオストックでアジア太平洋経済協力会議の首脳会議を主催する。
(朝日新聞10/1)
自国の立法の上で成り立つ他国に対する「排他的権限」は
国家主権の一部である。
1945年にスターリンはヤルタ会談(2月)でソ連の対日参戦で
日本の領土である千島列島と南樺太 を. ソ連が領土とするとしましたが、
1945,8/15日の終戦を迎えたその3日後の18日から数日にわたり、
千島列島の前縁にあたる占守島シュムシュで戦闘が行われた。
日ソ不可侵条約を一方的に破って侵攻してきたソ連軍と、
いくつかの状況が重なり島に留め置かれた日本軍の精鋭が、
激しい戦闘を繰り広げたのである。
その後、各地で小戦闘を交えながらも、現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立し、
8月21日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して
降伏文書の正式調印が行われた。
占守島戦全体における最終的な損害は、
日本軍約800人、ソ連軍は約3000人に達した。
ソ連側の言い分では、
千島、樺太、サハリン、それに北方四島を解放した、
ということになった。
実際に連合国との間の戦争が終結したのは
1945,9/2日、戦艦ミズーリ号上で、
時の外相隻脚の重光葵が、降伏文書に署名したときである。
重光外相は、1932年上海でテロに遭って、右足を失うが、
第一次上海事変後の中国との停戦協定の調印は、
重傷の手当ても中途の重光の努力によって漕ぎ着けられたものであった。
■重光は、屈辱的な降伏文書の署名の心境を、
以後国が栄えて、自分の名が蔑まれる日が来ることを望む、
と歌に詠った。
ソ連の横槍(やり)で、軍事裁判の被告となったが、
米英の識者は重光の「罪」を一切認めなかった。
菅さんの人気が一気に落ちて来た。
五星燃え日の丸釣瓶落しかな
これは前にも書いたことだが───、
中国はあの温厚そうな温家宝首相まで
日本の中国人船長の拘留について非難し始めた。
新たな対抗措置を取る、と華僑の人たちの前で述べた。
今度は国連の演説でも中国は領土と主権に関しては一切引き下がることはないと述べた。
そのとき国連のわが国の首相菅さん演説では
7100億円の貧しい国の妊婦や子供たちの栄養やその他に支援することを約束した。
間もなく国内では沖縄の検察官が拘留あと4日をのこして
中国人の漁船船長を起訴保留のまま釈放すると発表した。
大ざっぱに云えば、尖閣は中国のものだと認めたやうなものだと、
世間はがっくりし、
日本では中国が嫌いな人がどった増えた。
生物、人間、集団、社会、国家、
あらゆるものにはトラウマがある。
たいていの人間は今でもヘビを怖れるが、
白亜紀もずっと前からのこと、哺乳類の先祖は地中に住んでいた形跡があるが、
爬虫類のヘビにこっぴどくやられていたらしい。
チンパンジーの子どもはヘビに会ったことがなくても、
ヘビを差し出されると怖がるということだ。
そして、中国が欧米のいわゆる文明にこっぴどくやられたのが1840年のアヘン戦争。
上海が開港したのは、アヘン戦争後に結ばれた南京条約(1842年)によってだから、
渋沢栄一が訪れる35年も前のことである。
日本は早くも1870年から上海に仮領事館を置き、
最初から品川忠道が駐在し、72年以降、正式に総領事となっていた。
■1845年にイギリス、47年にアメリカが租界を設け、
このふたつの租界が合同して67年に共同租界がつくられた。
これとは別にフランスも1849年に租界をつくっている。
当初、上海には中国人はせいぜい数百人しかいなかったといわれる。
上海の租界全体の面積は、最終的には25平方キロに広がっていく。
■1877年(明治10)当時、上海には6500人以上の外国人がおり、
呉淞江(ごしょうこう、黄浦江)に面する外国商人の居留地には、
横浜とは比べものにならないほど壮麗な建物が軒を接していた。
■そこを過ぎて、いったん中国人の区域にはいると、
その暗澹たるさまに渋沢栄一も愕然としている。
栄一の表現を借りれば、まるで「昼夜の観」、
言い換えれば「錦繍([美服])を脱して垢衣(こうい[ボロ])に着替える」
かのような落差があった。
トラウマは続く───、
それは比重においては日清戦争の屈辱よりも
(※すでに「倭奴」「鬼子」という言葉が中国では日本人に対してつかわれ始めたが)
1900年に起こった義和団による租借地襲撃事件である。
上海バンド(外灘)では当たり前のやうに
「犬と中国人は入るべからず」
とまでされ、人間はまた当たり前のようにその落差を作り出した西洋の文明なるものを憎んだ。
1900-1901年の義和団事件は、
キリスト教など外国的なものが生活空間にまで入り込むことに反発して起きた、
ナショナリズム運動である。
「扶清滅洋」をかかげ、その義和団が電線や鉄道を破壊しながら北京に向うと、
清朝もまた満州族王朝としてのナショナリズムを背負うべくそれに呼応し、
列強すべてに宣戦した。
列強による沿岸部の砲台への攻撃もまた清朝を刺激した。
■北京駐在の外交官たちは動揺しドイツ公使ケテラーが
清の対外業務の役所だった総理衙が門に交渉に向かう途中、暗殺されてしまった。
■義和団事件戦争は清の敗北に終わり、ドイツは膨大な賠償金と共に、
反省の証として東単(現天安門広場手前左、中山公園)に
克林徳牌坊(ケテラー記念碑)を清に造らせ、
そこにはラテン語、ドイツ語、中国語によってドイツに対する謝罪の意が刻まれた。
「反省」という屈辱的な結果になってしまった。
■第一次大戦でドイツに対する戦勝国側に
→克林徳牌坊は処理され「公理戦勝牌坊」、
つまり、中国の「正義による戦勝碑」という名義に変える。
(川島真・東京大学准教授09,10/27日経)
そして日本は初めて西洋の列強に伍して、世界へのデビューを飾ったのである。
ついでながら───
1900年の義和団事件で列強に敗北した清は巨額の賠償金を抱えた。
アメリカはその賠償金を清からアメリカへの留学生の奨学金などに充当した。
留学生派遣の準備校として建設された精華学堂が精華大学の前身である。
対中文化外交においてアメリカは抜きんでていた。
留学生たち(英語能力、国際法の知識)とは後に、
いわゆる国際標準(インターナショナル)を身に付けたナショナリストでもあり、
国際会議などで国家主権の擁護と回収に努めることになった。
ちなみに胡錦濤国家主席も、次期指導者だとされる習近平さんも精華大学出身である。
1902,1/30日、極東の小国日本が初めて大英ブリテンと結んだ対等の条約───
「日英同盟」に日本国中国民は浮き立っていた。
そのころレーニンはまたスイスにいて、
明石元二郎は対ロシアに対する諜報活動を活発化させる。
ボリシェビキとメンシェビキの権力争いがあって、
ボリシェビキは農民とプロレタリアートを中心とした革命組織でレーニンを指導者とした。
明石元二郎の諜報活動はもちろんロシア帝国の破壊が目的で、
本国から当時で73万円の送金(現在で=約60億円とされる)、
革命派のメンバーとの接触や支援活動に使われた。
メンバーにレーニンの名前があり、
1904年の日露戦争開戦のころ、レーニンはスイス・ジュネーブいて、
せっせと図書館に足しげく通っていた。
スターリンはどこにいたか。
バクーの石油労働者の労働条件や生活条件は過酷そのものだった。
バクーの労働者は家族から離れてほとんどが単身で働いていた。
カスピ海沿岸の石油事業には英国のロスチャイルド家と、
1878年、現在のアゼルバイジャンのバクーで設立された
ノーベル兄弟石油会社(兄ルードヴィとロベルトと共に)が有名である。
1日の労働時間が14時間から16時間、
労働者の疲労や不満は蓄積し、
バクーは「カスピ海沿岸の革命の温床」になりつつあった。
その若き活動家の卵の中に、「コバ」と呼ばれる若者がいた。
彼こそが、スターリンである。
スターリンは、ロスチャイルド家に対するストライキをはじめ石油産業相手に、
労働者を扇動し、ストライキの首謀者となった。
この項続く
倉石智證