10,9/20(月)晴れ
男声合唱団゜こまくさ」の45周年記念コンサートが大田区民プラザ大ホール
(東急多摩川線下丸子駅下車1分)であった。
高校の同級生が参加している。
常念にこまくさありて老ひらくの楽たのしかり楽こそよけれ
信州大学工学部の学生たちが中心に昭和39年に創立された。
現在71歳の羽毛田さんをトップに平均年齢67歳の合唱クラブとして頑張っている。
年配の方たちか、お孫さん連れの家族の方たちも多かった。
合唱団の名前は信州安曇野やそこから眺める北アルプスの穂高や常念などを青春のケルンに、
コマクサと名付けた。
「叱られて」の唄もあった。
枳殻の「まろいまろい金の玉だよ」もあった。
秋はいよいよしみじみとして───、「この道」をゆくと「赤とんぼ」も飛んでいる。
歌を聴いているとすぐに信州のあの青く澄んだ秋の空へ連れて行かれそうになる。
最後にアンコールがあって、客席も一緒に「里の秋」を合唱した。
涙もろくなった。
おや、どうしたんだい、という間もなく、鼻の奥がくしゅんくしゅんしてくる。
おしまいまで歌うのが精いっぱいになった。
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す
さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります
(以下webより)
『星月夜』(ほしづきよ)は、斎藤信夫がまだ国民学校の教師をしていた
1941年(昭和16年)12月に作られた、1番から4番までの歌詞で、
後に童謡の雑誌に掲載された。
太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、
その思いを書き上げたと言われている。
1,2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3,4番は「父さんの活躍を祈ってます。
将来ボクも国を護ります」という様な内容で締めくくられている。
早速、童謡にしてもらうため作曲家・海沼實に送ったものの、
曲が付けられる事はなかった。
■やがて終戦(1945)を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、
要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。
そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、
斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。
1945年(昭和20年)12月24日、
ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、
引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、
翌年(1946)に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、
2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、
3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。
■「復員だより」は昭和21年1月 - 6月に
社団法人日本放送協会東京放送局 (JOAK) が放送したラジオ番組。
月 - 金曜の午前と午後に放送され、多くの人がこの放送に耳を傾けていたとされる。
後番組の「尋ね人の時間」と合わせて、9万9000件以上を紹介し、
そのうち約1/3が再会までたどり着いた。
終戦当時、日本の国民のうち、
外地と呼ばれる地域にいた民間人と軍人は約660万人と言われている。
戦後の混乱もあって、外地の日本人との連絡は難しく、
特に満州、樺太、千島列島にいた兵士や民間人は行方が分からなかった。
彼らがシベリアに抑留されていると外務省が知ったのは、
翌昭和21年のAP通信であった。
■引揚者らは日本への航路がある港に殺到したため、
引揚げ船・復員船は常に超満員だった。
運良く乗船できても、暗く狭い船倉は衛生状態も悪く、快適ではなかったらしい。
内地に帰ったら帰ったで、無蓋車に押し込められ列車にしがみつきとりつく復員の人たち。
トンネルに入るとむろん烟だらけになる。
『里の秋』(さとのあき)は、日本の童謡。
作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實。童謡歌手の川田正子が歌い、
1948年(昭和23年)、日本コロムビア株式会社
(現、コロムビアミュージックエンタテインメント)
よりSPレコードが発売された。
戦争の歌で少し思い出した。
もずが枯木で鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿びき車は おばあさん
コットン水車も 廻ってる
みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
兄あんさの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ
兄さは満州に いっただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ
■詩は昭和10年(1935)10月にサトウハチローが
「僕らの詩集」(講談社)に発表したもので、タイトルは「百舌よ泣くな」。
一方、曲は小学校の音楽教師だった徳富繁が
昭和13年3月18日に作ってますが、はじめは茨城県民謡として、
戦時中の暗い谷間に兄弟を戦争に奪われた怒りをこめた
抵抗の歌としてうたごえの中で広まってゆきました。
「秋の夜の会話」
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土の中だね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずゐぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだらうね。
腹だらうかね。
腹とったら死ぬだらうね。
死にたかあないね。
さむいね。
ああ虫がないてるね。
■張作霖が爆殺されたこの年1928年、
草野心平は活版刷りとしては初の詩集となる『第百階級』を刊行。
全篇が蛙をテーマにしたものであり、
以後も、この動物を扱った詩を書き続けた。
草野心平は1938年に中国満州に渡っている。
南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部長を務めていた大学の同窓生に誘われ、
宣伝部顧問として終戦まで南京に滞在する。
在中時代は、焼き鳥屋をやっていた経験を持ち、
戦後日本に帰国した際にも「火の車」という焼き鳥店を経営していた。
この名前にした理由は税務署に嫌われるためであったという。
ちなみに「火の車」は現在の新宿二丁目辺りになる。
私のお店のすぐそばだ。
中国がまたえばりだした。
おっかないねへ。
国家という塊が分からない。
国家的信条の中でしか棲めない人種というものが存在するのか。
世界の効率をあまねく高めて、貧困と争いと、飢餓をなくすのが、
人類至高の課題であったはずだ。
こんなことやっている場合ではないのに・・・
戦争は、いやだねへ。
智笑