(高村薫評10,8/29朝日新聞より)

科学の歩みは速い。

ダーウィンが進化論で唱えた個体間の自然選択は、

今では最終的には複製子である対立遺伝子の頻度変化として捉えられている。

その上で、その選択過程を記述する視点を

生物個体に取るか、

集団に取るか、

遺伝子型に取るかで、

各々異なった世界が現れるのだが、

そもそも自然界は実験で実証されるような次元にはない。

従って進化を

分子レベルに還元してモデル化するにしろ、

階層間のダイナミックな相互作用で捉えるにしろ、

行き着くのは世界をどう記述するかという認識論や存在論なのである。

実在とは何かという哲学の問いは、

部分を更新しながら連続した構造を持続する生命システムを眺める視点にも立ち現れる。


生成・消滅を繰り返す細胞と、

生成・消滅が起き続ける場としての個体を見るとき、

生物学的実在とは何かと誰でも自問したくなるだろう。

またたとえば、個体レベルでは説明できない大進化や「種」のスケールまで視点を広げると、

自然選択の過程には

分子レベルの物理法則ではない

何らかの高次の法則が働いているのではないかという想像が働くが、

ならば進化現象は決定論的なのだろうか ?

人間は進化について完全な知識をもつことはない。

しかし、進化論は、たとえば

確率概念を用いて集団の情報を抽象化することで、

物理学が記述できない現象を記述するのである。

「進化論はなぜ哲学の問題になるのか」


1929年、ティアール神父は北京原人の頭蓋骨発見に遭遇した。

ティアール神父はカトリックが認知しない進化論を信奉、

ティアールというヨーロッパ(根強い白人優位説)と、

つまり、彼は神を記述しながら同じ情熱でもって同時に頭蓋骨も記述し始めるわけだが、

原人の頭蓋骨は第2次世界大戦のとき

日本軍の追及を避けるためにアメリカに送られたというが、

そこで忽然と行方不明になってしまった。

(「神父と頭蓋骨」アミール・D・アクゼル著)


認識論や存在論で語るならば我々は神について語ることを新たにしなければならない。

また、一方で遺伝子論や分子レベルまで降り立って語るならば

確率論や頻度や、環境から来る照射や、ざわめきや、危機、

またそれらに遂一対応するペーハーなどの濃度変化とか、

イオンとか、電子のやり取りにまつわる、

個々の分子の性質の変化やそれに伴って現れる形質や

電位変化などを注意深く観察しなければならない。


是諸法空想

不生不滅

不垢不浄

不増不減

――ただ入って、出てゆくだけ。


宇宙も地球も生物も十分に電子的である。

太陽活動によって、遠い宇宙から地球大気に飛び込んでくる

宇宙線(陽子など電気を帯びた粒子)の量が変わる。

放射性炭素の量から屋久杉などの年輪の変化が分かる。

あらゆる有機物に影響を与えるe⁻は

常に物事の存在関係に影響を与え続ける内と外との関連だ。


気配とは=人体の周囲をつつむように存在する弱い電界

(電気力の働く空間=準静電界)に関係している。

これは生体電位と言われる体内の電気的状態から生じる。

人間も含め生物の体はこうした準静電界に包まれたアンテナのようなもので、

準静電界の状態は人間が体を動かすと変化する。

歩く場合には足の裏の接地面積が変化したり、

地面との間で電荷のやり取りが起こったりすることで電界の状態が変わる。

人体を包む準静電界は個人ごとにパターンが異なる。

この違いを犬などは鋭く感じ取って、飼い主を認識している可能性がある。

■植物にも生体電位があり、外からの刺激によって変動することが知られている。

人が歩く→植物の生体電位は変動する。

■気配は生体電位によって発せられている。

(電荷のやり取り⇔電気的成分)

体毛(特に産毛)は小さな電気刺激に対しても極めて敏感で、

ぞくっとするような感覚を引き起こす。

内耳にある有毛細胞が振動することによって、電気的な成分が増幅されている可能性がある。

気配=物音や空気の動きより先に、電気的成分を感じる。

(吉川和輝・編集委員10,1/24日経)


すべてのモノは電気で出来ている。

人間もだ。

革(中心としたら)あたりを境に

綿→レーヨン→ナイロン→ウールに向かって+の電気が、

絹あたりを境にして→ポリエステル→アクリルに向かって-の電気が帯電する。

車の運転の状態では、電気は常にハンドルから逃げているから、

体の中には帯電はゼロの状態だが、

車から降りようとする時、背中とシートが擦れ合って、

シートから着物を通して体に電気(-)が帯電する。

ドアに触れた瞬間一気に電圧が放たれ(放電)、「ビリッ」とする。

通常は椅子も人体も+-同じ量の電気で成り立っている。

「ビリッ」ときた時、電気は地球へ返される。


ナノの薄幕に有機分子を並べ置く(新技術は微細な有機分子の薄幕)。

電子(e⁻)を与える(プログラムやデータの入力)ことで、

分子層の隣同士の結合構造が変化する。

このモザイク模様の変化がつまり、情報処理(認知、認識)が行われたということであり、

認識するとはカテゴリー化(分類)が行われたということになる。

遺伝子同士の干渉作用や、受容体と化学分子の出会いや結びつき、

酵素や、抗原や抗体などと細胞膜を被う糖鎖などのセンサーとの出会いや結びつきなど、

体内における化学結合と化学反応は原子に属するe⁻の振る舞いによるものだと推測できる。


(webより)

トポロジとは「図形と図形の空間的な位置関係を管理するモデルまたは機能」を持つものをつまり、

ベクトルの図形を表現するXとY座標(地理座標)の他に、

ベクトル図形同士に、接続関係・隣接関係・面認識を定義したものだという。

トポロジは大きく3つ位置関係<接続関係・隣接関係・面認識>の情報を持っている。

■始点、終点、共有、境界

■トポロジ構造のなかで接続関係が定義されているため、

電柱を移動すると自動的に、電線も移動するようになっている。


「間というのは相手と自分があるからそこに間ができてしまう。

相手を自分のものにしたら自由自在だ。

これがわしの合気道だ。

相手の気を引っ張ってくれば軽いもんだ」

(植芝盛平・合気道創始者)


e⁻はいかにも自由である。

だが法則があり、その法則に沿って動き回っているようだ。

動き回ることでそのある物質には役割や性質が与えられる。

細胞を構成する物質も、代謝など様々な働きをする酵素も、

伝達物質であるホルモンも折り畳み込まれたたんぱく質のある形である。


好き好き、嫌い嫌いは凸凹があって陰陽を為す。

酸素は激しく欲し、水素も心底助平だ。

原子(元素)に属するe⁻がどのやうに配属されるか、

他の原子(元素)、分子に飛び込んだり、引っ張り合われたり、寄り添ったり、

或いは不安定な原子は他のe⁻を奪うやうなことをする。

あるゆる結合や反応は広範囲にある時は集中的にある部分に起こり、

結局はe⁻の振る舞いによって遺伝子は励起され、

或いは指示、命令することで色や形や性質などが逐一発現するような気がする。

e⁻をプログラムし配分、様々に飛び込ませると

受動した側はモザイクのやうに反応し蠕動する。

情報が伝達され、感覚し認知がなされたということになる。


「落ちる」も「聞こえる」も物理的数式であらわすことが出来るという。

数式は事物に近いものなのか、

あるいは心にも属しているものなのか。

われわれが見ていることは視覚が観ているのであって、

経験や記憶や数値や感触やそのほかのもろもろのものに影響を受けながら“見ている”。

錐体細胞もカンタイ細胞もただの感覚器で

デジックにスペクタクルを電位に変換する器官に過ぎないという。

すると、ということはわれわれが見ているということは

外部の環境に絶えずさらされながら絶えず変異する“こころ”が見ているということにはならないか。


心がe⁻と二重写しになっているもののやうなら、

e⁻もあまねく外なるものの影響を受け続ける。

たんぱく質はアミノ酸がつながってできたひも状の分子が、

複雑に折りたたまれた形をしている。

同じたんぱく質でも,可能な折りたたみ方は無数にある。

通常、元素でも分子でも、自分が好む安定した形状というものがある。

ところで、それぞれの分子(たんぱく質でも)は、

得点が稼げると分かれば、現在の安定した構造を消して、

一時的に点を失うことをもためらはないという話が──。

分子構造の中にもある種のインセンティブに

思わず身を任せてしまうというような衝動が隠されてゐるのだろうか。


心はスピノザではないがすべてに散らばっているものなのか、

あるいは大脳皮質と大脳辺縁系との間の

負荷関係の中でウエートされることで生じてくるものなのか。

「怒らず」「恐れず」「悲しまず」と中村天風は広岡達郎に云ったさうだが、

人々の気持ちを前向きにすることはそんなに難しい事どもではない。

要はそれ以前の問題であって、

風景や、環境や人体が元素に解体されたとして、

そのそれぞれの元素の中にさへ心的な行動が含まれているかどうかの問題なのである。

一切はそこから始まる。