10,5/16(日)晴れ
NHK日曜俳壇「植田」
撰者高野ムツオ、ゲストはジェームス・三木さん
植田原ここは私が泣いた場所(酒井賀代)
日の神のくまなくおよぶ植田原(内堀迪夫)
満天の星と植田と村十戸(小澤光洋)
空へ伸び海へ落ちゆく植田かな(藤根豊)
一年生植田のごとく並びけり(山根友可)
「植田」をエクササイズ。
昔今植田某てふ人居たり
早苗とる植田に水の光るかな
植田にはかはづ鳴くなり峡の里
田植ゑてお玉じゃくしはかえるの子
足抜いて小川せせらぐ植田かな
風ぬるむ植田を父は遠眼鏡
田植ゑて幼き苗に風笑ふ
どじょっ子もふなっ子もゐた植田かな
握り飯植田のこゑを土手に聞き
春灯や赤い灯青い灯夜にじむ
ふらここやふらこここゝや地虫出づ
蝌蚪かとの紐けふは饂飩かスパゲティー
昼食は結局スパゲティ・ボンゴレになった。
妻は生食のトマトをつぶして使った。
暗がりの夜具の外なる子の顔は島のやうなりそが我を呼ぶ(花山多佳子)
息子の名忘れゆく母花衣(関遼)
任地より戻る夫の背雪にほふ(佐瀬はま代)
山門のほかに堂なし山桜(広田祝世)
昂りて出奔せしか雪原に異なる獣の足跡つづく(小倉佳子)
孑孑の蚊になる頃や何学士(子規)
ぼうふら、ふらふらである。
男子の座標軸は嫉妬と羨望の中にある。
ちなみに子規は帝国大学国文科中退。
けふの日も棒振り虫よ翌あすも又(一茶)
一茶の現実感は江戸時代とは思えない現代的でもある。
出荷札つけて母牛追う子牛(ジェームス・三木)
脚本家はなんでもセリフにしてしまう。
共有するという芸術の意味合い。
折から口蹄疫が宮崎で・・・。
寝そべって牡丹ぼーたんの声を聞きにけり
芍薬やけんもほろほろぼうたんの
陸山会、土地購入、政治資金収支報告虚偽。
検察審議会は起訴に相当すると判断、東京地検は小沢一郎に3回目の事情聴取。
政治と資金の疑惑。
「秘書を信頼していた」。
相変わらず関与を否定した。
ぼうたんは咲きほころびて地に墜ちぬ
また一人サ行変格活用が子供の上に無差別に刺す
小学2年生の女の子(8)が下校中の自宅前で見ず知らずの女に突然刺されて重体に。
血を流し「ママ、ママ」とか細い声で。刺した女はその場で茫然自失状態のまま。
玉置雪花容疑者(32)は「子供を殺したかった」と供述している。
日本は壊れて来ている。
10,5/17(月)晴れ
知ってるかい「ジョニーが来たら伝えてよ」父と母とは夜に諍ふ
(歌手・高橋真梨子5/17日経夕刊)
父は広島の被爆者。
博多に来てバンドマンだったが30歳のころから足の指から脱疽、
しまいには両足をひざ下から切断。
母は生活のために夜の仕事を始める。
父は実家に去り、すると知らないおじさんが母を訪ねてきて泊まるようになった。
父がいなくなり、母も私のものではなくなった。
小学生の低学年の頃の話である。
高校生の時に渡辺プロダクションに入り、本格的な歌手を目指す。
「ジョニーが来たら伝えてよ」は1977年ころ、
新宿に行けば流行り始めたディスコでも、スナックでもよく店内にかかっていた。
キレのいいメロディーにどこかせつなさや切羽詰まった感じの彼女の歌声だった。
■かくして再び、お願いだから「子供手当」などというふざけた事どもは即刻止めていただきたい。
ふざけ【巫山戯る】てる場合ではありません。
必要なのは、たとえそれが悲しみであっても、
心が破れてしまいそうな敏感度こそが人を育てるのです。
青春はとうの昔に去りぬれどその薄皮の皮下の昂ぶり
(火)晴れ。
息子は昨日高校時代の仲間に会った。
久々に集まって大いに盛り上がったようだ。
さて、自身を振り返ってみるに、
青春とは無目的に無意識に半ば反射的に立つ、ということどもだった。
ところが昨今の連中はまだ青春をもったいなくもそこいらに置き去りに、
轉乎ごろんとほったらかしている。
一方、女子のほうもさっぱり定まりがなく、
中学生で既に性を売り物にするものがいる一方、
大方は内にこもり、皮膚の下の乙女の火ほめくのを忘れたふりをしているのだ。
かくして草食系は男子ばかりではなく、女子にも伝染して
結婚に至らない年頃の男女が次第に増えつつあるという由々しき問題になった。
エクセレント久しくなくて日の本のけふ苦瓜の蔓の伸びゆく
毎日の目の驚きや蔓伸びる、なのであった。
ところでiPhoneもiPadも巷間その賑わいで喧しいが、
それらは「ツイッター」や米グーグルの「ストリートビュー」などの新サービスとともに話題となっている。
ハードとソフトがどんどん垣根なく融合してくる。
資本の調達及び伴うコストは「右」、
しかし資本を基にしてダイナミックに資産化されるのは「左」だ。
「左」が増殖しない限り「右」の自己資本は増えず、
AOEに市場の評価は厳しく、株価は上がらない。
「日本マーケティング大賞」は今期、サントリーの「角ハイボール」が選ばれており、
それはまったく新しい製品というわけではなく、
既存製品の飲み方の提案による再活性化が評価されたに過ぎなかった。
つまり,彼我の間にはそのくらいの差がある。
製品やマーケティングの中における、資産の部、
つまり「左」側におけるそれは、単に有用であるとか、必要性からばかりではなく、
驚きや感動をもたらすものでなくてはならない。
日本の公的部門ばかりではなく、
企業、家計・家庭にいたるまで、
「左」の資産の部は目を覆いたくなるばかりの痛みである。
「左」に驚きや感動をもたらさなくてはならない。
絶えず「右」側にリスクマネーの果敢なる再生があって、
「左」サイドでそれを活性化させる。
「左」における「感度、意欲、能力」の有機的連鎖である。
それは幼児期から一貫して涵養されなくてはならない。
つまり、なんでんかんでん昨今の“手とり足とり”のパターナリズムではなく、
もっと直接的にモノに触れる機会を増やす、
厳格な環境に敢えて放り出すような楽しさである。
再び、お願いだから「子供手当」などというばらまきは止めていただきたい。
「感度、意欲、能力」の順番であって、
能力は先頭には来ない。
つまり偏差値的な意味合いのものは後の後の技術的な問題にすぎず、
あくまで、物事に対するまず感じ取る、敏感度こそが求められているのである。
経済は自立によって成長へと結びつく。
決して手とり足とりではないのである。
苦瓜、ゴーヤチャンプルーは苦いなぁ。
今期、沖縄や奄美島嶼は、民主党に苦い鉄槌を下した。
智笑