雄ちゃんへ
毎日がいろいろあって飽きないねへ。
オウム、サギ、カモにチキンと云はれても眼は白黒に鳩山のハト
小鳩は民主党。
オウムは一ちゃんに鸚鵡返し、サギは国民に対して、カモはいかにも対中国の、
チキンはいはずとしれた米国に対して(チキン=臆病)。
「私が最終的に決める」「理解していただいていると思う」。
嘘つきも、先送りも――、もう待ったなしの日本だ、
自分はハトだと言い張っても、国民は怒ってます。
大衆はいかにしてできるか、続き――
「もはや戦後ではない」は1956年の経済白書に記述されたが
この年の「1億総白痴化」(大宅荘一)の言葉とともに流行語になった。
1964,4月創刊された平凡パンチは
1966年には=100万部の爆発的な発行部数となって一世を風靡した。
すでに昭和31(1956)年前から、
農村からは大量に集団就職の列車が都市に陸続と若者を送り続けていた。
大衆はいかに生み出されるのか。
“巨人、大鵬、卵焼き”であり、三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)であり、
マスメディアでは皇太子殿下と正田美智子さんとの御成婚(1959年)で
全国的にカラーテレビは広まったとも言われている。
住宅公団が都市の住宅需要の後押しをする。
“平凡”が生まれてくる。
しかし、大衆は1960年の日米安保でも、
窮極の三井三池闘争でも結局は保守を、
つまり、明確に「右」を米国の自由資本主義陣営を選んだのだった。
冷戦の「左」(革新)社会主義平等の陣営ではなく、なぜ保守を選んだのか。
それは、保守こそが大衆というものの一種やみがたい本能であるからである。
豊かさを実感しはじめた大衆は、今日のパンが大事であり、
未来永劫の理念はさておいておくことにする。
1958年の暮らし向き調査では「中の中」と答えた人が=37%だった。
生産性の上昇が続くとブルーカラーとホワイトカラーの差が縮まっていく。
1962年「寒い朝」を吉永小百合が歌った。
人々には“がんばる”があった。
キューポラの火は燃え盛り、「若者たち」では若者たちは挫折を乗り越えていく。
キャッチアップと向上心と明日への希望に人々の生活は旺盛に燃えていた。
ベトナム戦争や三井三池の騒動などもあって革新が生まれてくる。
安保闘争のときなどは丸山真男などの知識層が革新のリーダーとなった。
ベケットやサルトルが好まれ、
戦前の教養主義と結びついて、革新とは左翼と反戦と向上心と
背伸びしたスノビズムが入り交じったものになった。
ときにアングラ劇が盛んになり、安田講堂が包囲散水されるに及んで、
全共闘は“止めてくれるなおっかさん”唐獅子牡丹とばかりに反権力となって
一般の若者も交えて新宿闘争へと火は広がった。
このころの若者の心をとらえていたものには反権力・反戦(全共闘系)、
自由や反戦(ビートルズや「イージーライダー」やサリンジャー)、
不条理系(サルトルやベケット)、
農村系(アングラ、寺山修司)、フォークソング系・・・などであり、
少年マガジンやサンデー、平凡パンチなどが市民権を得た。
1967年、東京都知事選挙で、
日本社会党や日本共産党が共同で推した美濃部亮吉が当選した。
同年1967,10/30日、『ハノイ―田英夫の証言』が閣議で偏向報道であると問題視された。
前者は日の丸について大勢の人に質問をぶつけるという内容で、
後者は『JNNニュースコープ』ニュースキャスター・田英夫が
日本のマスコミとして初めてベトナム戦争中の北ベトナムにレポートに行き、
アメリカの報道が真実ではないと告発した内容である。
■自由と反戦がテーマだった。
特攻隊の生き残りの田さんとしては「象徴」と「反戦」は切っても切れない問題だった。
68年ベトナム戦争報道で政治の圧力でキャスターを解任される。
70年同社を退職、
71年参議院全国区(日本社会党)で192万票を獲得し、トップ当選。
外務委員として中国・朝鮮問題等に取り組む。
77年参議院(全国区)2期連続トップ当選、
78年3月社会民主連合を結成、代表となる。
連立時代に向け5月、初の中道4党首会談を呼びかける。
1970年、かたや「象徴」を称える三島由紀夫は市ヶ谷自衛隊で割腹自殺を。
こうしたなか創価学会は勢力を一気に伸ばしていった。
心の問題でいったならば、それはもう全く需要と供給の問題であった。
集団襲職でやって来て、無我夢中で働きつめだった若者たちも結婚し、
所帯を持つものも現れ、右肩上がりで一気に経済の坂を駆け上がったものの、
心の空白もまた生まれた。
爆発的な経済成長の影には隅田川汚染に現れるように公害や、
空を覆うスモッグや、水俣病のような企業資本主義の負の部分も浮かび上がってきた。
故郷から出てきて、故郷から距離を置いた若者たちには、
気がついたら都会で、あらたなる連帯、心のつながりを見出せない。
高島平団地への入居開始は1972年(昭和47年)から始まった。
高島平団地のみで2万人以上、
高島平全域で5万人の人口を抱える一大住宅都市が出現した。
1955年に設立された日本住宅公団はいたるところにニュータウンを建設していった。
郊外にまで櫛比する住宅、猖獗するかのように立ち上がって出現する住宅団地、
人々はマスのなかへ分散され、
都会の孤独というものがあらためて身にしむやうになったのだった。
しかし、革新はあっという間に変異していく。
1973年に渋谷にパルコがオープンした。
前年に異様なあの浅間山荘事件が
多くの若者の内部リンチという不条理を突きつけて終幕すると、
人々の意識からは急速にイデオロギー的なものが霧散していった。
ブルーカラーとかホワイトカラーとかいった階層的に構造化されたかのようなものも
すでに意識されなくなっていた。
田中角栄の列島改造は都会の便益とカラーを一気に列島の末端まで運びやり、
生活様式や社会意識でも都会と田舎との区別は溶解した。
ばあ様もじい様も炬燵に座ったままで色つきで都会の姿をそのままに見ることができる。
階層は溶解し、都会も田舎も近いものになり、
大衆は58年には「中の中」が=37%から、
このころの80年には「中の中」が=59%にも達し、
「中」は全体の=9割を占めのにいたる。
膨大な1億総中流が創出された。
電通も博報堂も含めて膨大なこれらのマーケットという大衆にどのように働きかけ、
市場と、労働と、消費とを“モーレツからビューティフル”へ、
仲間や家庭に何をもたらせていったか。
労働市場も変えられていく。
1980年、「とらばーゆ」創刊、
1982年「フロムエー」創刊、
新聞、折込に頼っていた求人募集のスタイルが変わった。
「フロムエー」創刊にかかわった博報堂の当時の若い社員は、
「これは画期的な事業になる」と私に断言した。
(以下webより)
現在、フリーターといわれる人は、=400万人を数え、
15~34歳の9人に1人がフリーターだと言われる。
格差社会や下流をキーワードに語られる際、
フリーターは非常にネガティブな意味合いで捉えられがちだ。
すぐに就職せず、自分のやりたいことのためにバイトをしながらがんばっている人たちのことだった。
■年々「無業者」層が増えている。
■女性だと家事手伝いが多かったが、その方たちもアルバイトを始めるようになった。
■フリーターはニートとならんで、成熟を拒否する人というイメージがある。
■フリーランス・アルバイター→「フリーター」となった。
■怠けているのか、モラトリアムなのか。
アニメ映画作品「風の谷のナウシカ」(宮崎駿監督)は1984年、劇場公開された。
アトレーユを背中に乗せて白い龍、ファルコンが山々を越え空を翔んでいく。
果てし無い虚無が世界を覆ってきたのか。
原作はミヒャエル・エンデ『ネバーエンディング・ストーリー』(85,3月、日本公開)
1985年、「プラザ合意」の翌年の、
1986年は奇妙な年だ。
いや、国鉄の民営化の実現も近く、「民営化」という意味合いで括れば、
労働市場にとって、象徴的な年だったのかもしれない。
1986,4月、<男女雇用均等法>が施行される。
「労働者派遣法」と呼ばれ、1986,7/1日に施行された。
当初は通訳、翻訳、ソフトウェア開発など専門職に限られた。
(経済社会活動の多様化にともなう労働力需給の変化に対応 して
企業と働く人を迅速に結びつける目的で)
1987,11月に映画「私をスキーに連れてって」が公開されたころ、
お掃除小母さんまで株や不動産に手を出すほどで、
時代はバブルの絶頂に向って走り続けていた。
1987,4/1日、日本国有鉄道(国鉄)は、分割・民営化された。
戦後、豊かさを世界に向って実感したのは1970年の大阪万博だったろうか。
79年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とエズラ・ヴォーゲルが著書で持ち上げ、
竹下大蔵大臣は85年のプラザ合意でも鷹揚な態度で円高を容認した。
専業主婦から職場へと進出を果たしていった女性たちはその後、
大衆を形づくるのにどんな影響を及ぼしていったのだろうか。
私の偏見と独断を少し交へて――
ある女性の曰く。
アルバイトとかお勤めに行く隣近所の人たちがまぶしく輝いて見えた。
私もちょこっと働いてみた。
でも、何か大事なものがあると思って家に戻った。
家のなかには片付けなければならないことがこんもりと山ほど連綿と続いていく。
子育ては無我夢中だ。
お母さんが家に専用で居て何が悪いのだろうか。
男女雇用均等法は体のいい言い訳だ。
亭主の稼ぎが減ってきたころから、
おかあちゃんも仕方がないから働きに出なければならなくなった。
かあちゃんが外に出て市場に接していれば、
かあちゃんが家の中に居て市場に接していない場合より、
かあちゃんの「性」は高くなるだろう。
妙ないい方になるがかあちゃんが家に閉じられれば閉じられるほど
かあちゃんの「性」は安くなり、とうちゃんの独断となる。
戦前においては共働きといっても多くのお母さんは
家においての関係特殊的仕事に専念していた。
子どもは普通でも5人くらいは当たり前だった。
お父ちゃんとおかあちゃんの世間の市場に対する情報の落差が、
家においての父親の圧倒的権威につながり、
狩猟時代と同じように女性はまぎれもなく生む「性」になったのだ。
幸田文の「流れる」を読む。
抑えられた男女の性差を際だたせることで、逆に男女のあやうさが際立ってくる。
性差のエネルギーとは差別でもなんでもなく、もって生まれたエントロピーの理論のことである。
なりなりてなりあまりたるところが、なりなりてなりたらざるものにうち重なりついに落ち着く。
江戸時代から続く女性の所作が、蒲団を抜け出るところから、
畳のへりをめぐるとき、障子の開けたてにも表れてくる。
女性は男性のなかで限りなく庇護する対象となり、
男女の中にただならぬ圧力が発生してくることになる。
ところが、1992年度の国民生活白書で少子化という言葉が使われ、一般に広まった。
1995年に生産年齢人口(15~64歳)が最高値(8717万人)となり、
1996年より減少過程に入った。
ジェンダーを振りかざす、一見民主主義を装ったTV文化人らもそれに加担した。