雄ちゃんへ
明けましておめでとう。
いよいよ今年も始まった。
与野党のお伊勢参りや神頼み
由紀夫さんに引き続いて野党の谷垣総裁までお参りに。
みんな清々しくなったか。
豊受とようけの大御神を祀る外宮
(豊受大神は保食神うけもちのかみ=五穀豊穣の神といわれている)
日本書紀の神話伝承によると、
保食神が五穀(稲、粟、稗、麦、豆)、蚕、魚、鳥、牛、馬を生み出した。
北御門にほど近い参道に、白装束に身をつつんで厳かに参進する
禰宜以下三人のすがたが朝夕おなじ時刻にあらわれ、
天照大御神をはじめ神々に食事を献納する「日別ごと朝夕大饌みけ祭」が執り行われる。
米や野菜、果物、干物、酒、水などの供物は伊勢の土地ではぐくまれたもの。
あつらえるとき火を熾すのは神代の昔どおり、檜の板にヤマビワの心棒をこすり合わせる。
なにひとつ変わらない日々の営みがあってこそ、清新は引き継がれる。
伊勢神宮はこうしてみずからを「常若とこわか」へ導くのだ。
背の高い御垣に隔てられ、祭祀のようすを目にすることはできない。
しかし、参道に佇んでいると、神様のお台所忌火屋殿いみびやでんの屋根を伝って、
熾った火から立ちのぼり空に放たれてゆく白い煙が映った。
この煙は、明日の朝も次の朝も、千五百年前と変わらない。
さらには、二十年ごとに社殿をすっかり新しく造営する大祭、
式年遷宮はその二十年をかけてしずかに進行する。
沈黙のなかに身を潜めるようにして、粛々とたましいを調える。
それは自分の清新を護るための果敢な策なのだ。
またはいっとき静穏のうちにこもって雌伏し、
新たな季節の訪れに備えるのも一つの策にちがいない。
(平松洋子09,12/26日経)
日本の装置としての天皇家。
神々との交信。
“であるかのような”存在。
234年、陰陽五行をよくする諸葛孔明が五丈原で病死した。
239年、「魏志倭人伝」に、卑弥呼の使いに魏の皇帝が鏡百枚を贈った、とある。
三角縁神獣鏡である。
「鬼道を事とし、能く衆を惑わ」し「骨を焼いて吉凶を占う」――
卑弥呼が亡くなったのは
247年とも248年とも云われている。
ところが、この2つの年に皆既日食が起きている。
皆既日食。昔は“穢れた光り”だった。
邪馬台国、卑弥呼はシャーマン。日の巫女。
魏志倭人伝によれば「奴隷=100人が卑弥呼ともに葬られた」。
さて、この“日の巫女”である。
黄泉の国から帰った伊弉諾尊いざなぎのみことは水辺で禊をし、
その時左目から太陽のようにこうごうしい天照大御神(高天原を)が誕生し、
次に、右目から月読命(夜を)が、鼻から須佐之男命(海原を)が誕生する。
日蝕によって権威を失ったか。
「天照大神」天の岩戸に入り、また出てくる。
卑弥呼はそのモデルか。
政権交代だったのか。
天照大神は使者を遣わし、大国主命に国を譲るように云ふ。
平安時代のころに大黒さまと呼ばれるようにもなる大国主命は
出雲の国の一大権力だったのであろう。
その出雲の祖先神が須佐之男命である。
高天原から追放された須佐之男命は根の国の川をさかのぼり、
八俣大蛇を退治し、尻尾から天叢雲剣をゲットする。
つまり、踏鞴たたらと鉄の技術があったことを想像させる。
ヤマタノオロチは深い山から激流となって流れ落ちた土石流のことかもしれない。
その土地の櫛名田比売くしなだひめと結婚し須勢理比売すせりひめが生まれる。
重要なことは海の向こうからやってくる。
製鉄の技術は海の向こうの朝鮮半島の新羅が先進国だった。
スサノオ尊の娘である須勢理姫すせりひめと大己貴命おおなむちのかみ(後の大国主命)は
出会った瞬間に結婚する。
スサノオの大己貴に対する無理難題が始まった。
野原で火をつけられたり、
髪の毛野中の虱を取れといわれたら、ムカデがうじゃうじゃいたりして・・・
須勢理姫はよく大己貴を助け、手に手を取ってスサノオのところから弓矢と琴を手に脱出。
スサノオは追いかけるが、
「須勢理比売を正妻とし、宇迦の山の麓に宮殿を建て、葦原中国を治めよ」
とついに娘を大国主命に手渡した。
天照大神の息子は天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと、
大黒さまは あわれがり/きれいな水に 身を洗い
(webより)
大国主命(大黒さま)は、二人の息子に相談するのですが、
初代神武天皇は瓊々杵尊の後三代目だとされる。
(webより)
(webより)
天照大神の息子は天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと、
その息子の瓊々杵尊ににぎのみことが天鈿女あめのうずめ(土着の神猿田彦神と結婚)らの先導で、
高千穂に降臨する。
さてこの“高千穂”とは明らかに稲作のことであろうと思われる。
瓊々杵尊は木花咲耶姫このはなさくやひめと結婚し、生まれるのが海幸彦、山幸彦。
因みに山幸彦は彦火々出見命ひこほほでみのみことと呼ばれ、
その孫が初代の神武天皇だそうである。
大黒さまは あわれがり/きれいな水に 身を洗い
/蒲の穂綿(蒲黄ほおうと呼ばれる漢方薬)に くるまれと
/よくよく教えて やりました
因幡の白兎は隠岐から鰐(サメ)をだまして因幡に渡ろうとします。
須佐之男命を祖神とする大国主命の兄弟神(八十神やそかみ)たちは、
八上比売やかみひめに求婚するため因幡の国に向かいました。
助けてもらったウサギさんは八上比売と結婚するのは大国主命であると予言する。
やはり海の向こうから何か重要なものがやって来たのだ。
出雲の辺りを平定した大国主命は越の国(ヒスイ、勾玉の糸魚川)まで出かけて助平をする。
大国主命の妻問い神話である。
越の沼河姫神ぬなかわひめのかみとの間に生まれたのが武御名方命のようである。
正妻の須勢理姫は大いに怒ったが大国主命は縁結びの神、艶福家として名前が残った。
(webより)
大国主命には二人の息子がいます。
兄が事代主命(言葉)で弟が武御名方命(軍事)です。
ヤマトの脅迫に屈し、大国主命が「国譲り」を決めたとき、
事代主命(恵比寿さん)は賛成しますが武御名方命は反対して出雲を追われ、
信州・諏訪にて天孫族に降伏したとされます。
その後諏訪地方を開拓し「諏訪大明神」として奉られ、
諏訪氏はその子孫として神事を司っていました。
つまり、天皇家と匹敵するほどの格式ある家柄であったのです。
大国主命(大黒さま)は、二人の息子に相談するのですが、
二人とも建御雷之男命たけみかづちのかみに太刀打ちできず、
結局、大国主命は建御雷之男命に、国を差し上げると言います。
「(出雲大社)高いところに祀られるなら、以後私は表に出ず黄泉の国に隠れていましょう。
神々のご神霊の世界は私が司る」
国譲りが成立した。
三種の神器が出揃った。
「鏡」「勾玉」「剣」、である。
初代神武天皇は瓊々杵尊の後三代目だとされる。
日向より出でて瀬戸内海沿いに大和を目指す。
生駒方面から大和に入ろうとするが、敵対勢力により阻まれて、
海を迂回して熊野にたどり着いた。
一緒に来た兄弟たちも次々に倒れ、難儀しているところを八咫烏が
神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。
(webより)
ところでこの建御雷之男命が、藤原氏の奉る神なのです。
奈良公園にある藤原不比等が建立したとされる春日大社には、
建御雷之男命が主祭神として奉られています。
出てきましたね。
藤原家が――。
(webより)
第10代天皇が崇神天皇で、
倭姫命やまとひめのみこは第11代垂仁天皇の第4皇女。
天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。
(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、
ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。
ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を
順次奉祭した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。
後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に天叢雲剣を与えている。
第12代景行天皇の息子が日本武尊になる。
第13代成務天皇(日本武尊の弟)
第14代仲哀(奥さんが神功じんぐう皇后)
神功皇后は、神託により、熊襲征伐より、百済を領地とする方が良いとされ、
朝鮮征伐を優先させることを決心します。
391年、出産間近であった神功皇后は、腹帯をきつく締め出産を遅らせ、
兵士を鼓舞するため自ら先頭に立って戦い、朝鮮半島の南部を支配下に治めます(高句麗・好太王碑)。
帰ってきて生まれたのが応神天皇。
第15代応神天皇のときに(395年ころ)王仁わに、阿直岐あちのおみらによって儒教が伝わった。
第16代が仁徳天皇(425年)となる。
(webより)
稲荷山鉄剣に、「辛亥、獲加多支鹵わかたける大王」の文字あり(471)。
倭国王が方物を献ずる(宋書「倭国伝」477)。
武が上表し、安東将軍・倭国王に任じられる(宋書「倭国伝」478)。
「讃(さん・履中)、珍(ちん・反正)、済(せい・允恭)、興(こう・安康)、武(ぶ・雄略)」、
倭国の天皇の名が漢字一字で表されています。
漢字一字の「倭の五王」を倭国のどの天皇に対応させるか諸説ありますが、
済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇が有力なようです。
しかしまた、天皇家の系譜に危機が訪れたようだ。
荒ぶるクニ津神はまだいたるところに現れては、中央朝廷を悩ませる。
あやうい系譜に越のクニより継体天皇(26代、507年)が大和に乗り入れる。
ひょっとしたら、と思うのである。
継体天皇は、勝手な想像ではあるがあの――大国主命と
越の沼河姫神ぬなかわひめのかみとの間に生まれた武御名方命の末裔ではなかったろうか。
538年、仏教が百済から伝わってきたのは欽明天皇のときである。
我が国の天皇家における「万世一系は」この継体、欽明帝より後のことになる。