雄ちゃんへ

嘘つき少年はついに誰も相手にされなくなった。
鳩なのに「オオカミ少年」もはや今嘘つく子どもたれも相手に
鳩のやうに取り繕って相手をだます。
嘯く、しれっとしたそのどこを見ているのか、何を考えているのか分からない表情。
平時の首相でまだ良かった。
戦時の首相ならもう戦場のいたるところに累々たる屍が積み重なっているに違いない。

クリントン米国務長官21日(雪)、
国務省に藤崎一郎駐米大使を呼び出し、
現行の合意履行を求める米政府の立場に変更はないと伝達した。
11/13日オバマ大統領、来日。
「trust me」鳩山
翌日APEC会場で、
前日の日米合意を「重く受け止めている」
「大統領はそう思いたいのだろうが」と覆した。
煮え湯を飲まされ)
12/17日デンマーク「COP15」デンマーク女王主催の夕食会で
クリントン長官と隣り合わせ「理解していただいた」
(「新たな移設先を探す日本政府の方針に理解を得られた」と首相の説明。)
12/21日は大雪で米政府機関は閉庁中にもかかわらずお呼び出し、
再度「現行の合意履行以外はない」
「理解していただいた」は“でっち上げ”と暗黙のうちに、
それへの抗議は鳩山首相を「うそつき」と断定したに等しい。
■日米同盟を揺るがしかねない事態にもかかわらず鳩山内閣の危機意識は薄く、
打開への道筋は見えない。

おさらいをしてみたい。
1950年になると「講和条約」を結んで独立しようという機運が強まってきた。
吉田茂首相の指示で渡米。
米財政・経済の視察という名目だった。
吉田茂側近の白洲次郎宮沢喜一が随行。
50年は参院選の年だったが、ドッジラインの影響で不況が深刻になっていた。
渡米の本来の目的はドッジラインの緩和を求めることだった。
当時はドッジでないと何も決められなかった。
池田さんは渡米に際し、講和条約の早期締結をにらむ吉田さんから極秘の『特命』を受けていた
「独立後も米国に基地を提供してもいい」
ということを日本側から提案する用意があるという、吉田茂のメッセージ
(宮沢喜一06,4/9「私の履歴書」)
5月「特急はと」東京・大坂間を約8時間で結ぶエース車両として5月に登場。
復興国鉄のシンボル。

ジョージ・ケナンは対ソ封じ込め論者。
1950年、ケナンはシカゴ大学で講演し、
国際問題に対する「法律家的・道徳家的アプローチを重大な誤り」と指摘。
国際法が主権国家の野心を抑制できるという考えを批判する。
「勢力均衡が平和をもたらす」
米国側の【対ソ強硬政策】への転換を促す知恵袋の役割を果たした。
ただしケナン氏は「封じ込め」マーシャル・プランのような
政治的・経済的な方法で構想していたが、
実際の米国の政策は、北大西洋条約機構(NATO)の結成など軍事色を濃厚にしていった。

ジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫)では
19世紀の思想家、トクヴィル
「対外問題について
非常にあいまいな、あるいは誤った見解を抱く傾向
または純粋に国内的配慮に基づいて外交政策問題を決定する傾向は、
民主主義の本質から生ずる場合が非常に多い」
との言葉を引用する。
そして米国外交に関して以下を指摘する。すなわち、
1898年米西戦争
「厳粛かつ慎重な考慮」や「国家的利益について細心かつ系統的な評価」
が不十分なまま開始された。
1930~40年代に日本が排除された後の空白への準備を欠いていた。
➲ベトナムのホーチミン大統領を共産勢力の単なる傀儡と誤認した。
一般に政治的要因を軽視し、全面勝利を狙って軍事的要因を誇張する傾向があった。

冷戦までは国家対国家の交渉が主で、
相互に国家理性を信じあう限り、体制の相違をこえ戦争を回避し、
バランスを保つ可能性があった。
核の傘の下で第三次世界大戦暴発を回避できた。

「原爆はしょうがなかった・・・」という発言があった。
原爆投下と久間(防衛大臣)失言(柴田翔・作家07,11/27日経)
私たち旧世代の日本人なら当然知っているはずいながら、
意識するのは後ろめたくてあえて忘れたことにしていること──
久間失言はそれを、言葉足らずに真っ正直に、あえて明るみに出してしまったのだ。
■アメリカは原爆投下で戦後の東西対立へ先手を打った。
そして敗戦国日本はその東西対立の西側に属し、
原爆を投下した当のアメリカの核の傘に庇護されることによって、
社会主義の独裁と停滞へ飲み込まれることなく、戦後の発展と繁栄を享受してきた。
しかし、今でも東アジアではひとり孤独な日本は、
アメリカとの同盟的関係維持を念頭にしている。

その後の日米安保条約への影響として、
条約派(リベラル派)〓日米安保条約の法的枠組みを重視する。
経済的相互依存の深まりや民主主義の広がりが平和をもたらす。
同盟派(リアリスト)〓日米同盟の戦略的現実を重視する。
岡本行夫元首相補佐官
環太平洋を担当する米陸軍第一軍団司令部のワシントン州から神奈川県座間市への移転。

金日成は朝鮮戦争を始めるとき、
スターリンに相談を持ちかけ、宗主国毛沢東には内緒にした。
武器弾薬は船で運び込んだ。毛沢東に気付かれてしまうからだ。
李承晩を日本海に叩き落せば、
北朝鮮はもはや中国の属領でも一介の朝貢国でもない」
「北朝鮮は中共を守る壁だ」
かくて100万民解放軍が戦場になだれ込んだ。
それを目撃した米軍兵士はマクベスと同じ言葉を呟いた
「山が動いた」
どんなに弾を撃ち込もうと彼らはチャルメラの笛に合わせ、
百人横隊の隊伍を崩さずに突き進んでくる。
北朝鮮拉致被害者=83000人
建国に役に立ちそうな「エリート達」を連行して行った。
米軍はこの3年間の戦いで=3万6000人を失った。

ポツダム政令として
★警察予備隊令を施行する。
1950:警察予備隊(マッカーサーの要請を受けて)。
1952保安隊
1954自衛隊(保安隊・警備隊を発展させて)

「公職追放」レッドパージが吹荒れた。
当時は革命が近く、組合が権力を握るという幻想がかなり流れていた。

ダレス(米国務長官)が来た。
対日講和問題で51,1/31日吉田茂首相と。
日本に再軍備を…
「新憲法 棚の達磨も赤面し」(吉田茂)
平和憲法を押し付けたのはあんたがたじゃない・・・
■当初、重光葵外相らが平等の『双務条約』にしようと考えたが、
ダレス米国務長官に「そんなことを言っても日本はできないではないか」と一蹴され、
岸信介もあきらめていたが・・・。
吉田茂はGHQへの主体的対応を強調して、
「敗まけっぷりをよくする」と言ったことはよく知られているが、
その後の日本は、「文化国家」「平和国家」「技術大国」として再生する道を選択した。

1951,9/8日サンフランシスコ講和会議
☆日米安保条約(片務条約)締結時<
吉田茂f、仏外相に「松方コレクション」の返還を求める。
「日本の独立を承認する」─盛大な拍手が・・・。
「日本における米軍の駐留と基地の提供の許与を受諾する」
「日本の自主防衛の漸増を期待する」
■サンフランシスコで吉田さんが講和条約に調印し、
その後に一人で「安保条約」にも調印した。
吉田さんは急に日本語で演説することになり、
後にトイレットペーパーの様だと有名になった長い巻紙の原稿をみんなで作った。
全権随員に―池田勇人白洲次郎麻生和子(吉田茂娘)、宮沢喜一
(06,4/9日経「私の履歴書」)

「日本の工業化阻止」から
「東アジアにおける自由主義陣営の産業拠点化」へと転換。
日本は急速な産業発展を遂げるとともに、
日米安全保障条約により、実質的に自由陣営の抑止力の一端を担うことになった。
「正義論」を書いた米国の哲学者ジョン・ロールズ
日本人の戦争責任に関する論文がある。
「立憲君主制下の議会に国民が代表を送り込むうえで、
国民が思う人に自由に投票できる状況だったら国民に責任がある。
そうでなければ責任がない」という結論を出す。
当時大政翼賛会の推薦がないとほとんど当選できなかった。
■日本の戦後の出発点は日本が主権を回復した1951年サンフランシスコ平和条約
日本は東京裁判の結果を受諾
日本の独立とひき換えに米国などが日本に対する賠償請求権放棄した。

共の砦への大変換の後、
朝鮮戦争も終り高度経済成長への足がかりを得た日本は、
戦後の岸信介などの或る時、
政官財のトライアングルや米国のあからさまな後押しもあって、
日本の一大日本帝国主義への揺り戻し
憲法再軍備か)のような場面もあった。
■しかし、結局は花(理念、理想)より
団子(パン、今日の暮らし)を庶民は選ぶ。
岸政権の後、経済首相池田勇人が就任した。
所得倍増である。

戦前からいろいろな意味合いで日本が他国と同盟を結ぶ場合
それは当の中国を含めてでさえそうだが、
中国が要の問題になると考える人がいた。
松本重治1936年
中国現代史を変えた「西安事件」という国際的なスクープを放ったことで知られる。
国民党軍を率いる蒋介石が西安郊外の温泉地で部下の張学良に監禁され、
後に共産党と一致して抗日で戦う契機になった事件である。
当時、同盟通信社の上海支局長だった松本は、
上海で、この情報を中国の親しい友人から入手した。
■ジャーナリストは彼のまさに天職だった。
資質、性格、経験や勉強量、それに人脈などがすべて試される。
スクープは偶然の賜物ではなかった。
■松本の米国留学時代の恩師、チャールズ・ビーアド教授は
「日米関係の核心は中国問題である」との言葉を述べている。

1960年――
米艦船の寄港、領海通過をめぐる「密約」。
それらを核の「持ち込み」に含むかどうかは実は日米間で詰めなかったという。
米側はそれらは持ち込みに当らないと考え、
日本側は赤城宗徳防衛庁長官1960年の国会答弁で
「事前協議対象」と述べ、持込に当るとの見解を一方的に表明した。
つまり、日米がこの点について異なる解釈をしてきたのであって、
したがって、秘密の約束という意味の「密約」はなかったということになる。

しかし、とにかく日米安保の双務性は確認された。
日米同盟は米国に日本防衛の義務があり、
日本に基地提供の義務があるという本質を理解。

1964年東京オリンピックが大成功裡に終わった直後、
中国は初の核実験を行い成功させた。
1966年からは中国では「文革」の嵐が吹き荒れる。

1965,2月、米国はベトナムの北爆を開始した。
1965,6月「日韓基本条約」調印

1967年第三次中東戦争が勃発し、アラブ諸国はイスラエルに大敗した。
片目の黒い眼帯のダヤン国防相はエルサレムのイスラエル支配を宣言したが、
イスラム、ユダヤ、キリスト教共存を認める。
ナセルのエジプト・アラブ連合は大敗北し、
スラエルは完勝し(シナイ、ゴラン、西岸、ガザ)を占領し、その後の入植につながった。
自信を失うなかパレスチナのアラファトが登場する。

1968年空母エンタープライズの佐世保入港で日本国中がてんやわんやに、
佐藤栄作首相「非核三原則」を表明した。
「核兵器の開発は行わない、
持ち込みも許さない、
これを保持しない」と表明した。

1970年「核拡散防止条約」(NPT)が締結される。
核保有国の特権維持的性格であったが、とにかく世界はその方向へ一歩踏み出した。
日本は、1976年に批准する。
1970年のこの年には赤軍派のハイジャック「日航よど号事件」があった。
「北帰行」を歌った連中は北朝鮮の金浦空港に降り立った。

1971年「沖縄返還協定」の調印がすすめられた。
因みに――
1953年「奄美返還協定」に伴う日米合同委員会の秘密議事録
1968年「小笠原返還協定」時の三木武夫外相、駐日米大使の秘密口頭了解
1969年の沖縄返還が決まった日米首脳会談時の秘密合意議事録
等々「返還交渉には密約がからんでいる。
核が根底にあり、このころの空母は原子力空母エンタープライズだった。

1976,11月、三木内閣、防衛費=GNP1%枠内を決定

1978年、物価上昇や円高で在日米軍の負担が重くなったことを受け、
当時の金丸信防衛庁長官
「日米関係の信頼性を高めるのであれば思いやりがあってもいい」と表明。
思いやり予算は1978年に始まり、
日米地位協定などに基づいて米軍基地で働く職員給与のほか、
米軍の光熱費訓練移転費などを負担。
2009年度予算には=1897億円(契約ベース)が計上された。
■78年から総額=5.8兆円

1987,1月中曽根内閣、防衛費=GNP1%枠内を撤廃

1978,12月鄧小平の掛け声で始った
「改革・解放」は中国国内に民主化運動のきっかけとなる。
1989,6/4日天安門事件が起こった。
1989年、東欧の民主化ドミノが起こり、ついに
11/9日東西ベルリンの壁ちた。

91,1月海部内閣湾岸戦争で多国籍軍に総額=130億㌦支援
※小切手外交と揶揄された。
92,6月、宮沢内閣でPKO協力法(国連平和維持活動)が成立。
9月に自衛隊のカンボジアPKO第一陣が出発。
■すでに休戦協定が結ばれている地域に
国連平和維持活動に従事する文民や自衛官を派遣できるという法律で、
野党の激しい反対を退けて国会で成立させた。

95,8月、戦後50年で「村山談話」を発表。
しかし、日本は近隣諸国、特に韓国、中国の間で戦争の総括がきちんとできていない。

橋本氏も属した竹下派も、安全保障よりも国内経済に関心が強い、
脱イデオロギー集団だった。
一方、経済優先主義と日本たたきで選挙に勝った
クリントン大統領は日米同盟を強化した。
96,4月クリントン大統領は、東京で橋本龍太郎首相とともに
[日米安保共同宣言]を発表した。
日米同盟の強化はここに始る。
「安保条約は冷戦の遺物ではなく、冷戦後の地域安定の基盤だ」
橋本龍太郎首相は宣言した。
共同宣言を踏まえて新たな「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)ができ、
それをもとに[周辺事態法]ができる。

続きます。