われわれがずっとこだわってきたのは客体か主体か、である。
それは明らかに死、という存在から発している。
死があるのにそれ以降も周りにあるすべてのものが
確実にゆるぎなく存在し続けるであろうと思われるからである。
ご先祖さまはそれらのすべてのものにこだわった。
人類は石器時代のもっと前から、砂漠地帯で、熱帯雨林で、
細々と肩を寄せ合って生きてきた。
風雨や嵐、地震や火山、食べ物はいつも底をつき、
自分たちさへも食物連鎖の途上にさらされていた。
その上寒さは寒く、暑さは暑く、夜は深く闇は暗い。
ネアンデルタール人は歌うやうに子どもをあやし、恋人を誘った。
ホモサピエンスは長い咽喉を獲得し、音声は文法を獲得するに到った。
しかし、パロール(話し言葉)すなわち無文字時代が長く続き、
社会ができてからロゴス、ようやく「文字」ができた。
黄河流域にロゴスが生まれ、揚子江流域にパトスが生まれたとされる。
遊牧民は黄河に下りて、さらに農耕稲作のパトスと合体した。
契約・交換の民が、ご先祖信仰、神儀・芸能の民と婚姻を遂げ、
中華5000年の文明が誕生した。
しかし、旧石器もアルタミラもそれよりももっとずっと先のことである。
モーゼはどこにいた。
キリストが生まれる原型となった旧約聖書の地はいかにも厳しく過酷な自然状況だったように思われる。
排他的一神教はみんなこのような地で生まれるのだろうか。
「汝、姦淫をするなかれ」と寛容でない一神教はやがてイスラム教を親戚とする。
太陽に月に、すでに地球上にはいたるところに神々が生まれていた。
宗教は植物や動物の進化と同じように地球上のさまざまな地域で
そのそれぞれの環境や自然状況に適応するかのように進化を続けた。
そして、それを為政者は好むようになった。
紀元前7、800年前のころ、ギリシアの辺りには多くの都市国家が栄えた。
それまでの3000年くらい続いた地中海文明を
一気に300年くらいに縮めたあらゆる文明の範囲での概念化が進んだ。
いままで何千年もの経験原則が見える化、数値化され定義付けされたのだ。
自由な都市文明の中ではさかんに議論が交わされる。
古代哲学では、ヘラクレイトスのロゴス(語られるもの・論理とか真理)の思想の影響下に、
イデア論(世界観、理念)を構想したプラトンを批判的に継承したアリストテレスが、
第二実体 (普遍者) と第一実体 (個物に対応) との区別を提唱し、
これが継承される形で、中世哲学で、本質存在と現実存在との区別が説かれるようになった。
客体と主体が出てきた。
奇しくも仏教の世界でも唯心論と唯物論は語られる。
金剛智があり胎蔵界がある。
心を突き詰めて行くと何になる。
色即是空となりさらさらとさらさらと時空が流れてゆく。
すべてのものは輪廻転生を繰り返し、
減りもせず増えもせず宇宙に満たさされたエネルギーは一定である。
一方で、ヨーロッパの地ではゲルマンが大移動をし始め、
古代の神話はケルトの古層奥深くへ隠されたかのようだった。
6、7世紀頃になると多くの神々たちが婚姻したり、
M&Aのはてに近代化され、政事のなかに取り込まれ、
宗教も大きく分けるとキリスト教、イスラム教、ゾロアスター、ジャイナ、仏教、儒教、
くらいに絞り込まれてゆく。
中国の儒教とは垂直的思想なのではあるまいか。
結局は上下関係の秩序を重視するあまり、
水平思考においても中華でありそれに対する朝貢という発想しかもたらさなかった。
1840年のアヘン戦争の西洋文明対儒教文明の衝突は象徴的な出来事であった。
いわゆるカントのいう「人格」とは責任の帰趨するところの「主体」である、
とするならばここにおいて
儒教はあまねく中国において庶民の端々に至るまですでにして「客体」化されていた。
つまり西洋の主体とは自由と責任とに結びついている。
戦う人、耕す人、王様のほかに商う人、銭を蓄え、数えたり利息を計算したりする人たちが現れた。
王様は戦争が好きで兵隊さんを養うためにもおカネはいくらあっても足りない。
商人たちは王様におカネを貸し、ますますお金持ちになっていった。
「都市の空気は自由にする」。
こうしておカネと力を持った多くの商人たちが住む都市が地中海のあちこちにできていった。
城塞の中では法律を勉強する人も出てきた。
ロゴスを持ち貨幣を蓄え、法理と論理で王様以上の力を持つ人たちが現れてきたのである。
ヨーロッパの中世の暗闇は混沌として長く続く。
十字軍やペストの後のルネサンスの明るさはつかの間一つのきっかけとして、
その後のまた長い宗教戦争がある。
大航海時代のあと、しかし、海を制するばかりではなく新たに産業を起こし、
都市改造を進めた国がこの戦争に勝ち残った。
結果として契約や、私有財産の保護など商売に有利な新教のプロテスタントが勝利を収めた。
地中海経済は落ち目になりイギリスやオランダが勢力を伸ばした。
客体は進む。
東インド会社が歴史上初めて株式会社という形を発明した。
「それでも地球は回る」とガリレオが云い、
王様の首を一番早く切り落としてイギリスが議会を立ち上げ、
「プリンビキア」のニュートンは南海株式会社のバブルで大損を被ったりしたが、
王様の首を切り落としたイギリスが一番早くやはり産業革命を引き起こすことになった。
主体から切り離された客体がどんどん出来てくる。
株式会社、議会、憲法・・・国債などの証券、蒸気機関、などなどである。
1776年、A・スミスの「富国論」のこの年、
米国は独立しアメリカ合衆国は宗教の上に共和を置いて、
この国に入ってきた人たちは負けることを恥じるな、再度挑戦の機会と機会平等を謳いあげた。
1848年、マルクスの『共産党宣言』では
生命・心・社会などに関する一切の現象を
物質的諸条件とその法則性のみによって規定しようとする。
格差や不幸があったり悲惨があったりするのは
産業革命と貨幣的現象が資本家と労働者を析出し、
「労働は価値」であり資本家はより多くの富の蓄積を求めて労働者を工場に囲い込んだりしたからだった。
分業化は進み、労働者はより多くのものを生産すればするほど自分の価値は下がった。
機械は想像力を欠いて、人間自身を機械化した。
賃金とか失業とか劣悪な環境での疫病とかは神や悪魔の仕業ではなく
そうした物質的、物理的現象が引き起こすものである。
資本主義は人間のエゴイズムに基づき、
市場経済ではその敗者になる恐怖さへもテコにして競争社会へ駆り立てる。
心の中の出来事も数量的にとらえられ、
ここに「民」と「神」との関係は取り払われて、
必然的革命的諸要件を備えた「人民」(プロレタリアート)が生み出された。
神はこのとき死んだのだ。
交戦権を持った国民主権の国民国家が台頭してくる。
生産性を著しく高めた国家の富国強兵と覇権的植民地主義である。
帝国主義は強力な父性を現している。
第一次大戦はビスマルクやロシアのアレクサンドル2世のごとき
父性的政権の行き着く先の暴発だったのではあるまいか。
根底には新たな国家主義があった。
ビスマルクにおいては
「国家とは血と軍隊」“「鉄と血が、運命を決定する」”
であったのである。
これ以上の有無を言わせない父性はあるまい。
「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ 」( ビスマルク)
この言葉は、社会主義を弾圧し、保護主義を採った政治家である
ドイツの鉄血将軍ビスマルクの有名な言葉である。
また、この場合の「歴史」とは一つの客観に似ている。
クリミア戦争では苦労したアレクサンドル2世であったが、
農奴制を改めたり、ほかにもロシアの近代化にはずいぶん貢献した。
そのロシアで金貸しのばあさんが殺される。
『罪と罰』のラスコーリニコフである。
宗教が内なる力(パトス)なら、法と論理が外なる力(ロゴス)。
ラスコーリニコフには老婆殺しの実感がない。
私が神の一部ならば何をしても許されるのか。
犯意は法と論理という外的な力によって徐々に実体化されていく
(「私が殺しました。そのとおりです」)。
ラスコーリニコフは漠然とした父性なる秩序に対して自分の存在証明を突きつけた。
フロイトの父親殺しの父親とはユダヤ人のフロイトにとって、
それはモーゼのことであった(「モーゼと一神教」で)。
フロイトは、「父親殺し」とその贖罪のための「超自我」への屈服を理論化した。
超自我とは自我以前の「自我」、つまり親の置き土産のようなものに思われている。
誰も人間行動の二重の動機と,終わりのない支配に執着する快感原則から逃れられない。
父親殺しさへも神の意図だったのか。
家にには相変わらず「性」と「生殖」が置かれている。
父モーゼに対して“三位一体”は母性をうかがわせる。
はて「神は死んだ」と言うニーチェだが、ここにきてフロイトとニーチェは渾然一体となった。
ツァラトゥストラは言う。
「苦しみは/泣き叫ぶ、なくなれ、と/
だが、快楽は永遠を求める/消えない,永遠を」
(文芸春秋『インタヴューズ1』p382より)。
父を殺し、母を犯し、自分の眼をつぶし荒野にさまよい出るオイディプスのやうだ。
さらにドストエフスキーでは
「神がなかったら、神を創り出せばいい」
と主人公たちに言わせる。
大陸横断鉄道ができたころの後のアメリカはまだいい時代だった。
トクビルの訪れたアメリカ、「大草原の小さな家」のころまでは良かった。
禁欲的で愛情深く敬虔なプロテスタント達は地域共同体的なデモクラシーを形づくっていた。
だが1900年も過ぎるとアメリカは変容してくる。
ちょうど石炭から石油への転換期に重なる。
ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、
カルヴィン主義の禁欲が資本主義の合理的営為を生んだとする。
しかし、執筆途中で渡米し、ヴェーバーがアメリカで見たものは
近代の行方が獣たちの鉄の檻の中のようなものにも見えた。
次第に世俗化した西洋の近代化というものが立ち現れてくる。
Jazzとタバコとアルコールと享楽である。
一方イスラムは「神に自ら委ね、神の法に従うことが前提であり続ける」。
そして西欧の誇る理性がその根底に支配と抑圧を含んでいたことをアドルノは主張する
(「啓蒙の弁証法」で)。
しかしアメリカはプラグマティズムの方を選んだ。