09,10/3(土)小雨のち快晴へ
5:30起床、ガスに小雨である。
6:00朝食、お昼の弁当を頂く。
外表のパイプを渡した水道のシンクで傘を差したまま歯磨きをし、冷たい山水で口を漱いだ。
自家発電のダイナモの低いモーターの回転音、
シンクから見渡せる斜面は大きな石塊が無造作にぶん撒かれたように積み重なってカールの底をつくり、
淡い乳白色のガスが生き物のやうにうごめきながら流れやってゆく。
階下のストーブのところで靴を乾かしたりしながらゆっくりと出かける準備をした。
今日は奥穂高を目指すが、時間はたっぷりある。
それに、まだいつ晴れるのかどうか分からない。
玄関で記念写真を撮り合い、8:00の出発となった。
別館を出て右に、すぐに棟を囲む石垣の上に出る。
前方がカールの底になっていて、雪渓が広々と広がっていた。
緩やかにいったん雪渓まで降り、スプーンカットの雪渓を渡った。
最初の石に足を掛けるとそこからがザイテングラードを目指すパノラマコースとなった。
それほど急斜面ではないが大きな岩や石の間をじくざくと登り、左方面に一度流れてから、
山の際を少し続けて登った。
それから右の方に開けた斜面を大きくトラバースするように登っていくことになる。
とにかくナナカマドの紅葉が雨に打たれ、
葉っぱが雫をためてさらに鮮やかに輝きだすようで、
思わず何度も足を止めて見入ってしまうのだった。
パノラマコースとナナカマド
カールの底は無風の上、低気圧は南の熱帯を運び込んだのか、
小雨の中で合羽の下は蒸れるようで汗が噴出してきた。
大きな平たい岩があるところで右の涸沢小屋からのルートと合流する。
石の上に立ち、胸に風を入れ、水分を補給して休憩をとる。
穂苅さんは涸沢小屋ルートから登ってきたご婦人二人と短い会話をする。
和田さんもまだまだ元気だ。
ザクに割られた石や胸ほどの大きさの石などが階段状に敷かれていたり、
時に径は手入れがされている。
ゆっくりと同じテンポで歩幅を進めて行くしかない。
径の上でも下でも草紅葉が始り、
ガスか小雨に露をびっしり含んで、近寄ってみると玉の雫はきらきら輝いていた。
石の下にとか、思いもかけないところにちょこっと生えていたりするのを見かけると、
そっちでも私を呼んでいるような気がして、また足を止め、
一入感慨に耽ったりするのだ。
例えば露にうちしおれているイワツメクサのことを考えてみた。
イワツメクサの経済はどうなっているのだ。
こんな途方もない高地で、一年の大半は寒さも寒い極悪の環境で、短い夏を楽しむ。
大きな集団とて無く、広範な生産性があるわけでもない。
それを証拠におそらくは長い進化の過程で自分で選んだのであろうがこの高地で、
爆発的に繁殖しているという風でもない。
経済とは何ぞや。
あらゆる生物にはそれ相応の経済が伴っている。
人間界ではそれを暮らしといい、植物の世界では成長というのだろうか。
光合成をし代謝をし成長をし、或るものは実を結び、或るものは根に蓄える。
いずれにせよ、子孫を残すための戦略には違いない。
チングルマと草紅葉
人声がし、小雨の中をどんと立ちはだかる岩の丘陵のごときがある。
いよいよかの話には聞く有名なザイテングラードに取り付くことになった。
長くトラバースしてきた径を、丘陵の小高い肌に沿って左によじ登るようにすると、
ザイテングラードの始まりの丘の上に立った(9:30)。
「和田さん、いよいよですね、ワクワクですね」と云うと、
「ワクワクじゃなくてドキドキだよ」と髭もじゃの顔は笑った。
坂を這い登る時に眼の前に山苺が一粒、赤い実をぶら下げていた。
指で抓んで採ってきた苺を、ご年配ということで敬意を表し、不老に差し上げる。
小雨も切れて、曇ってはいるが陽の明るみに苺はルビーのように輝いた。
和田さんも私も、ヒュッテからここまで差し続けていたアンブレラを閉じた。
ちょうどいいタイミングで両手が空くことになったのだった。
這い松がところどころに、
そしてよく見るとたまにコケモモが咲いていたりヤマハゼも紅葉を辛うじて添えていたりするのだが、
もう全く大きい岩石が縦横に立ちはだかってくるのだった。
和田さんのペースは急にゆっくりになり、慎重になった。
足場を確保し、手袋の手で行き先をまさぐる。
ありがたいことにこの前日からの激しい天候の所為か、
ザイテングラードの巌稜に取り付いているグループはほとんど見かけない。
それどころかほとんど貸しきり状態のままで、
急かされるわけでもなくしごく自分たちのペースで登って行けることになった。
しばし息継ぎ 鎖場
鎖場 ハシゴ
おお、何ということだ。
世界が突然、激しい動揺とともに動いたのだ。
眼の前がすっと霽れた(10:00)。
四囲に何か急激な変化が、それも前触れも無く起き上がっているのが感じられた。
思わず振り返ってみたら、視界の至るところが、とんでもない事になっていた。
雲が自在に動き、あらかたはすーっとどこかへ消えて行く。
黒々とした、或いは藍色をした山塊が白い雲海の中から突き出るように姿を現して来る。
「あれは常念じゃないの」
「おお、あれは屏風岩・・・」
「するとこの右手に立ち現れたのは前穂だね」。
雲晴れ常念岳 雲晴れ手前前穂
我々は歓声を上げ、手をたたいて立ち尽くした。
なにしろ興奮の余り、ピントを合わせるのももどかしく、カメラのシャッターを押し続けた。
雲はたちどころに霧散し、
お山は見渡す限り青空に仕切られた。
お山は快晴になって、四囲や四壁のことがよく分かりやすくなった。
目指す方向には白出のコルが見え、その右に涸沢岳が聳え立った。
さらに視線を右に運ぶと北穂岳も眼に飛び込んでくる。
右下の鋭い広大な斜面には、枯れ色になった草紅葉がほのほとなって、
斜面を何度も駆け上がっていく。
「這い松の根方で遊ぶ雲雀かな」
あれは岩雲雀、人懐こいというか逃げもしないで足元までやって来て、
そして根方をちょんちょん跳ねているうちにしばらくしていつの間にか居なくなった。
草紅葉はカールの名物、幾筋もの流れをつくり、ほのほとなって山肌を駆け上がる。
10:23、合羽も脱いで、フリースも脱いで、上半身はもう薄い長袖ばかりになった。
山の全部が自分の懐のうちのものになった。
大きな深呼吸を何度もし、気分はますます爽快になる。
余裕の穂苅氏
もう、穂高山荘の代赭色の屋根が見え始める。
11:28穂高山荘に到着。
先に着いていた崎田さんをパチリ。







