09,10/2(金)雨
涸沢ヒュッテは砦のようでもある。
石積みの上、そしてその内側に低めるように建物の棟が寄添っている。
私らが宿泊するのは本館から山に向ってもう一棟を過ぎて三棟目になった。
石が割り組み敷かれ、通路のところだけ足スベリ止めのグリーンのマットが玄関まで敷かれていた。
雨は渦を巻いて激しく、白いしぶきの向こうにぼんやりと、
ガレ場が積み重なるように登りあがっているのがうっすらと見えた。
そして、本館を出て通路の左側で、その一段低いところが厠棟である。
夜中になっての話だが、頻尿の私は夜間ヘッドランプに傘をさして、
2回もこのトイレに通うことになる。
玄関は三畳ほどの広さで上がり框に向ってサンダルが散らばっていた。
「露を払ってから上がってくださいね」。
框の板の間のストーブでシャッツやら合羽などを乾かしている人たちから早速声がかかった。
何しろ一時も早くこの濡れた体にまとわり付いたものを脱ぎ、すっきりしたい。
雨露を払いながら「わぁ、靴の中がびっしょりだよ」と崎田さんは云う。
ストーブの上には紐が幾本も渡され、びっしりと色んな物がカラフルに吊り下げられていた。
雨具を小脇に階段を上がって2階の屋根裏部屋へ入った。
板壁で仕切られた部屋は軒に向って低く、
着替えようとして何度も頭を梁にぶつける。
壁に打ち付けられたL字の小さなフックに脱いだものや帽子やカメラまでぶら下げた。
布団は4人に3組である。
脱いだものを手近なフックや手すりなどに思い思いに掛け、
ようやく少し人心地ついたところで缶ビールで乾杯した。
妻が湯掻いてくれた茶豆が重宝した。
濡れて湿気ったカメラの手入れも大変である。
レンズはすっかり曇っている。
あれやこれやしているうちにすぐに1階から夕飯を報せる声が飛んできた。
食堂は本館にということだった。
玄関がつまり2階になるのだろうか、食堂は玄関のフロアーから下の階にある。
サンダルを脱いで受付のフロントを右に進むと、
食堂からは大きな吹き抜けになっていて、食堂が一望できる。
階段を食堂に下りていくと、四方の壁面に大きく引き伸ばされた山の写真が春夏秋冬に飾ってある。
吹き抜けのフロアーからさらに奥のフロアーに案内されて、壁際の席に僕等は座った。
乾杯である。なんと生ビール(800円)があった。
「ヘリコプターだよな、きっと」、誰かが云った。
全員が笑顔になった。
全員が笑顔
すべてのスタッフがきびきびとしているのだ。
案内する人、お運びする人、片付ける人、
おおよそはきっと山好きなアルバイトの人たちなのだろうが、
若い男女のスタッフは気持ちいいほどに伸びやかに働いている。
部屋はすぐに登山客で満杯になり、湯気がたつようにあったかくなった。
女性の登山客も半分近くは居るだろうか。
やはり中高年の方が多いように思える。
夜になった。ダイナモの低い音が夜の闇の下のほうから絶えず聞えてくる。
標高=2350㍍の漆黒の闇が押し迫るように取り囲んでいるのが分かる。
天井の屋根に叩きつける雨が、風に強弱をつけて踊り狂っている。
今夜が北アルプスを通過する低気圧のピークで、
おそらく夜半を過ぎたら収まっていくだろうとみんなは楽観しているのだった。
3組の布団に毛布と布団はお互いに横に重ねて掛け合い、
体をもぐり込ませて身を横たえると、しきりと
「除州、除州と陣馬が進む/除州居よいか、住みよいか
洒落た文句に、振り返りゃ/お国訛りのおけさ節
ひげが微笑む麦畠」
と背嚢を背に鉄砲を担いだ脚絆姿の兵隊さんが思い出されて仕方がなくなった。
先程の話では明日はさらに宿泊客が増えて、
この間仕切りの部屋だって3組の布団に6人が休むようになるとのことだった。
今でも一棟100人近い人たちが上下2階に横になって、
終夜灯も落ちたこの時間に、男も女も、糞袋と小便袋の体を横たえている。
「麦と兵隊」ではないが、多分兵隊さんはよく食べられるか、すぐにひり出せるか、
よく眠れるかにその一人一人の生存がかかっていたと思われる。
行く先々で体をお互いに隙間無く横たえて、雨に濡れようが何であれ、眠ってしまわなくてはならない。
ノミ、虱も縫い目縫い目にうじゃうじゃと、板壁の隙間を列になって這っ上って行く様も話には聞く。
しかし、どんな状態でも眠る、そして、食べ、いつ如何なる場合でも瞬時にひり出せる、
それが戦場で生き延びるための最大の要件になるのだ。
夜中に2回、起きた。
穂苅さんから借りたヘッドランプを手に、頭を梁にぶつけないように身を屈ませて、階段を降りる。
サンダルに足を入れるとそれだけでヒヤッとする。
外に出ると、常夜灯が点いていて、厠棟までは安心だ。
風もいくぶんか収まり、雨は今では霧雨のようになって降っている。
傘を差してヘッドランプを頭につけて、
夜更けての叱呼であった。
朝になった。ダイナモは相変わらず低く回っている。
誰かがストーブに火をつけ、湯を沸かし始める。
色々な部署でさまざまなスタッフが動き始め、
それにつれてヒュッテは息を吹き返したかのように活発になってくる。
ストッパーのような通路のマットを踏んでまた厠に向う。
乳白色の霧雨が辺りを包んでいるが、ガレの間間に生えている紅葉も今は眼に見える。
石段を降りてトイレ場に向った。
床のコンクリートが濡れていた。
ビニールホースがうねり、その先から水が流れ出ている。
トイレ棟を掃除しているのだった。
長靴を履き、合羽のようなものを着込んだ中年の男性がデッキブラシを手に、
私が問い掛けるよりも先に、顎で「向こうへ」としゃくった。
頬も青白く、不機嫌そうで眼に剣呑を含んでいた。
先の厠棟でトイレを済ます。
しかし、平均的な全部の幸福とは何だろう、とまた考えてしまうのだった。
多くのスタッフが働いている。
ぼく等が朝食に向かうころは、もう電気掃除機で部屋を掃除し始めるスタッフも居た。
手早く布団を上げ下げし、敷きなおして枕を確かに一式に二つ置いていく。
だが、この砦のようなヒュッテでもフロントの女性から、食堂の支配人らしき男性、
アルバイトの若い男女も含めて、まるで軍隊のようにきっちりとヒエラルキーが仕組まれているのだ。
そして、あの厠の掃除の中年の男性はその最下等にいる。
あの方は当番制などではないし、山が好きだからというわけでもなく、
明らかにそれのために仕事をしに来た、
というふうに今でも私にはそう思えてならないのである。

