09,8/26(水)晴れ
指一つ欠けても戦争の、戦場の痛さはこんなもんじゃないんだらうと考える。
埃臭き荒野で、粉雪舞い散る寒冷で、或いは熱暑のジャングルの地で、
およそ手当無き傷は、みな空にその傷口を開けた儘になり、
そしてすぐに蝿を呼び、卵は蛆となり、肉を破り、骨を齧かじるのだ。
私の傷はことごとく守られてゐる。
まず、どこを向いても戦争のことごとくの状態に於ける違ひとは、まず孤独ではないということだ。
傷が血を吹いた儘置き去りにされることはない。
私の傷は家族に守られ、友人が気遣い、ばあさんやうからも遠く励ましてくれる。
まるで戦場のそれとは違って、放って置かれるということはないのだ。
5:00になった。夜の担当の看護師さんが挨拶をし、血圧、体温、酸素の飽和度を計る。
左鼠径部の動脈採血の絆創膏を取る。吸呑みに水を汲んで私の含嗽うがいを手伝ってくれる。
ありがたいことに入れ替わり立ち代りは白衣のナースがやって来てくれて、
点滴や血や酸素の濃度のことばかりではなく、純度の高いデーターを持ち帰ってくれる。
左手首に巻かれた黄色い輪ッか、そこにはカタカナで私のフルネームと
そしてバーコードが記されてゐる。
本人確認ばかりではなく、生きていたら宮沢賢治や寺田寅彦も天に舞い上がって
喜びさうな機能がいっぱい移し込まれているに違いない。
思い入れで想像すると、それは少なくともスーパーやヨドバシカメラに貼ってある
野菜やカメラのバーコードよりも上質で、さらに高等な機能が盛り込まれているに違いないのだ。
今、点滴はぽたりぽたりと私の体内に落とされ、雫され、
Naを含んだ電解質はたちまちイオンとなって私の末梢まで駆け巡り、
ゆっくりとエネルギーになって私の心臓を胎動させ、瞳孔を開かせ、腕を持ち上げて指にペンを握らせる。
夕刻5:時を回った。
担当のDrがにこやかにカーテンレールを引き開けて入ってきて、
ベッドの上より、さらに真摯な笑顔で「順調ですよ」、告げる。
ベッドをやや起こして、この夕刻のこの時間に、そのやうな事どもを聞かされるとは、
何とこの上もなく好もしいことだらう。
5:15執刀医の荒武Drが見え、
「お腹空きましたか。夕食頂いてもいいんですが、
トイレに行きたくなってしまうので」――
ちゃんと抑制という落とし所も忘れないのだった。
抗生物質の点滴も一つ付け加えられた。
点滴の透明な管は途中で合流し、刻一刻と私の体内に流れ込んでくる。
さまざまな物質が傷口へと集合していく。
炎症を抑え、化膿を防ぐため、屹度、生体はあらゆる指令をやり取りしてゐるのだらう。
ホメオスタシス、生の持続性、それは根本的自然治癒力を助けてくれる。
光速だと地球から月までたったの=1.3秒しかかからないという。
しかし、宇宙の涯までは=150億光年という途方もない時間を要する。
つまり、宇宙と相似形のその一部たる人体は、
その麻酔のキセノンのことでさえ、それが何故、と問われるとその根本はまだ分かっていないさうだ。
人体と、その生体と分子イメージングまで人類は学問の領域では攻め上がった。
しかし、月の領域でさへほとんど未知であるやうに、
月の後ろやそのさらに遠くまで広がる広大な、
膨大な宇宙の量には涯しなく未知なるままのものが多いということである。
そして人体もまぎれもないその領域の一部である。
石光真清さんのご本もまあタイミングがよかった。
それに8月という季節、戦争ものも気が付けば随分と眼に触れた。
福田さんの「山下奉文」も読んだ。
いずれにせよ戦争には死が平気でゴロゴロしている。
「まあ、見事なポーズで――」と云った絵描きさんも居た。
そのご本人はシベリアで捕虜になった。
だが死んでしまへばの話しだが、戦場でも死はそう簡単にはやって来てくれはしまい。
眼を見開いた、或いは苦悶の、或いは放心の諦めの死体は、
もうすでに口もききやうもない物体であるが、
少なくともその死に至る前、その苦痛や、不安や恐れは、
想像することもかなわないほど痛々しい不条理な存在として個人個人を圧迫し続けたに違いない。
戦争で、その戦場で、人はどうやってその傷の痛さに耐えたのだらう。
戦場の傷は恐らくはたいていは孤独で、
すぐに隣の人でさへ、知りやうもなく置き去りにされ放って置かれた。
沖縄戦では少女は兵隊さんの傷口の蛆虫をピンセットで抓み落す。
しかし、眼や鼻から蛆虫が這い出てくるやうになるともうダメなのださうだ。
少年たちもあんまりな栄養失調のためお尻から下痢が垂れ流しになると、
命はもうそんなに遠くはないということだった。
しかし、戦場で呻いてゐる人たちでさへ、
またたまたま看護され看護する人たちが居合わせたとしても、
戦争という計り知れない暴力的空間では、
傷や痛みには、平和で平時である時のそれとは違って、
どうしやうもない断絶、断差、弧絶があったやうな気がする。
傷も痛みも少しも共有できないのだ。
すぐそばの傷がすぐ傍らの死と同様にもっとも遠いところにある。
ひるがえって我々の場合その現状では、
傷も痛みも少しも孤独ではなく、そればかりかすべて気持ちよく共有されているのである。
さてまた一方で、
痛さに対する揺るぎのない自覚、崩れようもない信念はどのやうに醸成されるのだらう。
乃木さんご夫婦のそれはまるで日常の延長のやうに見える。
乃木さんは日課のように鼻眼鏡で新聞を読んでいる。
そして静子夫人もその傍らで普通である。
しかし、その数時間後に二人は明治天皇の御跡を慕ひ自害して果てた(1912年)。
明治の人たちにはまだ、もちろん当然のことながら一般的ではないが、
或特殊な人のもっとも特別な人には、
傷みや死に対するれっきとしてこうした平静な自覚があったと思える。
しかし、人はどうしたら痛みや死に対する馴れや訓練、ましてや積極的鍛錬ができるのか。
精神が先に行ったら、死や痛みはそれほどではなくなる(?)
精神が完結を見たら、生も死もなく、在るのは生死一如・・・
いや、やっぱり刀が腹に胸に突き立ったら、どうしやうもなく痛いに違いないと、
凡人はここにきて煩悶する。
7:00看護師さんが蒸しタオルを持って来てくださる。
本を置き、眼鏡を外す。顔に当てるとほんとうに気持ちがいい。
7:15Drが3名様。
私の和式寝間着の前を開き「腫れ具合はまあまあ」と触診、
「順調です。本も読めるようですし」
母の死を思い出した。
生の了る頃、病院に見舞いに行くと、
母は力ないあはれな眼で私を見たが、もう話しする元気さへなかったようだった。
そして、その母の脚の間から導尿のカテーテルが伸びていた。
我が母のことながら一瞬私はその生々しさにドキッとした。
私は今そして、導尿中である。
正直云って手術室から病室にベッドごと戻って来たとき、
その違和感と不快感は実にたまらないほどだった。
しかし今は「積極的」に、と思うのである。
「積極的」にあの母の不便を、あの母の不快を、あのやるせなさを味わはなければならない。
母が亡くなったのはもう30年前になる。
あの頃に比べたら医療も看護も数段の進歩を見ているだらう。
とすると母の不都合、不快感も痛みも今の私のそれに較べたら比較にならないことに違いない。
にも拘らず私は何としたことだ。
今の私はすでに十分にあわてふためいてゐるのである。
かくして痛みも進歩するのだと勝手に決めつけて、
ペインクリニック、最近は痛みはがまんしてはいけないと、ほうほうの体で痛みから退散する。
7:30(看護士)酸素マスクを外す。酸素の飽和度は98→96に下がった。
「倉石さん、深呼吸してください」。
体温は=36.9に。体がほ照っている。点滴を取り替える。聴診器、導尿チェック。
「お尻見せてください。赤くなってないかどうか」(床ずれ。横向きになる)
「ハイ、大丈夫ですよ」と寝間着を直してくれる。
「含嗽しますか」「はい」。
恢復や酸素マスクと眼鏡かな
酸素マスクと眼鏡だとなかなか鬱っとおしい。
痛みとは何ぞや、痛みとはどういう信号なのだらう。
信号の種類が違う。
この導尿に関しては、この不快感について、男性諸氏には理解していただけるだらうが、
要するに開放感がないのだ。
叱呼の後の開放感がない。
要は四六時中放尿を我慢させられているという感じなのだ。
しかし、この不快感には耐えられる。
なぜなら、Drたちは「明日は外せますよ」と口を揃えて云ってくれた。
つまり「明日は外せますよ」という痛みは、生へ戻ってくる前提の痛みなのだから。
保証が在る。
単純なのだ。つまり明日になれば、なのである。
ところが、ずっと続く痛みというものが在る。挙句の果てが死だ。
さてそして、明日というものが限定されない痛みには、人はどう対応したらいいのだらう。
1944,10月、関行夫(最初の特攻隊長)は、4回目の出撃で米空母を撃沈。
その間天候不順などにより敵を捕捉できず基地に戻ると、挙句は罵倒されることもあったさうな・・・。
1945,8/16日未明、大西瀧治郎(特攻の生みの親とも云われているが)は
渋谷区南平台の軍令部次長官舎において、介錯なしで割腹自決をする。
命が途切れるまで十数時間自分の血糊の中でのた打ち回った挙句の死であった。
「之でよし百万年の仮寝かな」(遺書)
お二方とも死が前提の痛みである。
死に向っての痛み、その痛みは死によってしか解決されない。
そして、我々の緩慢なる死、日々の傷、
しかし永遠に痛いとしたら閉口する。
どうなってんだ!!?