09,8/24(月)晴れ
朝10時には入院の受付が終わって、エレベーターで4階に上がった。
妻も一緒である。
エレベーターを出てすぐ左のナースステーションのカウンターに行き、
リストバンドの装着と、貴重品やロッカーのキーを渡され、お部屋のあれこれの説明を受けた。
と、すぐ隣に点滴棒を手に、お腹を少しかがめるようなお姿で、
エレベーター前にいる老人と眼が合ったのだった。
「生涯でこんな痛いことがあるなんて知らなかった。
ポリープを7つも取ったんですよ。直腸も別に少しとって、・・・心臓が悪いもんですから」、
麻酔をあんまり使えなかったというのである。
点滴をぶら下げて廊下の突き当たり、偶然だが同じお部屋に入る。
後で分かったことだが老人のお名前はKさんという。
パジャマに着替え、荷物を整理してベッドに腰を下ろすと、Kさんのところへドクターが来た。
「どうですか、どんどん動いていますか。大丈夫ですよ、こんだけ動いていれば」。
3時から呼吸器系の検査が入っているようだった。
「下肢に力が入るとね、痛いんですよ」(横になる様子)、ふぅー、と息を吐くKさん。
「はい、じゃあまたうかがいますね」、Drは出て行った。
私がいる中央病棟から外来病棟には、道を挟んで連絡通路が2階に長く伸びている。
看護師さんに案内されて長い通路を渡って外来病棟まで出かけていった。
午前中に外来病棟で麻酔科の先生の検診を受けなければならない。
長い通路の両側の壁にはきれいな写真やら絵画がたくさん飾られて、
通路の窓からは道路のバス停や、女子医大の学校のパティオとかが見えた。
エレベーターを2,3回乗り換えると、しかしもうなにやら迷路に迷い込んだようで方向感覚があやしくなった。
麻酔科は外来病棟の4階にある。
「首を動かしてぐらぐらして、そうこんな風に後ろにそったりすると、
痺れたりしたことはありませんか」
「階段を登って息切れをするとか、運動制限はどうでしょう」・・・。
問診はあれこれと続いたが、とにかく先生に
「痛いのはダメです。とにかく全身麻酔でお願いします」
とだけ伝えた。
昼食の時間になったので、ディルーム近くに行くと、
食事が何段にもなって搬送車に積まれていて、私が自分の名札が書かれたトレーを探し出すと、
「食事、見つかりましたか。よかったですね」
とそこでもにっこりと看護師さん。
昼食はつけ麺だった。
部屋に戻った。Kさんのベッドからカーテン越しに――
「夕方からは痛くなると思いますよ」
「6時間空いていれば大丈夫ですよ」(Drらしい。どうやら痛み止めのお薬の処方のことで)
「ああ、続けちゃあダメなんだ、なるほどね」
「腹帯もあれしましょうか」
「それとね、ここにドレンが入っているんだよね、それがね、ちょこちょこ音がして・・・ああ、これだ」。
しばらくしてDrは出て行った。
すぐに鼾が聞え始めた。午後まだ1時ころだろうか。
(看護師さん)
「Kさん、お背中の管抜きましょうか。痛みが残ってなければ、あんまり使いすぎてもね」(間・・・)
「どう、これでいい ? あれ、もう抜けてましたね。
寝返りかなんか打っているうちに抜けちゃったのかもしれない。
念のため消毒して、絆創膏貼っておきますね」
「はい、もう大丈夫です」「順調ですね」
「一生懸命歩いていますよ」
「すばらしいですね」
「痛くなったらまた声かけて下さい」
「ありがとうございます」。
(看護師さん)
「Kさん、点滴しましょうか」「大丈夫ですか。気分が悪くなったら云ってください」
「もう待てなかったの、分かりました、それはそこにポンと置いておいてください」
「今日は何曜日ですか」
「月曜日ですよ。何かありますか」
「いえ・・・」「起き上がりますか」
「起き上がると痛い。チューブが違うようです。これでいいんですか」
「痛いですか」「笑うと痛い」(・・・)
「水飲んでいいって云われましたよ」「ああ、云われましたか」
「後はこの管だけです。はやいですね」。
お熱を測らせてもらうと云っている。シャワーはどうするとも訊いている。
「いや、入りません。ここにこれがある限り、しょうがない。毎日出ているわけじゃないんですよね」
(どうやら自身のドレンを覗き込んでいるらしい)
「ああ、ほんとだ。これがなければ入っちゃうんだけど、チューブがあるから」。
(私の方に薬剤師の方が見えた)
アレルギーのこととか、タバコは吸いますか、とか、アルコールはどうですか、などと質問される。
「お薬でアレルギーになったことは」
「飲みにくかったお薬はありましたか」。
錠剤がいいか、カプセルがいいか、粉状がいいかとお聞きになる。
カーテンレールを開けてどかどかどか、と若いDrたちが私のベッドの両側に立った。
中の女医さんが「大勢ですがこれが倉石さんのチームです」と自分と皆さんの名前を紹介する。
「安心、安全、安楽に」――診療計画書が提出された。
“安楽”が少しく引っかかったが、続いて「計画し、援助する」と続けて書いてあった。
これらの事柄はお昼ご飯が過ぎて、まだたった2時半までの事柄であった。
これらの間にわたしは頻繁にトイレに出かけ、泌尿器にカップをあてがい一切漏らさずに蓄尿を続ける。
今日の午前10時から24時間、明日の午前十時まで。
蓄尿袋には「ローヤル佇尿袋」とメーカーの名前と、何ccと横にメモリが書いてある。
腎臓機能と麻酔との間に重大な関係性があるようだ。
この日の夕食は麦トロご飯、鯵塩焼き、ナスの揚げ出し。
09,8/25(火)晴れ
朝6時、昼過ぎの1時、夜の7時にと一日3回、
検温、血圧、尿の回数、食事の食べ具合の定期チェックがある。
その都度必ず腕に回されたリストバンドのバーコードを器械で読み取るのだ。
その場でパソコンにデーターを打ち込む看護師さん。
でもなにか自分が野菜になったような気分に。
7時には静脈採血があった。採血は3本である。
ゴム管でぐるぐるっと上腕を絞られる。
「親指を中に入れて手を握ってください」(うーん)
「はい、もう手の力抜いていただいても結構ですよ」(ふぅ―)。
今日の朝食はパンにサラダ(ハム、レタス、白ブロッコリー)をノンオイルドレッシングで。
森永牛乳がついている。おしまいにネーブルを食す。
今日もきれいに晴れ上がっている。
ディルームからは富久の自宅辺りから西新宿の高層ビルの辺りまですっきりと見える。
8:40にはお掃除のおばさんがマスクをしてベッドの周りをきれいにしてくれた。
夕べも血が少し出た様子で痛がってらしたKさん、鼾と輾転てんてんで大変なご様子だったが
(看護師さん)「管が一本取れました。よかったですね」「朝のお薬飲みました(?)」「すばらしい」
「痛みは」「大丈夫」「お熱は」「大丈夫・・・、
でも動くとちくちくしたり、焼け火箸を入れられたような痛みが――」
「今日はお水飲んでみましょう」「今日はお食事は少し固くなりましたか」「七分ですね」
「まあ、順調ですね。ガスはどうですか」「出たり、出なかったり」。
9:00になった。4人のDrが見えた。
「倉石さん、ヘルニア見せてください」(パジャマを引き下げる。触診)。
家族の同意書の説明がコンファレンス・ルームで1時から2時の間に。
「ご家族の方、大丈夫ですか」「はい」
「今日は準備、明日は手術と」「はい、お世話になります。よろしくお願いします」。
友人が差し入れてくれた文庫本、石光真清いしみつまきよの著作を読んでいる。
シベリア出兵(1918年)ころの石光さん自らの「石光機関」の諜報活動と
押し寄せるレーニン共産党革命軍と、
アムール河を挟んだ対岸の中国軍(どうも張作霖が絡んでいる)と、
列強、英・仏・米国などほか、
(バイカル湖以西は英仏、沿海州ウラジオストック辺りの米国それから独立を目指すチェコスロバキア)
赤化を逃れて共和国として独立をかなえたいロシアの諸勢力などとの
権力、思惑、利権、国益をめぐる火花散らす暗躍のお話しなのである。
(ハルビンには東清鉄道総裁のホワルト将軍を首班、
アムール州には民主主義思想のアレキセーフスキー前市長勢力とか、
ザイバイカル州のセミヨウノフ勢力、オムスクのコルチャック黒海提督)――。
ちなみにホワルト将軍には日本の荒木貞夫大佐が付いている。
オムスクのコルチャック提督には英仏が援助をしていた。
赤軍が西のチタ、東のウラジオストック、ハバロフスクから
その真ん中のブラゴベンチェンスクに迫ってきている。
石光機関はこのブラゴベンチェンスクのホテルに設置されている。
そしてこの街にいるのが共産主義の若き情熱家ムーヒンである。
ボルシェビキ・ソビエトは革命の遂行のためにつまり、ドイツと単独講和を結んだ。
英仏、チェコスロバキア軍はロシアのユーラシアの真ん中に取り残されてしまった。
英仏の列強の出兵の要請で日本もシベリアへ、という表立っての出兵だったが、
日本政府にも関東都督府軍にもそれとは別の思惑があったことは明らかである。
また米国のウィルソン大統領も、うわべはチェコスロバキアのオーストリア・ハンガリーからの
独立・民族自決を支援するため、といいながら、
実は日本の満州や中国、シベリアへの進出をけん制していた。
ブラゴベンチェンスクの革命軍(労兵会と赤軍で成っている)とそれを支持する独墺軍の俘虜たち、
それに対抗するコザック兵や街の自衛軍。
そして、アムール河を挟んで対面の黒河には中国警備隊が軍を増強しつつあった。
ムーヒン率いる革命軍とコザック兵を中心とする街の市議会の保守勢力がにらみ合っている間、
物価はどんどん上がっていった。
物流もままならなくなり、商品が商店から消えてなくなっていく。
ところで物の商いを担っていたのが、このときブラゴベンチェンスクに=7000人ほどいた
中国人商人たちだったのである。
中国人の商人たちは物を売る時にニコラス銀貨を要求する。
金や銀の価格がどんどん上がり、一般の紙幣の価値がどんどん下がっていった。
実はちょっと前までは、ブラゴベンチェンスクの市民たちは、
物を売ったりして商いをする中国人を大いに莫迦にしていたものだったが、
今はインフレで、もごとの立場が全く逆転してしまった。
ムーヒンは云ふ。
「この闘争は自国民の間でなされるべき性質のもので、
外国の武器を借りてなすべき性質のものではない」。
※アフガニスタンなどもこの通りのことである。日本の明治維新の例もある。
街の保守勢力がさかんに石光機関に武器や金銭的支援を要請していることを知っていた。
外国の武力干渉を招いたら、戦争と革命で疲弊したロシアは、将来これを排除できなくなる。
いずれの勢力も自国の人民の幸福を願ってのことだが、
石光にはどうしても腰が引けている態度の街の議会の保守勢力の面々よりも、
イデオロギーはともかく正義感と情熱に溢れたムーヒンという若者の方に
シンパシーを感じてしまうのだった。
時に、この当時にこの酷寒の故国から遠く離れたブラゴベンチェンスクに
日本人が=300-400人も居た、という事実が驚きではある。
※久原産業の事務所があった。そのスタッフも石光機関のスタッフを兼ねることに。
(久原産業は明治末から大正の時代の財閥、後に鮎川義介の日産に引き継がれていく)
石光はこの間もハルビンの関東都督府軍参謀本部や
ウラジオストックの日本領事館などに暗号電文のやり取りをし、その作戦の指示を仰いでいる。
なにしろ革命軍もコザック兵、街の自衛軍との戦いはもう刻々と迫っているのだから。
石光のやらなければならないことは、まずなによりも日本人の保護、安全、
できたら街からの退避であり、結氷したアムールを渡って対岸の黒河への誘導、
中国警備軍との交渉あれこれであった。
日本の中央には陸軍大将、田中義一(後の張作霖爆殺時の首相)がいる。
9:06担当の木村看護師が同意書打ち合わせの確認に見えた。
9:30分に、蓄尿は=2500㏄を超えた。
10:20(Kさんである)
「喉がカサカサシテ、エッ、エッと引っかかって、咳が出来なくてその都度お腹が痛い」
「痛み止めしようか。そんなに我慢することないから」
「痛み止りますかね、アー、アー、フゥ」(痰が絡まる音)
「響くんだよ、ささるんだよ、・・・」――。
静かになった。麻酔が効いてきたんだらうか。
しばらくしてすぐに鼾が聞え始めた。