戦争は「なぜ」
①ナショナルと偏狭のあい間に「国賊」という言葉が生み出された。
ではそのナショナル(国粋主義、日本主義)と偏狭(原理主義)をもたらした
思想的背景も検証する必要がある。
とほくは、聖徳太子の「恙無きや」――あたりから。
②経済的疲弊(失業や身売り)。第一次大戦でバブルへ、パンデミックや関東大震災、昭和恐慌に世界恐慌。
③あるいは戦争をすると儲かるグループがいたのか(利権や“アヘン”も)
満州国国債は“アヘン”を担保に発行された。→関東軍などに軍事費。
④「言論弾圧」社会主義、共産主義(「アカ」)に対する徹底的排除思想(憲兵システム)。
⑤誇大妄想“五族協和”“八紘一宇”“アジア主義”“大東亜共栄圏”
⑥軍部の台頭と議会制の行き詰まり
(軍部大臣現役武官制の採用によって組閣に軍部の合意が事実上必要となり、
軍部によるその意向にそわない組閣の阻止が可能となった。「大命降下」に対して「擁立拒否」)
⑦軍部の中の非効率を伴う独特のセクショナリズムと組織の在り様(互いの“ホウレンソウ”無し)
(大本営と参謀本部と軍令部)無益な競争関係と、隠蔽と、誇大発表
⑧明治憲法と統帥権の存在
※統帥権は明治維新以降続いている“薩長の伸長”に掣肘を被せる意味があった。
大本営
1893年(明治26)5月22日公布の戦時大本営条例で設置された天皇直属の最高戦争指導機関。
初め参謀総長が幕僚長となり陸海軍の作戦を指導する点で、陸軍優位の形態となっており、
広島に大本営を置いた。日清戦争はこの条例下で指導された。
1903年(明治36)12月28日、同条例は改正されて参謀総長と軍令部長がともに幕僚長となり、
陸・海軍対等の形態がとられ、日露戦争はこの形の大本営(宮中に設置)において作戦指導がなされた。
日中全面戦争(政府は「支那(しな)事変」と呼称)の勃発(ぼっぱつ)に伴い、
1937年(昭和12)11月18日、戦時大本営条例を廃止し、軍令により大本営令を制定した。
従来、大本営は戦時にしか置くことができなかったが、それを修正して、
事変の際にもその設置を可能にするためであった。
※政府が「宣戦布告」し、兵馬の掌握と命令は天皇にあった。
参謀総長、軍令部総長は統帥権が付与され、以て天皇を補翼する。
軍令部総長
伏見宮殿下を軍令部の総長に担ぎ上げたのは誰か。
そこには深い意図が感じられる。
昭和8年(1933年)10月1日、軍令部総長。
ちなみに、井上成美しげよしの評価としては、伏見宮博恭王だけでなく
全般的に皇族が将官に着くのを好ましく思っていなかった。
理由としては、部下が基本的に意見を言いにくくなることや
部下がその威光を笠に来て道理に合わないことを通す(省部互渉規定改正案)ことを述べている。
ちなみに井上成美は(文民統制)。
■海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、
博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)
軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について
「私の在任中でなければできまい。是非ともやれ」
と軍令部次長に指示するなど、皇族の威光を利用して艦隊派寄りの政策を推進し、
日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持っていた。
太平洋戦争中になっても、大臣総長クラスの人事には伏見宮の了解が必要とされていた。
“やましき沈黙”が支配していく。
乃木さんが自死なされてから、日本にはめっきりと武士が居なくなって、
組織を維持するための維持、官僚だけがはびこってくる。
恥の文化がなくなって、自らの保身にのみ汲汲とする。
偏差値だけの集団、机上の集団と成り果てたのである。
そしてさらに、“生身魂いきみたま”は批判できない、老害が昂然とまかり通るやうになった。
■戦争は一人ではできない。決して一人の戦争などというものは存在しない。
では国家が仕掛ける戦争とは何なのであるか。
誰一人として根底では望んでいないはずの戦争を、
壮大な物語のように、大きな悲劇のように進めていく国家というものは何なんだらう。
国家という単位とは、それを形づくっている国民、負託を受けているはずの為政者、報道、憲法、
――などなどである。
例の「いい人たちが集まって何で悪い組織(「国家」)になってしまうのか」、である。
■百万遍のエピソードを積み上げても何にもならない。
たいていは夏のこの季節が終わるとともに雲散霧消してしまう。
流れを生み出した元、相互監視システム“隣組”のごとき恐怖を隣人に親子の中にさえ植えつけた
法律、挙国一致、大政翼賛会など議会制を破壊し尽くす、
時代と逆行するアイデアを強要したのは誰か、
どんなグループであるのか、明確にしなければならない。
井上成美しげよし
親英米派(条約派)の米内光政、山本五十六の人脈に属し、
日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反対した。
二・二六事件の際の処理や『軍令部令及び省部互渉規定改正案』
の反対等にも見られるように文民統制を重視し、「ラディカル・リベラリズム」を自称し
几帳面、剛直な人柄で道理に通らないこと、曲がったことが大嫌いな人柄だったと伝えられている。
「最後の海軍大将」として知られ終戦後は贖罪のため、殆ど人前に出なかったことから、
「沈黙の提督」とも呼ばれた。
避戦派と開戦派
永野修身、1941年4月9日、伏見宮博恭王の後任として軍令部総長に就任(在任期間は1944年2月21日)。
開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦派の百武源吾や米内光政が
就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。
石油が枯渇するのを恐れて対米早期開戦を主張し太平洋戦争勃発の一因をつくった。
また、その手段として連合艦隊司令長官となっていた山本五十六が
真珠湾攻撃作戦を進めていった際には、投機性の高さを理由に軍令部の課員がこぞって反対する中、
永野はこれを許可した。
「絶対国防圏」
1943,8月ころには「必死・必殺」が言われ始め、
43,9月には大本営は「絶対国防圏」を定めた。
日本が戦争を継続するために絶対に確保しておかなければならない区域のこと。
1943年9月25日の大本営政府連絡会議で決定した。
絶対国防圏は千島列島、マリアナ諸島、トラック島、西部ニューギニア、スンダ列島、ビルマなどを
架空の線で結んだ長大な防衛線で、その目的は
戦争遂行と最低限度の国民生活を営むのに必要な戦略資源地域と補給線の絶対確保にあった。
しかし、国防圏の外側は見捨てられ、後にタラワやマキン、クェゼリンなどの守備隊が玉砕を、
ラバウルでは自給自足自戦態勢を余儀なくされた。
※ここまでの事実は、日本の戦いは「自存自衛」であって、「侵略戦争」ではなかったなどとは、
決して云えない事を物語っている。
1944,2月
トラック諸島壊滅的打撃。
これの責任を取り、参謀総長と軍令部長が辞任し、
後を陸・海それぞれの大臣が兼任するようになった。
東条英機は陸軍大臣と参謀総長も兼ねる。
しかし、これによりさらに陸軍と海軍の作戦は統一性を欠くようになり、混濁の度合いを深めた。
大臣(政府)が兵馬を握ったはずだったが・・・
特攻兵器の試作
1944,3月ころ軍軍令部において特攻兵器の試作、開発方針固まる。
遅れて陸軍も特攻戦法研究着手。
7-9月ころ海軍は震洋(海上特攻艇)、桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)を完成、部隊編成開始。
陸軍もマルレ艇を完成、四式重爆、九九双軽の体当り機への改造着手。
■海軍潜水学校/広島県佐伯郡大竹町/作家城山三郎氏は16歳で志願しここに入学した。
伏龍とは、潜水服を着用し棒状爆雷持って上陸してくる米軍の上陸用舟艇の船底に爆雷を刺突し
爆破する隊員である。当然確実に本人も死亡する。
■海軍は軍令部1~4まであり、その下に連合艦隊が1~6まである。
当時の軍令部第1部長・中澤祐たすく中将は作戦を起案統括。
軍令部2の黒島亀人第2部長は兵器の調達を行う。
当時、特攻兵器の試作に疑義を申す者に黒島は「国賊」と怒鳴りつけたという。
■連合艦隊司令長官・山本五十六の真珠湾攻撃「開戦の劈頭」作戦では、
黒島亀人参謀が空母(航続距離の長い赤城・加賀・翔鶴・瑞鶴の4空母にしていたが、
黒島はそれでは攻撃力が足りないと判断し、蒼龍・飛龍を加えた6空母による攻撃計画を立案した)を、
大西瀧治郎少将と源田実少佐作成による真珠湾攻撃の航空作戦草案。このラインも不思議なラインだ。
Battle of Saipan
44,6/15日、アメリカ軍がマリアナ諸島サイパン攻略に。
マリアナ諸島がアメリカ軍の攻略目標に選ばれたのは新型爆撃機B-29が完成したことによる。
マリアナ諸島が連合軍の手に落ちれば東京など日本本土が攻撃圏内に入るからである。
本土が空襲圏内に入った場合制空権を失っている日本は戦争継続すら困難に陥り、
ひいては民間人に大量の死者を出す事が予想された。
そこで大本営は絶対国防圏を定め、海軍はマリアナ諸島に重装備を含んだ4万名以上の守備隊と、
空母9を含む機動部隊を派遣した(あ号作戦)。
しかし制海権も失っている為輸送は困難を極め、
歩兵第18連隊、第118連隊約1万名は輸送中敵の潜水艦の雷撃により戦地に辿り着く事なく戦死した。
主力の第43師団の輸送も潜水艦の攻撃によって難航し、
兵員の揚陸は成功したものの重火器は不足状態だった。
師団の到着は米軍の上陸の僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。
<サイパン島奪回作戦に関する会議>
44,6/25日、<サイパン島奪回作戦に関する会議>で、席上、
元帥伏見宮博恭王が(生身魂・老害)
「特殊の兵器の使用を考慮しなければならない」と発言。
7/21日、<大海指四三一号発令>軍令部総長は連合艦隊司令長官に「捷号作戦」を指示。
その中の一つに特攻作戦に関する方針が示されている。
1、努めて奇襲作戦を行い、特に好機敵艦隊を其の前進根拠地に奇襲漸減するに努む。
2、潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に務む。
3、局地奇襲兵力は之を重点的に配備し、敵艦隊又は敵進行兵力の海上撃滅に努む。
この奇襲作戦、特殊奇襲兵器、局地奇襲兵力が「特攻」を指すことは明白であり、
この指示は、軍令部が「十死零生」の全軍特攻を決意したことを示している。
■軍令部の源田 実参謀の起案になる10/13日付けの電報には
「神風攻撃隊」とか「攻撃隊名(敷島隊、大和隊、等)」の文言がすでに記され、
電文の発表を士気高揚と国民の戦意振作のため取り計らってもらいたい、と頼んでいる。
この後、荘重な「海ゆかば」の演奏をバックに電文が報道されるようになる。
■大西中将が捷一号作戦の完遂を期して、マバラカット基地で「体当り攻撃」を提案したのは
昭和19年10月19日で、
関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊が出撃したのは10月21日である。
この電文は特攻作戦が正式発令される一週間前に発信され、
「神風」の名称も、大西中将が本居宣長の和歌から名づけたといわれる隊名も、既に記載されている。
「敷島の大和心と人とはば朝日ににほふ山桜花」
■つまり特攻作戦の実際の起案・推進者は軍令部であり、
特攻兵器の研究・開発は神風特別攻撃隊敷島隊が編成される以前から、
既に各方面に亘り組織的に進められていた。
ちなみに源田実は終戦後自衛隊の幕僚長というトップに登りつめ、その後、参議院議員にもなっている。
恥なき文化、「加害者」という自覚がすり落ちている。選んだ国民も国民だ。
だから靖国に、加害者と被害者が一緒になっていても、一緒に祀られていても、
そのむちゃくちゃな不条理・矛盾に疑問だに持たない国民なのだ。
※軍の上層部(加害者)であり、被害者(精霊)である。
「玉砕」
1944,7/7日、サイパン陥落 (守備隊玉砕)難攻不落のはずのサイパンがあっけなく陥落、
日本本土が米軍の爆撃圏内に入った。
戦死 25,000
自決 5,000
捕虜 921
44,7/18日、 東条内閣総辞職。
※東条はこの後、田舎に引きこもって百姓の真似事をしている。お気楽なもんだ。
■特攻とともに、東条が陸軍大臣時代に作った
『戦陣訓』の
『生きて虜囚の辱しめを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』
という思想から生じた『玉砕』作戦も、あまりにも非人間的かつ非科学的であった。
軍事作戦上、勝ち目がゼロな戦争で玉砕するよりは、
捕虜になったほうが、米軍に与える損失は大きかったろう。(渡辺恒雄)
回天採用
44,8/1日、回天を正式に採用。いわゆる“人間魚雷”である。
「○兵器要員募集」とあった。坂本正俊さん(現83歳)は募集に応じた。
行って見ると回天がクレーンで吊り下げられているところだった。
自分の体を兵器に変える訓練が始まった。鉄の“棺おけ”・・・
不安、緊張、恐怖、――。
「若者ですからね、本能的に生きたいという欲求があります」。
軍隊は必然的に「決死」ではあるが、それは生きて帰る道がある、ということでもあった。
しかし、いつしか生還が「あって然るべき」なのに、「あってはならない」
ということになった。
関行男大尉(23歳)
「僕には体当たりしなくても敵空母に50番を命中させる自信がある。
日本もおしまいだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんてね。
僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃないよ。
KA(海軍隠語で妻のこと)を護るために行くんだ。
最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう」
(関行男, マバラカット基地にて海軍報道班員のインタビューに答えて)。
神風特攻隊の第1号として、新妻を残してレイテ沖に散った関行男大尉(10/25日、4度目の出撃で)と、
ポツダム宣言受諾後の1945年8月15日、敗戦を知らされないまま、
新妻を残して最後の特攻隊を率いて沖縄へ飛び立った大分県津久見町に生まれの中津留達雄大尉は、
軍兵学校の同期生(第70期)であった。
Battle of Leyte Gulf
レイテ沖海戦(Battle of Leyte Gulf)とは、
第二次世界大戦中の1944年10月23日から同25日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した。
日本は空母4隻を含む艦船20隻以上を失う(10/24日、不沈戦艦武蔵)。
敷島隊などはこの戦いの捷1号作戦を補完するためにかり出された。
※直前の台湾沖空戦(10/12-16日)で基幹の航空兵力に甚大な損害ができ、作戦遂行も危ぶまれ。
※選び抜かれた精鋭、優秀なパイロットのほとんどを喪失する。
※戦果誤認と“虚報”により、大本営(中央・机上)と現場の方針の齟齬、対立が生じた。
※海軍と陸軍のこの期に及んでの意思疎通のなさが、ルソンからレイテに向う輸送船団に壊滅的打撃を。
※このときの首相は小磯国昭という全く無能にして精神論者、疫病神のやうなリーダーだった。
ダバオにて
昭和19年11月下旬、角田和男氏は特攻隊員として辻口兵曹、鈴村兵曹とともにダバオに派遣された。
到着した夜、歓迎会が開かれた。
そんな中、小田原参謀長から特攻の趣旨について聞かされているかとの質問があり、
角田氏は良く分からなかったと答えた。
参謀長はしばらく考えた後に話し始めた。
■「皆も知っているかも知れないが、大西長官はここへ来る前は軍需省の要職におられ、
日本の戦力については誰よりも一番良く知っておられる。
各部長よりの報告は全部聞かれ、大臣へは必要なことだけを報告しているので、
実情は大臣よりも各局長よりも一番詳しく分かっている訳である。
その長官が、『もう戦争は続けるべきではない』とおっしゃる。
『一日も早く講和を結ばなければならぬ。
マリアナを失った今日、敵はすでにサイパン、成都に
いつでも内地を爆撃して帰れる大型爆撃機を配している。
残念ながら、現在の日本の戦力ではこれを阻止することができない。
それに、もう重油、ガソリンが、あと半年分しか残っていない。
■軍需工場の地下建設を進めているが、実は飛行機を作る材料のアルミニウムも
あと半年分しかないのだ。工場はできても、材料がなくては生産を停止しなければならぬ。
燃料も、せっかく造った大型空母信濃を油槽船に改造してスマトラより運ぶ計画を立てているが、
とても間に合わぬ。半年後には、かりに敵が関東平野に上陸してきても、
工場も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなる。
■そうなってからでは遅い。動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。
しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。
このまま講和したのでは、いかにも情けない。
一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。
敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。
七、三とは敵に七分味方に三分である。
具体的には満州事変の昔に返ることである。
今このときを逃したら、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。
このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の戦場にしなければならない。
■角田和男さんは(現90歳)特攻機の戦果を確認する役目。
「突っ込むのはもう俺だけでいい、戦争はもう止めてくれ」と云っているやうに思えた。
(09,8/11NHK)
※「一撃を加えて、一撃を加えて」と云っているうちに、自らの病痾に蝕まれ、
その断末魔にのたうちまわるやうになる。
<最高戦争指導会議>
1945,1/25日、<最高戦争指導会議>で「特攻を主な戦力とする」と明記、
「各種特攻施設位置図」を作成した。
「1億総特攻」にはしゃぎまわる男がゐた。
人間を自動操縦機の代わりにする。しかし、回天などは=2%の成功率しかなかった。
大西瀧治郎
8/16日未明、介錯無しで切腹、深夜から未明にかけ苦しみの末、十数時間後に絶命する。
「特攻は統率の外道である」
「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」
「すがすがし 爆風のあとの 月清し」(辞世句)
「之でよし百万年の仮寝かな」(遺書)
想定問答
GHQの戦犯狩りが始まった。刻々と情報が入ってくる。
終戦後、軍令部は戦争犯罪に対する「想定問答」を始める。
「現場の熱意から始まった」とする。
「上級指揮官の強制はない」
「作戦ではない(「にあらず」)、もっと崇高なる精神から」(中澤祐中将)
「命令したことはない、青年等は自らの意志に基づいて赴いた」
「軍令部が指令した覚えはない」。
結局“組織的に”特攻を準備していたことは間違いないのだが、
志願「volunteer」ということになった。
「志願」は実際は「半強制」であり、「命令」と云ふ事実となった。
さうしたすべての流れを“空気”と云ふ。
海軍合わせて=5822名の若い尊い命が散華した。
海征かば 漬く屍
山征かば 草むす屍
大君の辺にこそ死なめ
顧みは せじ
(うみゆかば みずくかばね やまゆかば くさむすかばね)
(おおきみの へにこそしなめ かえりみはせじ)