09,5/28(木)曇り雨
毬咲ゐて人の背丈を越へぬべし
交番の並びのあぢさゐが見る間に。
立ち葵登り尽くせば梅雨明けぬ
と昔から云われている。今年は立ち葵の花がいつもの年より早い。
人はみな蜥蜴とかげかなにかロコモーション夏の入口躓いてみる
明らかに季節の入り口ではある。暑くなったり、早くも梅雨冷へたり、
季節もロコモーション、こんな時も人間はリズムが崩れやすく危ない。
初夏や顔半分の髪を切り
洋ちゃんの夏、頭の半分を見事に切り揃えてしまった。二丁目の夏祭り、お神輿担ぎ。
干物焼く鯵にはうすき煙かな
景気はいまいち、薄商い。
索麺に青さは山のものばかり
山菜の青を飾る。
猫道を渡れば夏のご用心
猫も初夏へと、なんとなく道を横切るときも心なし大胆になった。
男も女もみな薄物になり、いよいよ大胆に危ない。
酒処男處と夏の恋
さかんに人は通り過ぎて行く。
四つ辻まで門送りするママさん。
女装して少し疲れて、声はかすれて、少しきれいである。
この時間になるとなにが真実でまたなにが不実なのか次第に分からなくなる。
多分恋が成就し、また失われてゆくから、普通の男の人がたはいもなく女性になるのだ。
“さがり”喰ふブタは真実褒むるへし
ブタの横隔膜? 豚インフルエンザもようやく収まりつつあるのか。味には勝てない。
寄り道はサイン・コサイン夏始む
一個の寄り道がわたしの経済に影響を及ぼす。経済はそれらの集合である。
かこちつゝ街を行き交う人ながらあぢさゐの花毬をととのふ
ボーナスが減ったとか、政府の体たらくとか、この不景気にみな息をひそめて逼塞している。
しかし、街のあちこちにあぢさゐは毬を結び、もうどうにもとまらない。
緑雨そのままにしてものわろし
糠床もしっかり優しくかき回してあげないとね・・・。
戀もまたおんなじだ。
09,5/31(日)雨
雨降れば朴の木の葉のひろごれり
「朴の木もえらいね、みなお日様にあたらうと一生懸命」と妻。
葉はうまい按配にお互いに避けあいながら、でもお日様をできるだけ受け取ろうと、
みながんばってゐる。
けふは一日中雨。
雨降ればよろこぶけふの緑雨かな
与謝野晶子
一人にて負へる宇宙の重さよりにじむ涙の心地こそすれ
1935年与謝野鉄幹没、晶子の追悼歌。
とこしへに同じ枝には住みがたき身となりにけり落ち葉と落ち葉
石田波郷と妻あき子
今生は病む生なりき鳥頭とりかぶと
波郷の一生は病との闘い。
唇に登れる赤や春の雪
葭雀二人にされていたりけり(石田あき子)
プラタナス夜も緑なり夏は来ぬ
新娶にいよめよまさをき梅雨の旅路かな
新婚旅行は伊香保温泉へ。
柳ごおりの旅行カバンには真っ白な手ぬぐいと高村光太郎の詩集「道程」のみ。
「結婚、さかんなる命の始まり──」。
波郷は妻に云ふ、「わたしたちは宇宙の広大な一角に夫婦の筵旗を立てたのだ。今は貧しくとも・・・」。
光太郎の中にも大家族主義が見られないか。
そして筵旗にはプロレタリアートのにおいが感じられる。
波郷29歳昭和17年、戦争が始まっている。
雁かりがねや残るものみな美しき
華北へ出征。長男は5ヶ月、いつまでも膝の上に。
波郷は戦地で結核を得る。
秋の風萬の祷いのりを汝一人に
「辞世句」として出征する。「万」でなく「萬」とした。
敗戦、波郷は昭和21年、友人の西東三鬼と「現代俳句協会」を立ち上げる。
俳人の生活安定をはかる。
昭和23年、35歳で再発、清瀬の結核病棟へ、
妻あき子は二人の幼子を預けて、夫の看病に往復5時間の道を、泊り込みは4ヶ月に及ぶことに。
その年の冬、2回にわたる大手術、しかし、菌は残った。
24年にもう一度の手術が行われ、
25年、退院。
「水仙花三年病めど我ら若し」
療養俳句の嚆矢となる「借名」をもにのし、
28年に「鶴」を復刊する。
また「石田波郷全句集」を出し、読売文学賞を受賞する。
虚子のあとを継いで、伝統ある朝日俳壇の選者の一人になる(中村草田男、星野立子)。
「楡の花夫に寧やすき日いつまでも」(石田あき子)
昭和40年、波郷、再発。妻あき子も過労のため狭心症に陥る。
「見舞はねば夢にまで来る星祭」(石田あき子)
「このままの晩年でよし蝸牛」(石田あき子)
昭和44,11/20日、原稿の最終チェックが完、あとは波郷の序文ばかりとなった。
呼吸困難の発作が襲ってくる。
波郷の震える文字がノートに「呼吸困難」「妄想」・・・。56歳没。
あき子の句集「見舞籠」が出来上がった。
「わたしが何処に居てももはや夫の心は離れることはない」。
「枯野見る夫を背中に感じつつ」
魂は秋空に吸い込まれていった。