覚べえておかなくっちゃいけないね、と云ってば様は戒名を持ってきた。
「けいみょお」とば様は云った。
亡くなられたこの家のご先祖さまからの戒名が束ねられている。
天保8年より、つまり、1837年、あの大塩平八郎の乱があった年からだ。
古いものはみな煤けたやうな黄ばんだ色をしていた。
長いながい歳月がみんなの上を通り過ぎていった。
浅利の龍雄お父様が亡くなったのが昭和35年、
63歳の時に中風になって寝たきりになる。70歳で亡くなった。
カンベさんという古いご本家からシンヤといふ分家に出たのがヤソ次郎さんで、
その息子が龍雄お父さんになる。
龍雄お父さんの連れ合いは荏原からの出で、母の実家だ。
小夜子さんはそこの次女として誕生した。
「わたしはよくは覚えていないんだけどね」とば様は云ふ。
長女の方は久子さんと云ふお名前だったさうな。
ば様が記憶がないほど昔の話だということだ。
久子さんは自転車の事故で亡くなっていた。
あのころ、「自転車なんてえらい珍しいよう」。
お父さんに買ってもらってよほど嬉しかったんだ。
嬉しくて道をぐるぐる乗りあいていたが、曲がりどくなって、電信柱にぶつかった。
ころんどうて、血を吐いた。よっぽど打ち所が悪かったんだねぇ。
「そんなしやぁくんだ顔(つまらない顔)しちょとお、ほら、朝だ朝だ、起きろ、起きろ」。
龍雄お父さんのやさしい声が寝床に聞える。
優さんは小夜子ば様より六つ年下の弟になる。
まだ、ねぶてえずらよ、甘えたい年頃だものね。
「鶏の餌台にあねえ(穴)あいちもうど」、それで顔も洗いっこなしさ、
「あいよ」と優は鶏小屋に飛んでいく。
田舎の朝ははええさ、寝てなんかしちゃえられんさ、
与太顔の勝さんの顔も次第にしゃきっとしてくる。
ああ、そんな元気のいい龍雄お父さんも中風になってしまうのだった。
PTA会長もやっていたお父さんは、ある日自転車をこいで学校へ向かった。
「四眠の干し」の時だった。もうお蚕は一さら食べんずら、
枝で桑をやってんから縄まで敷いて・・・。
そして、甲府まで自転車こいで。でもお父さんは何か変だと体の異常を感じる。
脚をいくらやってても、おかしいら・・・ついに自転車に乗ったまま倒れた。
運がよく、通りかかった人がいた。
「いいあんべえに話してくらいしょ」、お父さんは民生委員もやっていたので、
すぐに浅利の人だと分かってもらい、自宅まで運んでもらった。
63歳のときさ、それから7年間も寝たきりになった。
人望があったんだねへ、訪ねてこられた方が、
「神も仏もありゃせんねぇ、こんな体になって」と、枕元で嘆息されたとよ。
薔薇の花が真っ赤に咲いた。
3日も降り続いた雨もようやく上がった。
じ様も下の葡萄畑に杖をついて下りていく。
ベリAの蔓の誘引である。
蔓は雨で一層の勢いを得て、けふの青空と強い光の下でぴかぴか葉を光らせている。
今の時期に適当な方向に蔓を誘引しないと、蔓はなんにでも絡み付いてしまう、
もうとんでもないことになるのだ。
誘引ややがて緑に溶け入りぬ
じ様の頭は棚下に隠れる。棚下は太陽で影が緑の縞模様に広がっている。
つくづく、とば様は思ふ。
「ありがたいよう、おじいちゃんのお陰だね、わたしが元気をもらっているのよ」。
そんなば様も実はじ様と同じやうに齢をとりつつあるのだ。
風呂場を掃除していて、浴槽の中へ頭から突っ込んだ。
うっかりだねへ、気が緩んでいたずらよ。何かあっと――
「しっかりしろ小夜子、まったくなんてこった、しっかりせな」
お風呂場でそんな自分をいぶかしみ、あきれ、自分を叱り付けた。
じ様はウロガードを付けたままお風呂に入る。
もし万が一雑菌でもへえったら大変だ。
ば様はいつもながら浴槽をぴかぴかに掃除する。
櫛形や霧の衣をほしいまゝ
久しぶりにやっと晴れた。
田も畑からも百姓家からも見る見る水蒸気が蒸発していくのが感じられる。
櫛形山は朝まだき、陽の光の中でガスに取り囲まれて、
頂上のあたりは真みどりに、その上に真青な空が広がった。
お百姓さんはほんたうに太陽さんが照らないと仕事がはかいかないねへ。
きょうのお天気で村中のお百姓さんが一斉に野良に出る。
朝から消毒のSSの音やら、何やかやと畑は活気ずく。
義兄さんは朝もはよから4反歩の葡萄畑の消毒に向かう。
義兄さんのSSの音がうがうと百姓をしに朝のまだきに
朝5時には消毒液をSSに満たして、4反歩の葡萄畑を目指して真っ赤なSSを運転していく。
きのうまで雨が降り続いたのでSSは棚下に入れず、
わたしがホースを手繰ったり、導いたりお手伝いをする。
薬はベト病と病害虫のため。
わたくしも屋敷の周りの畑からあっちこっちにある畑や葡萄畑、柿畑に除草機をかけた。
土がきれいにひっくり返っていくと、鳥たちがたくさん舞い降りてくる。
蚯蚓だの虫だのをついばみに来るのだ。
除草機のうるさい音にも少しも頓着せず、わたしの周りをぴょんぴょんはねる。
首を前後に振って、不思議だねへ、いつ見てもあの歩き方は。
真ッさらになった、とば様は嬉しがる。
お天気になるとみんなの顔が嬉しい顔になる。
葡萄の蔓も葉もぴかぴかで、棚下に隠れるじ様の顔もうれしさうだ。
老人の顔真新らし田も畑もぶだうの蔓の三尺伸びた
じい様の顔はなんだかどんどん若返っていくようだった。