09,5/4(月)晴れ
この日は横田に父・母のお墓を訪ね、花を活け、墓石に水をかけまわし、お参りする。
長野市内に戻り、兄の家に泊めてもらうことにする。
呑むほどにゑうほどに昔話に花が咲く。兄は次第に胴間声に、むかし懐かしければ声も上ずる。
犬も台所に上げられ、犬もすっかり家族だ「待て、とお手」をする。
「あれを持って来い」ということで、お嫁さんの恵美子さんが掛け軸を鴨居に掛けた。
甘露のりの法雨あめみづ穂も菊や松竹梅よろづホも弥栄むとぞ寿恵広の里
(祝恵里生誕 昭和四十六年中秋一日大吉祥)
親父の歌である。初めて見たなぁ。
「最初の孫が生まれた。よっぽど嬉しかったんだ」と兄は眼をしばたたかせる。
そんな親父も最後は田舎の老人病棟で酒を飲みながら死んだ。
「でも、おっかさんはかはいさうだったねへ」と恵美子さんは、
「じいちゃんに大事にされなかったなぁ」とお袋は恵美子さんに云ったさうな。
しょんべんと雲古とって貰い、「もういい、もういい」と云って死んだんだ。
おやじはえっこくで、お袋が腹痛がっても、なんだそんなもの、と酔っ払っては怒鳴りつける。
裸電球の下でなぁ。むかしの人は我慢づへなぁ。
とうとう、北信病院に自分でたどり着いたが、そこでばったんだ。
盲腸が破裂してゐて、腸閉塞を起こしてゐた。
一度わたしも北信病院にお見舞いに訪ねたことがある。
お袋の顔はすでに土気色になって、眼に力なく、表情はうつろだった。
裾が肌蹴け、膣から導尿が見える。もうそれすらも気にならないといった様子だった。
うなづいたかのやうだったが、ひと言の言葉もなかった。
人は死んじゃうんだねへ。
優しかったおふくろも、えっこくな親父も、死んでしまった。
まったくなんて云ふことだ、ひとつひとつが取り返しがつかない。
優しくして差し上げる間もまったくないままに、今もって後悔するばかりだ。
お泊りさせていただいた部屋の枕元に都忘れと、白山吹が活けてあった。
朝目覚めると、兄はすでに犬のリンの散歩をおえて、家の裏へ回ったり、表へ回ったり、
もうこの家はすっかりエンジンがかかってゐるのであった。
縁側からサンダルを履いて庭に降りると、「ほらそこに」と恵美子さんが云ふ。
タイツリ草などと云ふ淡いピンクの可憐な花が庭の隅にひっそりと咲いてゐる。
「梶の木なのよ、それは」と恵美子さんはさらに。
梶の葉は長野西校の紋章である。まだ幼い葉っぱは桑の葉に似て、
「字を書いて水に沈めても浮んでくるの」と青春のころを思い浮かべるやうに、遠くを眺める。
お抹茶を立ててもらった。大振りの私の茶碗には「牛に引かれて」の牛の絵が描かれてゐる。
絵柄を向かうに回して、ゆっくりと頂く。
のどを潤し、口中に爽やかな甘みが残った。
犬にも見送られて、兄の家をおいとまする。
森の将軍塚古墳を巡る前に、あの川中島の合戦で有名な「雨宮の渡し」に立ち寄ることとした。
ご開帳巡りて雨宮渡しかな
頼山陽の
「辨聲粛粛夜河を過る
暁に見る千兵大牙を擁するを
遺恨なり十年一劍を磨き
流星光底に長蛇を逸す」
『日本外史』の碑がある。
千曲川と犀川は水温が違い、その温度差がうち混じる合流地点ではいつも霧が発生する。
1561年の川中島の合戦が最大の山場となった。
山本勘助がこの戦いで討ち死にしたとか云ふが、定かではない。
甲府盆地が=20万石のGNPとするとここいらあたりの善光寺平一帯で=22万石もあったとする。
坂城の村上義清は謙信に援軍を申し入れた。
千曲川は古来ナイルの賜物だったのだ。
科野の部落は3000年前の縄文のころから続いている。
森将軍塚古墳は、お山の中腹にある。
古墳博物館や、その時代の竪穴式に近い模式の茅葺の住居群から古墳まで、
1㌔・20分、とある。
登れば分かることだが、眼下には千曲川が蛇行し、その朧のさらに向かうには確か犀川があるはずだ。
右側には低山がぽこん、ぽこんと連なり、
雨宮、森地区、倉科、右前方へ海津城の松代から妻女山へと続く。
善光寺平と呼ぶべきここいらは古来千曲川などの氾濫により、土地が肥えていたのだ。
科野と呼ばれるこの地域にある日、ある時、リーダーが現れる。
不思議だねへ。たいていは目ざとい人に決まっている。声が大きいとか、多少のこすっからさと、
腕力が強いとかね、女にもてるとか、記憶がいいとか、シャーマンだね、骨に傷つけるお祈りもあった。
灌漑の知識、部族の調整能力、まあ生半可じゃなかっただらうね。いやちょっと言い過ぎた。
とにかくこの肥沃な土地はリーダーを必要としていたのだ。
そしてそのリーダーはこの肥沃な土地がよく見えるところに自分の墓所を生前に築かせた。
おおよそ350年ころのこととボランティアの方は説明してくださった。
一日あたり=100人、延べ=500日、通算すると何万人にもなるさうだ。
古墳の上部に敷かれる玉砂利は千曲川から運びあげたという。
空身でも20分の登山はそこそこ汗を掻くと云ふに。
後円墳の竪穴式墓地の扁平な石は倉科の方の地域から運び上げたと云ふ。
子孫だらうか、約100㍍もの前方後円墳の脇のあちこちにはそれから約200年近くにもわたって、
横穴式墓地が築かれる。
中央では、応神・仁徳天皇のころか。
しかし、それはともかく権力とはなんぞや、そして、それに基づくこのころのクニとは何だったのだらう。
今でも多くのアフリカ諸国や、後進国において、垂直の明確な国家の秩序が見られない国において、
往々にして国家が国家の体をなさない国が多いのに驚かされる。いわゆる破産国家だ。
クニには良かれ悪しかれキーパーソンが必要で、それは昆虫の、
たとえば100万の群れを擁するアンデス・アマゾンの軍隊アリのごときものなのか。
女王アリがピラミッドの頂上にいる。その下に体の大きなメジャーが、それよりやや体の小さいサブメジャー、
メディア、マイナーと続く。
体の大きなメジャーがエサを運ぶとき、その先にサブメジャーが眼を光らせ、
メディアやマイナーが行く先に次々と橋を作り、エサの運搬をスムーズに素早くさせる。
メディア、マイナーたちの橋作りは見事で、脚と脚を絡ませて、
どんなところでも一気に通路をこさえてしまうのだ。群れが移動するときも同様である。
蜜蜂の世界でもさうだ。蜂は巣に居るときのお世話をする蜂から、次第に兵隊さんになったり、
エサを運んだりする蜂に進化するらしい。
大きなスズメバチが来ると、あっという間に襲い掛かり包み込み、その体熱で圧死させる。
その間自分たちも多くの犠牲者を出す。
しかし、それらの組織に従属する蜂たちの社会では、たとえば変な言い方をするが、
誰一人として不平不満を言わないのはなぜか、なぜなんだらう。
人間の社会だったら、とうに革命が起っているかもしれないのにだ。
女王蜂が出すフェロモンがその行動基盤をコントロールしているらしい。
我々が教わった歴史的心性といふ拭いがたきものもある。
縄文時代はいざ知らず、銅戈、銅鐸、三角縁神獣鏡のごときもある。
権威、権力のやうなものが、祈りと、儀礼と、何かの形で維持され、
我々の前にそれがまるで唯一の正しきもののごとくに立ちはだかってくるのだ。
銅戈、銅鐸、三角縁、前方後円墳が珍しく、
法隆寺、百済観音、東大寺、大仏さん、が尊いごときも、
そして、たった今、汗をかきかきこの古墳まで登ってきた我々のごときかもしれぬ。
権力は自身の権威・権力を維持するために色々な造作をする。
勾玉であったり、鎧や、墓石を飾る濃い赫のベンガラだったり、祈りだったり、掟だったり、
それらが後世、いわゆる我々が呼ぶ文化だったり、文明と呼ぶものだったりするものになった。
すると昆虫社会のフェロモンとは人間社会集団では文化と呼ばれるものだったりするのか。
しかし群れを為す我々の社会という心性は、一方では強い権威のやうなものを必要としてきたのも事実だ。
お茶、和歌、お花の世界、宗教界の現実の成り立ち、しいていへばその最高の頂点にましますのが、
我らが祭祀と大和文化の擁護者でもある天皇家ということになるのだらう。
累々たるまつろはぬ人たちの群れがいた。逃散のはて、山窩や芸能の民になった多くの人たちが、
いやそれもかなわず、この古墳を築き上げた労働者のやうに、力の前に怖れひれ伏し、
千曲川辺から玉砂利を運びあげた人たちが、竪穴の墓石を運び上げた人足がいたのだ。
文化は、歴史は裏面がある。
柳宗悦が、山本常民が、網野善彦がそれらの系譜を丹念に緻密に網羅した。
眼下の科野のこの肥沃を見下ろして、風の戦ぎに眼を古代へと見遥かすと、
渺渺たる感慨にまたとらわれもするのだった。
村人は甑こしきに蒸して飯を喰ふ犬も飼ひよる科野の村は
400年代のころ、この村落では犬や猫も飼っていた。
鉄製の農具も浸透し始め、土間の囲炉裏で甑で米を蒸して食べるようになった。
まほろばはバンザイをする埴輪かな五月の空のあたゝきかな
上田、佐久周辺の古墳から手をあげて万歳をする埴輪が。笑っているワラッテイル。