09,5/4(月)晴れ

正受庵

飯山に正受庵を訪ねる。

映画「阿弥陀堂便り」の舞台となったところである。

お能の舞台は千曲川の対岸の小菅部落ではあるが――。

千曲川べりは今、菜の花が盛んである。人々がみな菜の花畑に溺れ込みさうな景色である。

蹴落としの石に山吹せかゝりて

昔(1708,4月)、正受老人67歳)を訪ねた白隠さん24歳)が、

ここで正受老人に箒でもって蹴落とされ「このど盲らめ !」と、その高慢をへし折られたという。

白隠さんはそれからさらにまた修業して、正受さんの法統を継ぐことになる。

ケヤキの大木がある。狭い石の段の径を上がっていって庵にたどり着く。

左のがけからは山吹の花が径にせかかり、

右下の斜面には著莪の花が白い花穂を点々と散らしていた。

庵から千曲川方面をのぞくと今では家屋が櫛比しっぴしてゐるが、

当時はさびしい村はずれで、そのあたりは田んぼや雑木に覆われていただろうとも云ふ。

飯山城主の松平さんは正受に深く帰依し、そのあまりの質素を心配し、何か寄進をと申し出たさうな。

正受さんは一切を固辞し、それでもと云うお殿様に、ではお城にある形よい石の一つをとお願いした。

拝領の水石と呼ばれるその石は、軒の突き出た角に置かれ、

三百年近くの歳月に雨樋にうたれ、穿たれてなだらかな凹みを見せている。

訪れる人達の手で撫で回されて今ではすっかり黒光りしているのだった。

正受さん1721年80歳で没。


一日の暮らしと云ふも水石のさざれて円く愛敬あいぎょうのあり

正受さんの「一日暮らし」。大悟徹底。石は雅致に富み愛敬あり。


山吹や昔を語る正受庵

先生は教員の研修を受けに飯山に来た。21歳ぐらいのころだ。

何しろ戦後と云うこともあって若者にはカネがない。

この寺を訪ない、宿泊をお願いした。

住職は快く受け入れてくれて、そこで先生は庫裏に寝起きをし、研修に通った。

先生は賽銭箱に千円札を入れて、庫裏に向かって手を合わせる。

それから縁側に腰掛けてそんな話をしてくれた。

これも拝領の一位(栂とが)の木が左手に、雪支え棒に支えられて、

縁側の前には小さな池がしつらえられて、蛙の声がのどかにあたりをつつむ。


かはづ鳴く正受の人の声聞きぬ

まるで正受老人の明朗な声のごとくに長閑にあたりを包んでいる。疑うことなく今日を生きよ──。


禅寺に声なき主やかはづ鳴き

禅道場は深閑として誰もゐない。


正受老人の「一日暮らし」とはそのやうなものであった。

指し当たる事のみばかり思へただかへらぬ昔知らぬ行く末

坐死 末後一句/死 急難道/言無言言/不道不道

この遺偈を残し享保6年10/6日暁、80歳で入寂。

「坐死し末後の一句 死は急にして道い難し 

無言の言を言として 道わじ道わじ」


石の上に桜の落ち葉堆うずたかし正受老人ねむりて在ます

島木赤彦の歌が建立されている。歌碑は「担雪会」建立。


中野にでて富倉お蕎麦屋さんを尋ねるも満杯のウェイティング。駐車場にも入れない。

仕方がないので、中野駅前の方にまわり、戸隠お蕎麦屋さんに入る。

これが結構いけるのであ。富倉蕎麦ほどの野趣はないが、品格整い、自然である。

天ぷらにはなんと“こしあぶら”が。

先生が「どこで ?」と訊ねると、「志賀高原の」むにゃむにゃとなった。

なるほどね。でも、むまいなぁ。


戸隠の蕎麦待つ間にも二合半

中野駅前のお蕎麦屋さんで昼食をいただく。こしあぶらの天ぷらもなんと。

升升繁盛(半升)。気が付いたらいつの間にかまた満員御礼に。

「二合」でますます、「半」は半枡で繁盛、と相成る。

「其味只自知」という扁額あり。

駅前のロータリーの角に慧玄さん誕生の地、ていふ看板が建っていた。

関山慧玄は信濃の国が生んだ大禅師である。

高梨のお殿様の累に繋がるとかや。

花園天皇に請われて妙心寺を開山する。

大燈国師の認可と推挙を得たうえのことであった。 

 

たいしたお坊さんだねへ。一切の頂相を作らせず、名も、栄達も、

妙心寺の繁盛さへにも興味を示すことなく、

しかし、その禅は厳格そのものであったさうな。

「庭前の柏樹子に賊機あり」

「慧玄の這裡しゃりに生死なし」

迫力のあるなんだか凄みを感じる偈ではないか。

1360年、12月12日、遠いところに行脚に出かけると杖をつき、

そのまま立ったまま向かうに旅たたれた。


南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、

現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。関山の禅は、後に系統に白隠慧鶴 が出て大いに繁栄した。

後、明治天皇から無相大師追諡 された。


中野に関山慧玄さんあり、同時代の夢窓疎石さんは甲府の恵林寺を開山し、

しばらく時代が下って、飯山に正受老人さんあり、と、なんだかここいら辺はすごいなぁ。


中山晋平を廻り、「カチューシャ」と「中野小唄」と、「シャボン玉飛んだ」を聞いた。

「東京音頭」も晋平の作だ。高野辰之といい(「菜の花畑」「故郷」)なんなんだろうね、ここいら辺は。

一茶も中野、湯田中にはずいぶん歌仙を巻いたと云ふし、

小布施には高井鴻山がスポンサーで葛飾北斎が何度も訪れて、あのびっくりするやうな天上画も描いた。

この連休の駆け足の北信濃の探訪も、思ひ出すかぎりにおいて、ただ過ぎに過ぎ行くものを、

その膨大な粒子のきらめきと、ホロニックなそのすべてに表れる「active living intelligence」、

つまり、大いなる造化、ないしは森羅万象の流離離散、集合しまた溶けゆく、分子の般若心経を感じた。

先生を間山にお送りする。

振り返れば北信五岳だ。今は春の霞にぼやけてゐるが、

林檎の花が扇状地を覆い咲き乱れるころは、息を呑むほどの故郷の馴染みの風景を呈観する。

先生のお住いは間山地区でも一番上のほうに位置する。

老少不定の一期、手を振っておいとまするに、先生は去ってゆく私らの車にまず合掌し、

それから深々とお辞儀をなされた。

うくいすや木瓜散りぬるを独活育ち

まだ、まぁだ。