如是我聞―私はこのように聞いた、とアーナンダは云ふのだ。
「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」
世尊のお言葉のままである――。
しかしこのとき、お釈迦さまは村の娘さんから貰った牛乳か何かで食あたり、
お腹の調子が悪く下痢気味だったとも云ふ。
「もうまもなくわたしはこの世から去ることになるが・・・」
アーナンダはまた悲嘆し、涙にくれる。
そんな弟子のアーナンダにお釈迦さまは、なだめるようにやさしく、
もう、泣くんじゃない、この世は美しい、人のの命は甘美なものだ、
とさとしたのである。
閉じられた宇宙では、すべてのエネルギーの総和は変わらない。
従って死は一つのエネルギーが別のエネルギーに変わっていくことに過ぎない。
ホロニックなこのすべての宇宙現象のあらゆるところに、
出たり入ったり、結ばれたり、離れたり、生があり、死があるのだ。
「色即是空 空即是色」
「エネルギーに満たされた『空』という全体の中で、我々に粒子という形で現れたものが『色』なんです」
(玄侑宗久06,10/4日経)
「姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。
まことの仏は、悟りそのものである」
「まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない」。
釈迦入滅後はしばらくは仏像が作られることはなかった。
仏弟子や、在家の信者たちの“造仏熱”を厳しく戒めていた。
長い無仏の時代があった。
長い短いはない、あつい寒いもない、ああだこうだもない、
実相はあるが如きでつねにすりぬけ転変する。
あるいは逆につねにあらゆる諸相にあらわれる。
五感(眼げん、耳に、鼻び、舌ぜつ、身しん)と
阿頼耶識あらやしき、末那識まなしきで世相宇宙観は成り立っているとする。
阿頼耶識を根本識こんぽんじきとし、
一切法は阿頼耶識に蔵する種子しゅうじより転変せらる「唯識所変ゆいしきしょへん」。
つまり私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、
十人の人間がいれば十の世界がある「人人唯識にんにんゆいしき」。
みんな共通の世界に住んでいると思っていたり、
同じものを見ていると思っているが、しかしそれは別々のものである。
例えば、『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』の歌のように、
みなそれぞれにさまざまに別々の世界があるということである。
末那識は自己執着の心で、「自分さえよければいいんだよ」と
声なき声で阿頼耶識(無意識・善でも悪でもない)に囁きかける。
法相宗は修業によって末那識をコントロールし
阿頼耶識にその源泉を溜め込み善行・善心に至る道を説く。
しかし、歯が痛ければ哲学もへったくれもないのである。
「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟くきょうとす」と大日如来は菩薩に答える。
「菩提心」は悟りの心、あるいは自分の勿体、自分への気づき、であるか。
「大悲」は他者を思いやる心、他に対する想像力、他との関係性におけるたえず変化する自他。
「方便」は毎日毎日のことである。倦み飽きることなく食べる、働く、生きる、愛する、暮らす。
たゆまず実践することで少しでも悟りへと近づく。
阿頼耶識に蔵する種子しゅうじが菩提心ということになるのだらうか。
菩提心は体でいったら遺伝子(?)
大悲は体内の水分子系、方便はすると反応系であると考えるとまた楽しい。
天台宗は大乗仏教の宗派のひとつである。
妙法蓮華経を根本経典とする天台教学に基づく。
自身の成仏を求めるにあたって、
まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、
つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、
この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教(小乗仏教など)とを区別する指標とするとある。
あらゆる宗教の根本にあるのは「苦」である。宗教はその時代の「苦」に対する前衛であった。
最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の
融合による総合仏教としての教義確立を目指していた。